「痛い……」
最悪だ。坂道でスピードを出しすぎてしまった。風に背中を押されてしまったんだ。
忙しい朝の通勤時間。
僕は急な坂道で自転車と共にハデに転んでしまった。かっこ悪くてしょうがない。
足が痛い。それでも僕は何もなかったかのように立ち上がり、歩道に倒れた自転車を起こした。
新しい自転車なのに、電柱にぶつかったせいでハンドルが曲がってしまった。黒い塗装も少しハゲてしまった。
歩道の上に投げ出されたかばんを拾おうとしてしゃがみ込んだ時、右足首に激痛が走った。
足元に目をやると、白いソックスに血がにじんでいた。
それでもとにかく急がなきゃ。会社に遅れる。
僕はハンドルの曲がった自転車を押して歩いた。もう二度と転ぶのはごめんだ。
朝は皆忙しい。
自転車で転んだとしても、手を差し伸べてくれる人なんか誰もいない。「大丈夫ですか?」の一言もない。
でも、そんな事を期待しているヒマなんかない。
車通勤の連中はエアコンの効いた車内からハデに転んだ哀れな男を見つめて笑っている。
でも、そんな事をなげいているヒマなんかない。だって、朝は僕も忙しいのだから。
そう思って気を取り直した時、突然灰色のアスファルトが黒く染まり始めた。
最悪だ。雨が降ってきた。
真夏の雨はまるで生温かいシャワーのようだった。
えっ!?
僕は前を歩く人たちを見て唖然とした。
皆いっせいにかばんの中から折り畳み傘を出し始めたんだ。そして皆当然のように傘を広げ始める。
赤、黄色、青。僕の目の前でいっせいに傘の花が咲いた。
どうしてだ?
新聞の天気予報は晴れだったはずだ。
なのにどうして皆傘なんか持ち歩いているんだ?
そうか。
今日の朝は自転車に乗ってる人が少ないと思ったら、皆雨が降る事を知っていたんだ。
僕が見た天気予報は昨日のものだったのか?
もう今となってはそれすらよく分からない。
あっ、今頃になって思い出した。今日の朝は自転車に乗って転ぶ夢を見たんだっけ。
そうだ。
だから今日自転車に乗るのはよそうと思っていたのに。今の今までそんな事はすっかり忘れていた。
空が恨めしい。
こんな日に限ってお気に入りのスーツを着てきてしまった。
アスファルトが黒く染まっていくように、僕の灰色のスーツも黒く染まりつつある。
坂を下りたら、そこは駅だ。もう駅の入口はすぐそこだ。
雨のカーテンの向こうには赤や黄色の傘を素早く閉じて駅構内へ吸い込まれていく人たちの姿が見える。
生温かい雨のシャワーは容赦なく僕に降り注がれている。
それでも僕は回れ右をせずに会社へ向かうのだ。