モラリスト
 懐かしい道だ。
僕は遠い昔、3年間1日も休まずこの道を歩いて高校へ通った。
いつも友達とじゃれ合いながら歩いた道だ。
まさかまたここへ戻ってくるなんて思ってもみなかった。
右に見える広い駐車場は、元は校庭だった。そこには昔、ボールを蹴って走り回るサッカー部員やキャッチボールをする野球部員の姿があった。
しかし今、そこには赤や白の車がズラリと並んでいるだけだ。
サッカーのゴールも、鉄棒も、野球のネットも、もうそこには存在しない。

 今僕の隣には今年18歳になったばかりの息子がいる。
髪を茶色に染め、ダボダボのズボンをはいた無口で愛想のない息子だ。
頬の傷が痛々しい。息子は右手で松葉杖をついている。
だが昔と違って正門へと続く道は綺麗に舗装されているから松葉杖をついていてもわりとスムーズに歩く事ができるようだ。
暑い。汗っかきな僕はハンカチが手放せない。しかも今日は風もないし、湿気が多いからいつも以上に暑く感じる。
しわくちゃになったハンカチで顔の汗を拭きながら空を見上げた。
太陽が雲に隠れてしまっている。遠くの方の雲は黒い。きっとそのうち雨が降り出すだろう。
隣を歩く息子は僕以上に暑そうだ。慣れない松葉杖で歩くのは想像以上に体に負担がかかるのかもしれない。
息子の歩く速度は当たり前だが、非常に遅い。
半ズボンを履いた小さな男の子が走って僕らを追い抜いていった。車椅子の女性がその後に続いてやはり僕らを追い抜いていく。
息子は細い目を吊り上げて前を行く車椅子を睨み付け、チッと舌打ちをした。
僕はあの日と同じように息子の黒いリュックを左手に持ちながらそのおぼつかない足取りに目をやった。

 息子の歩幅に合わせて歩いているので、なかなか前に進まない。
僕はハンカチで顔の汗を拭きながら今度は後ろを振り返った。
そこには昔、ボロボロの木造校舎が建っていた。
外壁に備え付けられていた丸い時計は、たしか9時15分で針が止まったままだった。
玄関の戸は歪んでいてしょっちゅう外れ、教室の壁はやんちゃな男子生徒がボール遊びをするたびに穴が開いた。
ギシギシ言う床。破れてほとんど役に立たない教室のカーテン。机の上の落書き。何もかもが懐かしい。
だがそこにはもうボロボロの木造校舎はなかった。 そのかわりにしゃれた白い建物が建っている。
そして建て付けの悪い戸はすっかり姿を消し、見栄えのいい回転扉に変わっていた。
30分ほど前、その入口から中へ入るとまず僕は恐ろしく高い天井を見上げた。吹き抜けの部分の壁はすべてガラス張りで、明るい日差しが差し込むようになっていた。
入口横の喫茶室では白衣を着た医者や看護婦がお茶を飲みながら談笑していた。
静かな病院の中は、まだ新しい匂いがした。
ガラスを通して入ってくる夏の太陽に照らされながら歩いて真っ直ぐに進むと、案内カウンターがあった。 それはまるでホテルのフロントのように長いカウンターだった。
僕はそこにいた若い女の子に声を掛け、その後で更に奥のエレベーターへと向かった。
病院の建物はコの字型で、エレベーターへと続く廊下はやはりガラス張りになっており、そこから中庭を散歩するお年寄りの姿が見えた。
中庭はかなり広く、小さな池があり、その周りには背の低い木がたくさん植えられていた。
何人かのお年寄りがパジャマ姿で池の中を覗き込んでいるのは、恐らく鯉か何かが泳いでいるせいだろう。

 3階の外科病棟へ行くと、体の一部を失った患者を大勢見かけた。
病棟内は日が差していてとても明るく、やはり新しい匂いがしてベンチがいっぱい並んだ待合室を多くの人々が行き交い、活気さえ感じられた。
僕は一瞬そこが病院である事を忘れてしまいそうになったが、何人もの気の毒な患者を見かけてやはりここは病院なのだという事を自分の中で再認識した。
僕はその人たちを見た時、言い知れぬ不安に襲われた。
病院からかかってきた電話では息子の容態を詳しく聞く事ができなかったからだ。
看護婦に案内されて大勢の人たちがいる待合室を通り抜け、新しい匂いのする明るい廊下を進んでいくと、一層緊張感が高まってきた。
廊下に置かれているベンチには小さい子供と母親の姿が多くあった。人が大勢の待合室で子供が走り回るのを避けての事だろうか。
僕と目が合うと子供たちはきまってにっこりと微笑んだ。中には手を振ってくれる子供もいた。
だが僕はとても彼らに笑い返す余裕がなかった。前を歩く小柄な看護婦の後をついていくだけで精一杯だ。
「先生、葛西さんのお父さんがいらっしゃいました」
やがて看護婦は第五診察室と書かれた部屋へ僕を案内し、そこへ入るなり白衣の医者に向かってそう言った。
診察室へ入ると新しい匂いは消えうせ、消毒薬の匂いが鼻をついた。
医者は僕に背を向けて机に向かい、何やら書き物をしていた。
息子は窓際に置かれた診察台の上にムスッとして腰掛けていた。
だがそんな事はどうでもいい。僕はすぐに息子の両足を見つめ、両腕を見つめ、頭や顔全体を見つめた。
そして、ほっとした。
息子の2本の足と腕はちゃんと胴体と繋がっていた。顔には多少擦り傷が付いていたが、 頭も無事に首と繋がっていた。
やがて医者は背もたれのついた回転椅子をくるりと僕の方へ向け、小さく会釈した。
若い医者だった。細身で目が小さく、眉が薄い。
なんだか頼りなさそうな医者だな。僕は正直言ってそう思った。

 「もう! 大した怪我じゃないならお父さん1人で十分だったじゃない!」
僕の右側を歩く妻が不機嫌そうに声を上げた。
僕はその声を聞いてますます体温が上がった。
太陽は相変わらず雲の陰に隠れたままだ。湿気が多く、暑くてたまらない。
妻は友達と約束があったらしい。なのにそれをキャンセルしてまで病院へ呼び出された事を怒っているようだ。
妻はかなりめかし込んでいた。
20万もするブランドものの白いスーツを着込み、新しく買ったばかりのハイヒールを履いている。
昨日家へ帰ると、美容院の匂いがした。妻は今日出かけるためにわざわざパーマをかけに行ったのだ。
たしかに彼女の髪は綺麗に整えられていた。かなり長かった髪は顎のラインで切り落とされ、夏によく合う 軽いウェーブが一歩歩くたびに揺れている。
妻はほとんど汗をかかない体質だ。僕は始終ハンカチが手放せないのに、妻は涼しい顔をしている。
気合の入った化粧は全く崩れがない。多少目尻に皺が確認できるが、エステのせいか肌はわりと綺麗だ。
だが、目を大きく見せるためのどぎついアイラインはいただけない。赤すぎる口紅もあまり上品とは言えない。
そしてその赤い唇からこぼれる物は文句ばかりだった。
「もう嫌になっちゃうわ。こんな事で呼び出されて」
少し前までの僕なら、こんな時妻を責めただろう。だが今はもうそんな気も失せてしまっている。
僕と妻の会話は、とっくに成立しなくなっている。
「お父さんがいけないのよ! 私はあれほど反対したのに!」
妻の言いたい事は十分よく分かっている。
息子がバイクの免許を取りたいと言った時、妻は強く反対したのだ。
だが僕はそうじゃなかった。
息子は自分がアルバイトして貯めた金で免許取得費用を賄うと言ったのだし、 だいいち法律的に免許取得を認められている年齢なのだから、僕が反対する理由など何もないと思ったのだ。
だがそれは建て前で、反対しなかった本当の理由は他にある。 僕は本当は武志のようなヤツが羨ましかったのだ。
きっと妻は自分の意見が通らなかった事に憤慨していたのだろう。
ずっと思い通りに生きてきた女だから、たとえ小さな事でも自分の意見が通らないとおもしろくないのだ。
息子は母親のヒステリックな叫びを無視してただできる限り早く足を進めようと努力していた。
息子は僕よりずっと前に妻と話す事を諦めていた。妻の関心が来年高校を受験する二男に向いている事は彼にとって喜ばしい事だったのだろう。

 僕らは綺麗に舗装された道を3人並んで歩いていた。
1番左に息子。真ん中に僕。僕の右側に妻。
もうすぐ病院の正門へ辿り着く。正門を出てから真っ直ぐに50メートルほど歩くと国道にぶつかるはずだ。
正門までの道の両側は昔花壇になっていた。園芸部員がせっせと花に水をやっていた姿を思い出す。
だがそこにはもう一輪の花さえ存在しない。花壇があった場所にはただ芝生が敷かれているだけだ。
僕は30年前、今日と同じようにこの道を歩いていた。
なんという偶然だろう。今日はあの日によく似ている。

 武志は松葉杖を下駄箱へ立てかけ、すのこの上に腰掛けて紐を緩めた白いスニーカーにそっと右足を入れた。
下駄箱付近は教室と違って薄暗く、外よりだいぶ気温が低く感じられる。 廊下を走り回っている生徒たちの足音が聞こえないと、ひどく淋しく感じられる場所だ。 ひび割れたコンクリートの冷たい床が、余計に淋しさを感じさせるのだろうか。
やがて薄闇の中で武志は立ち上がり、右手で松葉杖を持った。
僕は面倒くさいから、上履きのままで外へ向かう。そういう所はずぼらなのだ。
築何年か知れないボロ校舎の入口の戸はやたらと重い。怪我をしている武志が1人で開けるのは大変だ。
僕は先に行ってその戸に両手をかけた。やはり重い。それでも 僕は力を込めて分厚いガラスの入った重い戸を左から右へと動かした。 しかし、戸は30センチくらい横に滑った所でレールから外れてしまった。
「ああ、またか」
僕は独り言をつぶやきながら戸の下の方を蹴って再びレールの上へ戻した。
入口の戸はしょっちゅう外れ、そのたびに皆が下の方を蹴るもので、その辺りにはたくさんの靴跡がついていた。
そして入口から外へ出ると1つ大きな段差があって、そこを下りるとやっと地面に辿り着く。 それは松葉杖をついている武志には大きすぎる段差だった。
今まではそんな事気にも留めなかったが、武志が事故ったおかげで普段気にならない物が目に付くようになった。
僕は武志の黒いリュックを左手で持ち、重い戸を右手で支えて彼が来るのを待った。
武志は1週間前にバイクで事故を起こし、右足を負傷していた。だが、その事を知っているのはクラスメイトたちだけだった。
バイクの免許を取る事は校則で禁止されていたから、武志は学校へは階段から落ちて怪我をしたと報告していた。
武志は松葉杖をつきながら、亀のようにゆっくりと歩いてくる。
半そでのワイシャツから伸びている腕はあまりにも細かった。 彼はずっと足元を気にしていた。長い前髪のせいでその表情は読み取れなかった。 いつもはやんちゃな彼が、その時は本当に痛々しく見えた。
「悪いな、浩二」
彼は戸を支えている僕に近づくと長く伸びた前髪にふぅと息を吹きかけ、申し訳なさそうにそう言った。
「気にするな。段差があるから、気をつけろよ」
「うん」
彼はやっと外へ出て段差をクリアし、地面に下り立つ所まで辿り着いた。
その時僕たちの背後でバーンという大きな音が聞こえ、僕と武志は同時に振り返った。
それは僕が手を放した戸が閉じる音だった。 入口の戸は歪んでいる上に傾いており、手を放すとものすごい勢いで閉じてしまうのだ。
その戸には分厚いガラスが二重に入れられていた。 そのガラスにはまだ若かった僕と武志の姿が映し出されていた。
青白い顔をした僕と、松葉杖をついている武志。
武志はガラスに映る自分の姿を見つめ、髪の乱れをチェックしていた。 だが僕は乱れるほど長い髪ではなかったので、髪を手櫛で整えるガラスの中の武志をじっと見つめていた。
外は明るく、下駄箱は暗いから、外からは中の様子がほとんど分からなかった。
もしかしてその時もう彼女は下駄箱へやってきて靴を履き替えていたのかもしれない。

 僕と武志は玄関を出てから校門へと続く道を2人並んでゆっくりと歩いた。 でこぼこで、そこらへんに石ころがたくさん転がっている埃っぽい道だ。
外はもう、夏の匂いがした。
武志は「暑い」とふうふう言いながら僕の隣を歩いていた。6月初旬にしてはかなり気温が高かったからもちろん僕も暑かったが、その日は武志の方がずっと暑そうに見えた。
武志は慣れない松葉杖をついていた。だからきっと余計なエネルギーを消耗していたのだろう。
それでも制服が夏服に変わったばかりの僕らはちょっとは身軽で、なんとなく開放的な気分だったように思う。
太陽は雲の陰に隠れて見えない。薄曇りの昼休み。
その日、武志は学校を早退して病院へ行く予定になっていた。 昼休みになってクラスメイトたちは楽しげに昼飯を食べ始めていたが、僕と武志はゆっくりと静かなでこぼこ道を歩いていた。
周りに誰もいないから、本当に静かだった。右手に見える校庭にも、人の姿は全く見当たらなかった。
サッカーゴールも、鉄棒も、野球のネットも、"ただいま休憩中" といったところだ。
登下校の時には他の生徒が周りにたくさんいる。だけど、昼休みの校門付近は本当に驚くほど静かだった。

 「花が咲いてるな」
武志が道の両脇に咲いている黄色い花を見てそう言った。
僕はその言葉を聞いて思わず吹き出してしまった。武志は普段、花を気にするようなヤツなんかじゃなかったからだ。
だが彼自身も怪我をした事で普段気にならない物が目に付くようになっていたのかもしれない。
僕が笑うと武志は目を吊り上げて怒り出した。彼の頬が赤いのは暑さのせいなのか、それとも照れているだけなのか、その時の僕にはよく分からなかった。
「お前、笑うなよ!」
武志は細い右腕で松葉杖を振り上げ、僕を叩くそぶりを見せた。だがすぐに体のバランスを崩してよろめき、振り上げた松葉杖を慌てて地面に下ろした。
とその時、後ろから近づいてくる足音に気づいて僕は振り返った。
するともうすぐそこに、僕たちと同じクラスである田島よし子の姿があった。
彼女はスタスタと玄関から歩いて来た様子だったのに、僕と目が合った瞬間歩く速度を急激に落とした。
だが、どんなにゆっくり歩いても僕と武志に追いつくまでに何秒もかからなかった。
「田島、もう帰るのか?」
僕がそう言った時、彼女はもう僕のすぐ隣へ来ていた。
「うん」
彼女はボソッとそう言って、ちょっと気まずそうにうなづいた。
彼女はしょっちゅう遅刻や早退を繰り返しているような生徒だった。
朝いないと思ったら午後には来ているし、朝いたと思ったら午後からいなくなる。そんな生徒だ。
同じクラスになって1年以上たつのに、僕は彼女とその時初めて口をきいた。 だがそれはきっと武志も同じだっただろう。
彼女は一匹狼だった。他の女子生徒たちのようにグループで行動する事はなく、誰とも口をきかず、いつも静かに教室にいた。
だが実は、男子生徒の間で田島よし子は一目置かれている存在だった。それはなんといっても、彼女が美人でクールだったからだ。
彼女は生徒とも話さないが、教師とも話さない。
担任や生活指導の教師がしょっちゅう彼女をつるし上げ、髪の毛が赤いだの、スカートが短いだのと説教をたれていたが、そんな時も彼女は全く動じなかった。
そういう彼女の毅然とした態度がその頃の僕らにはかっこよく見えたのだ。
男たちにとって、彼女の赤い髪は憧れだった。
風に揺れるあの真っ直ぐな長い髪に触れてみたい。それはきっと、男なら誰でも考える事だった。
だがその時僕は、いや、僕たちは、いつもと違う彼女の側面を見た。
彼女は相変わらずほとんど話をしなかったが、僕たちを追い越さずに武志の歩幅に合わせてゆっくりと並んで歩いてくれたのだ。 それは、彼女が初めて見せる優しさだった。
「メシも食わずに帰るのか?」
武志は長い前髪にふぅと息を吹きかけた後、ちらっと彼女の方を見てそう言った。
すると彼女は「うん」とだけ言い、珍しく愛想笑いを浮かべた。
僕は、いや、僕たちは多分、彼女の笑顔をその時初めて見た。
実際、彼女の目はいつも冷たかった。 多少吊り上っているからそう見えるだけかもしれないが、どうも人を寄せ付けない印象を与える目をしていた。
だが笑った時の彼女の目はとても優しかった。彼女に会うのがその時初めてだったとしたら、きっと優しい人だという印象を持ったはずだ。

 「暑いなぁ」
武志は相変わらずそうつぶやき、毛先だけ茶色い前髪を左手の指でかき上げた。
武志も以前は彼女と同様、教師にしょっちゅう髪が赤いと言って説教をくらっているようなヤツだった。
だが彼は高校2年の秋頃から髪を染めるのをやめていた。 3年になったら就職活動をしなくてはならない。そのために、髪の色を元の色に戻す努力をしていたのだ。
思えば武志の目も吊り上っていて、迫力満点だった。 そのためにちょっときつい印象を与えがちだったが、話すといいヤツだった。
きっと彼女も話すといいヤツなんだ。僕はその時、そう思った。
校門を出て50メートルほど歩くと、国道が見えてくる。
国道を渡るとすぐそこに家具屋があり、その横にタクシー乗り場がある。
僕は足が不自由な武志をタクシー乗り場まで送るために一緒に学校を出てきていた。
武志に合わせて歩くのはちょっとつらかったが、田島よし子が来てからはあまりそれも感じなくなっていた。 かといって、僕らがあの時何か特別な話をしたというわけではなかった。
ただ、静まり返った校庭の横をゆっくりゆっくり並んで歩いただけだ。
武志の制服のズボンは、学校規定よりずっと太かった。彼女のスカートは学校規定よりずっと短かった。
だがモラリストの僕は学校規定通りの細身のズボンを履き、学校規定通りの白いワイシャツを着ていた。
田島よし子は白いセーラー服の丈を学校規定よりずっと短く詰めており、彼女が一歩歩くたびにウエスト辺りの 白い肌が露になった。
僕は時々学校規定通りに刈り上げた短い髪をかき上げるふりをして彼女の肌を盗み見ていた。
彼女は決して自分から話を振る事がなかった。
何か話を始めるのは専ら武志か僕で、彼女はその話にいつもうなづき、そっと微笑むだけだった。
彼女は校門を出て国道へ続く細い道に入ってもまだ僕らと一緒にいてくれた。 門を出てからの道はきちんと舗装されていたので、武志の歩くスピードも少しは早くなったような気がした。
ちょうど昼時だったせいだろう。舗装された道を歩いて行くと、どこからか中華風のいい匂いが漂ってきた。
僕の腹はその匂いに敏感に反応し、グーと大きな音を鳴らした。
僕らはその事で大笑いした。田島よし子も、その日1番大きな声を上げて笑っていた。

 いったい国道へ出るまでどのくらいの時間がかかったのだろう。
石ころが転がっているでこぼこ道を歩き、校門を出てから舗装された道をしばらく歩き、やっと 国道へ出た時、目の前の信号は青だった。
普段ならちょっと走れば渡りきれるところだ。僕は、彼女に早口でこう言った。
「田島、先に行ってもいいぞ」
だが彼女は、うなづかなかった。
「ううん。いいよ」
彼女がそう言った時、突然雲に隠れていた太陽が顔を出し、彼女の面長な顔と白いセーラー服を 照らした。
僕はその時の周りの景色がどういうものだったのかあまり覚えていない。 かと言ってずっと彼女だけを見つめていたというわけでもない。
だが太陽が彼女を照らしたその瞬間だけは、彼女以外に何も見えなくなった。
だからと言って、そんな気持ちをどうする事もできない僕だった。
僕たちは横断歩道の手前で3人並び、次の青信号を待った。
彼女は相変わらずほとんど話さなかったが、それでも僕と武志の会話にうなづき、優しい目をして笑っていた。
武志が事故ったおかげで普段気にならない物が目に付くようになった。
僕は以前から彼女の事が気になっていた。他の男子生徒もそうだっただろう。
だが彼女はいつも近寄りがたく、誰も声をかける事ができずにいた。
だがその日、僕は彼女の優しさを見た。それは武志が怪我をしなかったらきっと気づく事のなかった彼女の優しさだ。
僕は武志の話に相槌を打ちながら、目の前の信号がずっと赤のままでいてほしいと願っていた。
だがもちろん、しばらくすると信号は青に変わった。とても残念だったが、しかたがない。
僕たち3人はまたゆっくりと歩幅を合わせて横断歩道を渡った。途中何人かの人たちが僕らを追い抜いていったが、そんな事は気にしない。
ただ、横断歩道の白い縞模様が、やけに悲しく見えた。
この横断歩道を渡りきると、タクシー乗り場は目の前だ。
だがそこにタクシーが1台も止まっていなければ、もう少し彼女と一緒にいられる。 僕はそんな事を考えながら横断歩道の白線を見つめて歩いていた。
だが、現実はいつも厳しい。
横断歩道を渡りきって顔を上げた僕の視線の先には家具屋の横にズラリと並ぶタクシーの列があった。
平日の昼間にそれほどタクシーの需要があるとは思えない。だからそれは、分かりきっていた事だった。

 タクシー乗り場は家具屋の影になっていて日が当たらず、そこへ着くと急に涼しくなった。
僕らが3人で先頭のタクシーへ近づくと、車の中で新聞を読んでいた運転手がすぐに気づいて自動ドアを 開けてくれた。
「じゃあな、武志」
僕は黒塗りのタクシーに武志が乗り込むと、左手に抱えていた彼の黒いリュックを手渡した。
彼女は僕と一緒に最後まで武志を見守ってくれていた。
シートに腰掛けて僕と彼女を見つめる武志の目は、心なしか少し淋しそうに見えた。
彼は数秒間、何か言いたげな目をして僕らを見つめていた。それは力のない目つきだった。
その日の武志は、ちっとも彼らしくなかった。 彼がいつも強気な目をしていたのは虚勢を張っていただけなのだろうか。
武志が事故ったおかげで普段気にならない物が目に付くようになった。ただそれだけの事なのかもしれないが、 その日の武志はとにかくいつもと違っていた。
それは怪我をして気が弱くなっていたからか、それとも彼も僕と同じ気持ちだったのか。それは僕には分からない。
だが考えてみれば、その日は僕も田島よし子もいつもと違っていた。
でも、いつもの自分が本当の自分だったのかどうか。それも僕には分からない。
武志はそれからすぐにいつもの自分を取り戻し、長い前髪にふぅと息を吹きかけた後、僕らに元気よくこう言った。
「ばいばい」
僕たちは、3人が3人ともそう言い、やがて武志の乗ったタクシーは走り去り、日の当たらないタクシー乗り場の前には僕と彼女だけが残された。
彼女は武志の乗ったタクシーが走り去った方角を見ながら左手の指で長い髪をかき上げた。 彼女はタクシーが見えなくなるまでずっと見送っていた。
顎の尖った横顔がとても綺麗だった。横から見るとまつ毛がものすごく長かった。 ほんのり赤い唇はリップクリームが塗られて光っていた。
僕はその時どうしても彼女の髪に触れたくてたまらなかった。そしてその衝動が抑えきれずに思わず手を出しかけた時、彼女が僕の方を向いて笑顔でこう言った。
「じゃあ、私帰るね。ばいばい」
その時彼女は僕だけを見つめてそう言った。そこには僕と彼女の2人きりだったから当然といえば当然だが、僕は彼女の真っ直ぐな視線に耐えられず、すぐに目を逸らしてしまった。
僕は出しかけた右手を下ろし、思わず拳を握った。
「ばいばい」
僕も、そう言うより他なかった。
それからすぐに僕たちは互いに背を向けて別な道を歩いて行った。
彼女はバスの停留所へ。そして僕は、古くさいボロ校舎へ。
だが、彼女は知らないだろう。僕があの後ただ一度だけ後ろを振り返った事を。

 彼女は時々雑貨屋や花屋のウインドーを覗き込みながら赤い髪をなびかせ、 相変わらずゆっくりと歩いていた。
夏服に変わったばかりの、白いセーラー服が眩しかった。
途中、突然強い風が吹いて白のラインが2本入ったセーラーの襟がまくれ上がり、 彼女は左手で素早くその襟を直した。
彼女はもしかして左利きなのかもしれない。僕はその時、そう思った。

 僕らは病院の正門を出て、国道へと続く道を更に歩いた。
その道の左側は不動産会社の管理地になっていて、人が入り込めないように緑色の柵が立てられていた。
以前その辺りにはアパートが何件か並んでいた。
1番手前には、水色の壁をした2階建ての小さなアパートがあった。僕は見かけた事がなかったが、武志が言うにはそこの2階に色っぽい女の人が住んでいたらしい。
そのまた隣は白い壁のアパートだった。 そこには小学校低学年くらいのチビな男の子が住んでいて、彼はいつも1人でサッカーボールを蹴って遊んでいた。 彼が白いアパートの壁にいつもボールを蹴り込むもので、壁にはいくつもの丸い跡がついていた。
あの子は、友達がいなかったのだろうか。
父親になった今ならそういう事に気が回るのに、高校生の頃は一度もそんなふうに思った事がなかった。
一度くらい、一緒に遊んでやればよかった。
だがもうあの子もすっかり大人になってしまっただろう。 一度も言葉を交わした事のない僕が今こんな事を考えているなんて、大人になった彼は知る由もない。
もうすべてが遅すぎるのだ。
緑色の柵に昔見た景色を重ねて歩いて行くと、やがて左右を行き交う車の列が見えてきた。

 もうすぐ国道だ。
そう思った時、突然車の往来が止んだ。あの日と同じように、信号が青に変わったのだ。
だが僕は、あの日と同じように次の青信号を待つつもりでいた。息子の足ではどんなに急いでも 恐らく横断歩道を渡りきらないうちに信号がまた変わってしまうだろう。
だが妻はその時、もう早足になりながら僕と息子に向かってこう叫んだ。
「ママは先に行くわ。今からタクシーに乗れば約束に間に合うから!」
妻が横断歩道へ差し掛かった時、もう目の前の信号は点滅を始めていた。 だが妻はカツカツと足音を鳴らしながら、早足で歩いていった。
僕と息子が国道へ辿り着いた時は、もう完全に信号が変わって目の前をビュンビュン車が往来していた。
その中には大きく騒音を撒き散らしながら走るバイクがいて、息子は走り去るそのバイクを 目で追っていた。
横断歩道を渡った妻は、家具屋の横を通ってもうタクシー乗り場のすぐ手前まで行っていた。
妻の白い背中がどんどん遠ざかっていく。あの日と同じだ。 僕はもう後悔したくない。今言わなければ、きっとまた後悔を繰り返す。
僕は目の前を往来する車の騒音に負けないくらい大きな声で、どんどん小さくなっていく妻の白い背中に向かって叫んだ。
「和実! ちょっと待てよ!」
妻は振り向かなかった。
だが僕の声が聞こえていないはずはない。妻はただ僕の呼びかけを無視しているにすぎない。
隣にいる息子の視線が痛い。きっと突然大声を上げた父親に驚いているのだろう。
「和実、別れよう!」
僕はこれ以上ないほどの大声でそう叫んだ。
妻はそれでも振り向かず、ただタクシー乗り場の手前で立ち止まった。
「今言うかな、普通」
そのつぶやきを聞いて、僕は息子の方へ顔を向けた。
息子は僕が大きな声を上げた時には驚いたようだが、別れを口にした事には驚かない様子だった。
息子の顔には擦り傷がいっぱい付いていた。息子は目にゴミが入ったようで、続けて何度もまばたきを繰り返している。
その時ずっと雲の陰に隠れていた太陽がやっと顔を出し、まだあどけない息子の青白い顔を照らした。
「大丈夫か?」
僕がそう言うと、息子は左手で目を擦りながら同じ言葉を返してきた。
「そっちこそ、大丈夫か?」
息子はまだ目を擦りながら横断歩道の向こうに目をやった。僕もそれにつられて真っ直ぐに前を見つめた。
左右に行き交う車の向こうに、立ち止まった妻の白い背中が見えた。
だが僕の目に映っていたのは妻の背中ではなく、 30年前にほんのわずかな時間を共有した田島よし子の白く眩しい背中だった。

 今でも思う。
30年前のあの日、どうして彼女を追いかけなかったのだろう。あの時彼女は手を伸ばせばすぐ届くところにいたのに。
僕は、モラリスト。成績優秀でクラス委員を務める、いわゆる"いい子" だった。
中学3年間、高校3年間、ずっと皆勤賞だった。
学校をサボるなんて、考えられない。禁止されているバイクの免許を取得するなんて、信じられない。そんなお堅いヤツだった。
今日僕は、生まれて初めて会社を早退した。
長年続けてきた皆勤賞よりも、怪我をした息子の方が大事だからだ。
父親になった今ならそういう事に気が回るのに、どうしてあの時には分からなかったのだろう。
高校3年間の皆勤賞なんかより、あの日の僕にはもっともっと大事な物があったのに。
だが、もう遅すぎる。もう決してあの日に戻ることはできない。
もう二度と彼女の背中を見つめる事もできない。
あの時彼女を追いかけていたら、今頃どうなっていただろう。
たった半日学校をサボる事がいったいなんだったというのだろう。
あの時武志が事故ったおかげで普段気にならない物が目に付くようになった。 僕はあの日がなければ彼女の優しさを知る事もなかった。

 あの翌日、僕は朝学校へ登校して教室へ入るとすぐに彼女の席に目をやった。
窓際の1番後ろの席だ。だがそこに彼女の姿はなかった。
朝の教室には、彼女のいないいつもの風景が広がっていた。
壁際に集まってお喋りをする女子生徒たち。ボールをぶつけ合って遊ぶやんちゃな男子生徒たち。
ギシギシ言う床。穴の開いた壁。 半開きになっている教室の窓。破れて役に立たないカーテン。
そして窓の外にもいつもの風景が広がっていた。電気屋の赤い看板と、遠くの緑だ。
彼女が教室へ顔を出したのは、午後になってからだった。
だが、彼女に昨日の笑顔はなかった。
彼女が優しさを見せたのはほんの束の間で、明くる日にはもういつもの彼女に戻ってしまっていた。
彼女はいつものように冷たい目をして誰とも言葉を交わさず、席に着いて窓の外の変わらない風景を見つめていた。
僕はもうそんな彼女に声をかける勇気がなかった。チャンスはただ一度きりだったのだ。
僕は彼女と遠く離れた席に座り、彼女と同じように変わらない外の風景を見つめていた。
だがあの時の彼女は僕が自分と同じ風景を見つめている事など気づきもしなかっただろう。

 田島よし子。
彼女は今、どうしているだろう。
彼女の優しさを理解してくれる男にちゃんとめぐり会えただろうか。
それとも、もうとっくに結婚して母親になっているだろうか。
彼女はきっと知らない。
30年たった今も彼女を忘れられない男がここにいる事を。

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