彼
 放課後。窓の外はまだ明るい。
クラスメイトたちは授業が終わって次々と教室を出て行った。
日の当たる教室には、1日の役目を終えた机がびっしりと並んでいて。
時々、誰かが忘れていった教科書が机の下に落ちていたりもして。
そして窓際に置かれた白い棚の上には、ヤスコがいた。
誰もいなくなった教室にたった1人残ってヤスコに餌をあげているのは、彼。そして廊下から彼を見つめているのは、アタシ。
ヤスコは真っ赤な金魚で、透明な水槽の中をスイスイと泳ぎまわっていた。
夏のお祭りの金魚すくいでヤスコをすくい上げたのは、いったい誰だったっけ?
クラスメイトの誰かが、小さなビニール袋の中で泳ぐヤスコを教室へ連れてきたのは、8月末の事だった。
その時クラスメイトは全員一致でヤスコを教室で飼う事に決め、同時に当番制で世話をする事を決めた。
なのに10月になった今、もうそんな事は皆忘れちゃっていて、ヤスコの世話をするのは彼の仕事になってしまっていた。
ヤスコの餌代は皆でお金を出し合って買う事に決めたのに、今では誰もお金を集めようとしないし、そんな話すら出てこない。
彼はヤスコに餌をやりながら何か話しかけたりもする。もう今では、ヤスコの話し相手は彼しかいない。
アタシは今まで、何度も何度も見た。
皆がとっくに帰った後流し台で水槽を洗っている彼の姿や、ヤスコに餌をあげている彼の姿を。
彼は学ランの上着を脱いでワイシャツの袖をまくり上げ、時々額の汗を拭いながら一生懸命に水槽を洗う。
その頃もうほとんど廊下に人影はなく、あたりに響くのは水道の音だけ。
ピカピカに磨き上げた水槽をタオルで拭いて窓の外から入り込む太陽にかざす彼の額には、拭いきれなかった汗がたっぷり光っていて。
まくり上げたワイシャツの袖口は、汗なのか水なのか分からないもので濡れていて。
でもそんな事を全く気にもせず、ピカピカに磨いた水槽を見上げて微笑む彼は、すごくかっこいいと思うんだ。

 アタシは彼の事を、おとなしくて、平凡で、目立たない人だと思っていた。
ううん。本当は少し前までそんな事すら考えた事がなかった。
アタシは、彼の声を聞いた事がない。だって、彼はおとなしくてほとんど喋らないから。
でもずっと彼を見つめていたから、それ以外の事は全部分かっているつもり。
彼は3日前、髪を切った。少し前まで前髪が目に突き刺さって邪魔くさそうにしていたけど、3日前からはその様子がなくなった。
彼は3ヶ月前より少し背が伸びた。少し前までアタシが彼を見上げる事はなかったのに今、アタシは彼を見上げている。
彼は1ヶ月前より少したくましくなった。少し前まで学ランが少し大きすぎるように見えたけど、今は肩も袖口もピッタリしている。


 アタシが初めて彼の涙を見たのは、10月末の事。
放課後。1人ぼっちで水槽の前に立つ彼。
アタシは、彼の様子がいつもと違っている事にすぐ気がついた。
彼はいつもならすぐヤスコに餌をあげてボソボソと何かを話しかけるのに、その日の彼は床の上に立ち尽くしてじっと水槽を見下ろしていた。
彼の背中が、いつもとは全然違っていた。アタシはずっと彼を見ていたから、そんな事はすぐに分かった。
どうしてそんなに淋しそうなの? 何があなたを悲しませているの?
アタシは、遠くから彼の背中に必死で問いかけた。でもその声は届かない。だってそれは、アタシの心の声だから。

 彼は水の入った水槽を持ち上げ、それを大事そうに抱えて教室を出た。
アタシは、いつものように少し距離を置いて彼の後を追いかけた。
いつもの彼なら廊下を真っ直ぐに進んで流し台へ行き、ワイシャツの袖をまくり上げて水槽を洗うはず。
なのに、その日の彼はちょっと違っていた。
彼は胸に水槽を抱えたままゆっくりと階段を下りて、そのまま外へ出て行った。
アタシはずっと彼の後を追いかけた。
彼は校舎を出るとその裏側へ回り、綺麗に花が咲く花壇の横にしゃがみ込んで、両手で土を掘り始めた。
アタシはその時、ようやく気が付いた。彼の側に置かれた水槽の中で、ヤスコが息絶えた事を。
彼は赤い花が咲く花壇の土を、必死に必死に掘り返していた。それはきっと、ヤスコのお墓を作るためだ。 彼はたくさんの花に囲まれた場所で、ヤスコを眠らせてあげたかったんだ。
時々強い風が吹いて、花壇の土が舞い上がった。彼はその時目にゴミが入ったようで、細い指で両目を擦った。
だけど風が止んでも彼は時々目を擦った。
アタシは、彼の肩が震えている事に気付いていた。彼の手が涙に濡れている事も、とっくに気付いていた。
なのにアタシは校舎の影から黙って彼を見つめていた。
アタシの鞄のポケットには、赤いハンカチが入っている。アタシの体の中には、水分がたっぷり詰まっている。
なのにアタシは何もできなかった。
彼にハンカチを差し出す事も、一緒に泣いてあげる事もできなかった。
アタシはかっこ悪い。
今までだって本当は彼と一緒にヤスコの世話をする事だってできたし、水槽を洗うのを手伝う事だってできた。
今だって本当はハンカチを貸してあげる事だってできるし、一緒に泣いてあげる事だってできる。
それなのに、アタシはいつも見ているだけ。黙って彼を見つめているだけ。
そんなアタシは、すごくかっこ悪い。

 アタシは彼に背を向け、自転車置き場へ走った。
とっても自分が恥ずかしくて、早くそこから逃げ出したかった。
黒い鞄のポケットには、赤いハンカチと自転車の鍵。
アタシはすぐに自分の自転車を引っ張り出して、早くそこから逃げたかった。
だけど自転車置き場には何台もの自転車がぎゅうぎゅう詰めになっていて、アタシが無理矢理自転車を引っ張り出すと隣の自転車が倒れ、またその隣の自転車も倒れ、結局10台ぐらい並んでいる自転車が全部将棋倒しになってしまった。
アタシは、ちゃんと倒れた自転車を起こそうとしたんだよ。本当に、倒れた自転車を全部起こそうとしたんだ。
でも1台目の自転車を起こそうとした時、アタシは慌てていたから、思わずつまづいてしまって。
ぶざまに転んだアタシの膝からは、真っ赤な血が流れ出してきて。
だからアタシは、そこから逃げたんだ。
アタシはすべてから逃げた。倒れた自転車からも。彼からも。そして、自分からも。
アタシはその後自転車に乗って、時々強い風を感じながらグラウンドの横を走りぬけた。
すると目にゴミが入って、アタシは時々細い指で両目を擦った。
そしてやっと道路へ出たアタシは、自転車に急ブレーキをかけた。
青いフェンスの向こうでは、赤いジャージを着たサッカー部の部員たちが声を出しながらボールを追いかけていた。
アタシの目の前を、赤いジャージの集団が風のように走り抜けていった。
その時アタシは見たんだ。その赤の集団の向こうに見える彼の姿を。
彼はアタシが倒した自転車を丁寧に起こして並べていた。1台1台ちゃんと起こして、ちゃんと真っ直ぐに並べていた。
アタシなんかより、彼の方がずっと悲しいはずなのに。ヤスコが死んじゃって、涙を流すぐらい悲しいはずなのに。
そんな時に人が倒した自転車を片付けられる彼は、やっぱりすごくかっこいい。
遠くで自転車を起こしている彼の姿が急に涙で滲んだ。
アタシが泣いているのは、風のせいなんかじゃない。そして彼のせいでもない。
アタシが泣いているのは、自分のせいだ。
やっぱりアタシはかっこ悪い。
こんな時に自分のために泣いてるアタシは、すごくかっこ悪い。

 次の日の放課後。
アタシは誰よりも早く教室を出た。
アタシはきっと、もう彼を見つめる事はない。ヤスコが死んじゃったから彼も今日からはさっさと帰ってしまうと思うし。
その日の空は快晴で、自転車置き場へ行くとサドルが温まっているのが分かった。
今日は隣の自転車を倒さないように気をつけなくちゃ。
アタシはそう思い、黒い鞄のポケットから自転車の鍵を取り出そうとした。
ポケットの中には、赤いハンカチと自転車の鍵。
でもポケットの中に手を入れた時、最初に手に触れた物はそのどちらでもなかった。
アタシは、手に触れた物をそっとポケットから取り出した。小さくて薄っぺらい、それを。
その時アタシの掌に乗っていた物は小さなカットバンだった。
アタシは急に胸がドキドキして、掌に握り締めたカットバンは一生使わずに取っておこうと心に決めた。
アタシはやっぱりかっこいい。だって、アタシは誰も気付かない事にすぐ気が付いた。
こんな事ができるのは絶対に彼しかいない。
さりげなく、誰にも知られずこんな気遣いができるのは彼しかいない。
あなたは全部見ていたの?
アタシが転んでしまった事も。もしかしてアタシがずっとあなたを見つめていた事も。

 誰も彼のかっこよさに気付かない。
気付いているのはアタシだけ。
他の人には見えない彼のかっこよさ。
それに気付いたアタシは、すごくかっこいいと思うんだ。
こんな不器用なアタシをかっこいい女にしてくれる彼は、やっぱりすごくかっこいいと思うんだ。

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