王女アリス
 7月に入って2度目の日曜日。天気は晴れ。
僕は公園の芝生の上で仰向けになって空を見ていた。
よく晴れた日曜日。そこいらじゅうに子供の笑い声が響いている。
顔のすぐ横を走り抜けていく靴音が僕の耳を刺激する。
僕は楽しそうに遊んでいる子供たちを見るのが嫌だった。だから仰向けになって真っ直ぐ上に見える 空だけを見つめていたんだ。
その日の空は澄んだ青い色をしていた。そして空に浮かぶ白い雲はまるで綿菓子のようだった。
でも、たった1人で空を見つめているのはとても退屈だ。僕は5分もたたないうちに 眠りに落ちてしまった。

 僕は随分長い間眠っていたのかもしれない。それとも、眠っていたのはほんの一瞬だけなのかも しれない。
とにかく次に目が覚めた時、僕の目に飛び込んできたのは青い空ではなく1人の少女の顔だった。
薄茶色の目で僕の顔を覗き込んでいたのは、僕より1つか2つくらい年下と思える女の子だった。 少女の顔は、僕の顔のすぐ近くにあった。目がクリッとして鼻と口が小さい、とてもかわいい顔だった。
目とお揃いの薄茶色の髪が僕の頬にわずかに触れていた。僕はきっとその気配を感じて目が覚めたんだ。
「あなた、私の王子様?」
少女は僕が目を開けると小さな声でそう言った。声は小さかったけれど、言い方はとてもはっきり していた。少女の顔の向こうには、さっきと同じ青い空が見えた。
僕は体をくねらせて起き上がり、少女の横に腰掛けた。すると今までしゃがんでいた 少女も芝生の上にお尻をのせてちょこんと座った。
穏やかな風が少女の髪と白いワンピースの裾を揺らしていた。 僕はその少女から何か不思議なものを感じ取っていた。 薄茶色の髪と、お揃いの色をした目。裾の広がった真っ白なワンピース。そのどれもが眩しいくらい 輝いているように見えたんだ。
「私はアリス。生まれ変わる前は王女様だったの」
少女は僕の目をじっと見つめ、はっきりとそう言い切った。
僕は少女の話にしっかりと耳を傾けた。 もしかして、と思ったけどやっぱりそうだった。この子は妖精なんだ。
「私は妖精に見守られながら王子様と2人で幸せに暮らしていたの。でも、私たちの幸せを妬んだ悪魔が王子様を殺しちゃった」
少女は緑色の地面をじっと見下ろしながら話し続けた。時々吹く弱い風は草の香りを僕らの所へ運んできた。
僕らの周りには大勢の子供たちが駆け回っていたけれど、少女はその子たちの事を全く見ていなかった。
僕は少し離れたブランコの近くで群がっている同級生やその周りにいる 見た事のない女の子たちが僕らに注目しているのを知っていた。 いや、もしかしてあいつらが注目しているのは僕と話をする美人で物好きな少女の方だけだろうか。
僕は一瞬そう思ったが、すぐに考え直した。あいつらにはきっとアリスの姿は見えない。
「でもね、王子様は新しい人間に生まれ変わったんだって。だから私は生まれ変わった王子様を探し続けてるの」
「ふぅん。そうか」
僕が相槌を打つと少女は視線を上げ、僕の目を覗き込んでもう一度問いかけた。
「ねぇ、あなたは私の王子様?」
僕の心臓はドックン、ドックン、と大きな音を鳴らしていた。 でもきっとその音は弱い風の音にかき消されて少女の耳には届かなかった。

 僕は一瞬だけ少女にウソを言ってしまおうかと思った。
「そうだよ。僕が君の王子様だよ」
僕がそう言ったら少女は満足してかわいらしい笑顔を見せてくれるかもしれない。そして僕と仲良くしてくれる かもしれない。
でもやがて僕のウソに気付いた少女は傷つき、人を信用できなくなってしまうかもしれない。 それに、もう本物の王子様に会えなくなってしまうかもしれない。
やっぱり、ウソはいけない。僕は王子様なんかじゃないんだから。
「ごめん。僕は君の王子様じゃないよ」
僕の言葉を聞いた少女はがっかりした様子で立ち上がり、「ばいばい」と手を振って薄茶色の髪と白いワンピースの裾を 揺らしながら走り去った。
僕はまた1人ぼっちになってしまった。でももう芝生の上に寝転がって空を見る事はしなかった。

 僕は10歳になった今でも妖精の存在を信じている。
妖精は絶対にいる。僕にはそう言い切れる。
だけど妖精を信じない同級生たちは僕の事を大ウソツキだと言った。
だから、僕は晴れた日曜日に1人ぼっち。でもそれでもいい。僕は今日、本物の妖精に会えたから。

 家へ帰ると、リビングは静まり返っていた。テレビも消えたままだ。
お母さんは仕事部屋にこもって童話を書いているのだろう。
僕はベランダの向こうに見える透き通るような青い空とハート型の白い雲を見つめた。あの白い雲の上から妖精はやってきた。 僕はそんな気がしていた。
僕は壁一面に広がる大きな本棚の前に立ち、1冊の童話の本を取り出した。
その題名は "王女アリス" 作者は桜井かおり。僕のお母さんだ。
僕は空色のソファに腰掛け、ゆっくりと本を広げた。ソファはお日様がたっぷり当たって、とても温かかった。
最初のページを開くと、そこには幸せそうな2人の姿があった。白いドレスを着た王女様と、白馬に乗った王子様。 2人は妖精たちに見守られながらじっと見つめ合っていた。
僕はそれから数ページを読み飛ばした。そして何枚かページをめくると、僕の1番好きなシーンが出てきた。 王子様を失ったアリスが希望を取り戻すシーンだ。

 王子様が死んでからというもの、アリスはベッドに寝たきりでただただ泣いてばかりいました。 アリスは何を見ても王子様の事ばかり思い出してしまうのでした。
バルコニーから遠くの山々を見ても、自分の姿を鏡で見ても、柱の小さな傷を見ても、とにかく 何を見ても王子様との思い出が頭に浮かんでしまうのです。
だからアリスはベッドに仰向けになり、四角い天窓から空だけを見つめる事にしました。アリスは何も食べず、何も飲まず、 3日以上寝たきりで空を見つめていました。
お日様が出ている間は青い空と白い雲を見つめ、夜になると真っ黒な空と輝く星だけを見つめ、涙を流し続けていたのです。
アリスの元へ天使がやってきたのは、王子様が死んでから4日目の朝でした。
天使は白い雲の上からゆっくりと舞い降りてきました。天使の白い羽はとても丈夫そうで、金色に輝く髪はサラサラでした。 でも天使の輪は金色の髪よりもっとよく光っていました。
アリスは久しぶりに空以外のものを見つめました。それはアリスの傍らに舞い降りた優しい天使の姿だったのです。
天使は悲しみに暮れるアリスに優しく語り掛けます。
「アリス、泣かないで。あなたはきっとまた王子様に会えるから」
アリスは天使の声を聞いて今まで以上に泣きました。そして天使にこう言いました。
「いいえ。私は王子様とは二度と会えません。だって、王子様は死んでしまったのです」
すると天使はアリスにこう言い聞かせました。
「王女アリス、あなたは妖精になって王子様を探しに行くのです。ただし妖精の姿はその存在を信じる者だけにしか 見えません。また、王子様はすでに他の人間に生まれ変わっています。生まれ変わった王子様がどんな姿に なっているかは分かりません。でもあなたが王子様を愛し続け、王子様が妖精の存在を信じている限り、2人は必ず再会 できるでしょう」
その時、涙で濡れたアリスの目にひとすじの光が見えました。それは希望という名の光でした。

 背中の後ろのドアが開く音を聞いて、僕は "王女アリス" の本を閉じた。
本当は本なんか見なくたってこの物語は全部暗記していた。小さい頃お母さんが何度も読んで聞かせてくれたからだ。 僕はお母さんのお腹の中にいる時からこの物語を聞いていた。
"王女アリス" の物語は、妖精になったアリスが王子様を探す旅に出るところで終わっている。
「啓太、帰ってたの?」
お母さんの声を聞いて僕は後ろを振り返った。
お母さんはピンク色のジャージ姿だった。パーマのかかった長い髪はボサボサで、あっちこっちにはねていた。 そして昨日から徹夜で仕事をしていたせいか、目の下に隈ができていた。
「夕ご飯、何にしようか。出前でもいい?」
お母さんは掠れた声でそう言いながら僕の隣に腰掛けた。それから僕が持っている本を見て、ちょっと嬉しそうな顔をした。
「啓太、それ読んでたの?」
「うん」
僕はお母さんに "王女アリス" の本を手渡した。するとお母さんは懐かしそうに本を開いて中の挿絵を見つめていた。
いつの間にかベランダの向こうには夕焼け空が広がっていた。
「ねぇお母さん、僕今日妖精に会ったよ」
僕がそう言うとお母さんの顔にエクボが出た。
「どんな妖精だった?」
「王女アリスの妖精だよ」
お母さんは右手で僕の頭をなでながら満足そうに何度もうなづいた。
「妖精はね、妖精の存在を信じている人だけにしか見えないの。だから啓太にはアリスの姿が見えたのよ」
お母さんの顔の向こうには真っ赤な夕焼け空が見えた。

 お母さんだけは信じてくれると思っていた。
僕はウソなんかついていない。今日出会った少女だって、ウソツキなんかじゃない。 お母さんも僕もアリスも、妖精の存在を信じているだけだ。
やっぱりアリスにウソをつかなくて良かった。
僕が本当の事を言ったから、アリスは王子様を探し続ける事ができる。
薄茶色の目をした妖精アリスは、いつか必ず王子様と会える日が来るだろう。 そして2人は今度こそ幸せに暮らすだろう。
でも、僕が王子様だったら良かったなぁ。
僕はそう思いながらお母さんの向こうに見える夕焼け空を見つめた。 ハート型の白い雲は、もうどこにも見えなかった。

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