再会
 彼女は夫と再会した。
緑がいっぱいの森の中。童話に出てくるようなメルヘンチックな家の前で、夫と再会した。
「あなた!」
「やぁ、美代子!」
夫は笑顔で妻を出迎えた。
美代子と呼ばれた彼女は大急ぎで夫へ駆け寄り、彼の胸に飛び込んだ。
「会いたかったわ」
「俺も会いたかったよ」
なんというロマンティックな再会だろう。
時々小鳥のさえずりが聞こえてくるだけの静かな森の中。
太陽は輝き、緑色の木の葉は小さく揺れている。
メルヘンチックな家の周りには色とりどりのチューリップが咲き乱れている。
美代子は夫の胸にしがみ付いたまま、以前と変わらず美しい彼の顔を見上げた。
夫は優しい目をして美代子を見下ろしている。
「さぁ、見てごらん。これが僕らの住む家だよ」
夫にそう言われ、美代子は顔を左へ向けてメルヘンチックなその家を見つめた。
それはまるでお菓子の家のようだと美代子は思った。
入口のドアはチョコレート。壁はウエハース。赤く光る屋根はキャンディー。
でも、そんなはずはない。お菓子の家でなんかあるはずはない。
夫と再会できた事で舞い上がっているからそんなふうに見えるだけだ。
美代子はそう思い、今度は家の周りに咲き乱れるチューリップを見つめて笑顔になった。
なんて素敵な所なんだろう。
美代子は夫の手を引いてチューリップが並ぶ花壇へと近づいた。
そして夫と2人しゃがみ込んで赤や黄色の花々を見つめている。
「美代子、家の中を案内するよ。一緒に来て」
「ええ」
彼女は愛する夫に手を引かれ、ドアの前へ立った。
美代子は興奮していた。そのせいか、頬が紅潮している。

 私は絶対に地獄へ落ちると思っていたのに、ここはまるで天国だわ。
いいえ。地獄なんていう所は本当はどこにも存在しないのよ。悪い事をした人を戒めるために誰かが作りあげた虚構の世界なんだわ。
ああ、心配して損した。もしかして夫とはもう会えないかと思っていたのに。
ここはなんて素晴らしい所なのかしら。
ここなら誰にも邪魔されず夫と2人だけで静かに暮らせるわ。
以前はこの美しい夫に近づく女たちにヤキモキしたものだったけど、やっとこれで幸せになれる。
私のした事は間違っていなかったんだ。
だから私はこうして天国へ導かれたんだわ。
美代子はもう一度美しい夫の顔を見つめた。
夫は笑顔で妻だけを見つめている。
ああ、本当にこの人はなんて美しいのかしら。
シミ一つない綺麗な肌。切れ長の目。高くて形のいい鼻。
全部全部、私のものよ。夫は私だけのもの。もう絶対誰にも渡したりしないわ。

 彼女はドアの前で美しい夫をうっとりと見つめている。
僕の役目は、ここまでだ。

 僕は地獄の案内人。今日は彼女を導いてこの森へ来た。
だが彼女はまだ気づいていない。ここが地獄である事を。
彼女は生前、女の魅力は若さと美貌であると信じてやまない愚かな女だった。
たしかに彼女は若さと美貌だけを武器にして美しい夫を手に入れた。8つも年下の、若くて美しい夫を。
しかし、人は年と共に衰えていく。
彼女の顔にシワが刻まれ、腹部に脂肪がつき始めると夫は妻を顧みなくなった。
彼女が亡くなったのは、夫が家を出て3ヵ月後の事だった。

 美代子は家へ帰らぬ夫との関係に散々悩んだ挙句、夫とその愛人を家へ呼び出した。
真夏の昼下がり。張り詰めた空気の中に3人の男女が集まった。
夫は家を出てから3ヶ月間、何を言っても帰って来る事はなかったのに 「話し合いをしたいから一緒に暮らしている女を連れて家へ来てちょうだい」と美代子が言った途端、あっさりと帰って来てくれたのだった。ただし、愛人と2人で。
夫は久しぶりに座るイタリア製ソファの感触を懐かしんでいるように見えた。
しかし、そんな事を思っているのはもちろん美代子だけだった。
彼女はまだ夫に一縷の望みを託していたのかもしれない。
美代子の向かい側には美しい顔をした夫が座っていた。そして、その隣には以前の自分に劣らぬほど若くて美しい女が座っていた。
人形のように美しい顔。その顔を引き立たせる短い髪。
今の美代子ではとても歯が立たないほど美しい夫の愛人。
だけど、絶対夫をこの女から取り戻してみせる。美代子のその思いは強かった。
夫は浅くソファに腰掛け、ただ漠然と下を向いてフローリングの床を見つめていた。
夫の愛人は深くソファに腰掛け、白い壁に飾られた風景画を鑑賞しているようだった。
そして美代子はミニスカートの下に真っ直ぐのびる彼女の細く綺麗なふくらはぎを見つめていた。
綺麗な足。人形のように美しい顔。その両方が、美代子をイライラさせた。
「夫と別れてちょうだい」
美代子の言葉を聞いた夫の愛人が驚いたような顔を彼女に向けた。そしてクスクスと笑い始めた。
夫は美代子の目の前で大きな声を上げて笑っていた。
「俺と別れるのはお前の方だよ。俺はそのつもりで今日ここへ来たんだぞ」
ここへ来た、と夫は言った。
ここはあなたの家よ。ここへ来た、ってどういう事よ。あなたはここへ帰って来たんでしょう?
夫がこれ見よがしに愛人の手を引き寄せ、2人は美代子の目の前で手をつないだ。
美代子はそれを見て逆上した。
冗談じゃないわ。彼のすべては私のものよ。勝手に私のものに触れないで!
美代子はむしろ夫の愛人に向かって叫んだ。
「手を離しなさい!」
「面倒くさいババアだな」
夫のあまりに辛辣な言葉。美代子は言葉を失った。
夫は冷めた目で妻を見つめていた。
目の周りに深く刻まれた無数のシワ。垂れ下がった頬の肉。
視線を落とすと、ポッカリと膨らんだ腹が目についた。
夫は軽くウェーブされた前髪をかき上げ、汚い物でも見るような目で妻を睨んだ。
「もうおしまいだよ。お前の取り得は見てくれだけだろ? 他には何もないんだよ。お前、最近鏡で自分の顔を見た事あるか? 笑わせるなよ。お前は今やただのババアさ」
次の瞬間、夫はもう二度と喋れなくなった。
美代子は立ち上がり、隠し持っていたナイフで夫の胸を突き刺したのだ。

 彼女は夫が自分の元へ戻る気がない事を悟っていた。
夫は3ヶ月間も家へ帰っていなかったし、すでに若く美しい女と新しい生活を始めている。
それに、夫の言う事は正しい。美代子は外見の美しさだけが取り得の女。なのに、彼女はもうそれすら持ち合わせてはいない。
彼女は最初から夫と心中するつもりで彼らを家へ呼んだのだ。

 小柄な美代子は決して力がある方ではない。夫に抵抗されれば彼女のもくろみは失敗に終わったはずだ。
しかし、夫は不意を衝かれてしまった。抵抗する間もなく彼は殺られてしまった。
美代子は気づいていないが、最初の一撃が致命傷だった。彼女は一刺しで彼の心臓を止めたのだ。
彼女に刺され、夫はフローリングの床へ崩れ落ちた。
夫の真っ白なシャツが見る見るうちに赤く染まっていく。
シミ一つない美しい顔はどんどん血の気がなくなっていく。
しかし、夫の指先はまだかすかに動いている。美代子にはそう思えた。
美代子は馬乗りになって夫を何度も何度も突き刺した。腹、胸、腹、胸。
彼女自身が夫は死んだとはっきり認識するまで、その行為は続いた。
そして夫が動かなくなった瞬間、彼女は夫を永遠に手に入れた事を確信した。
しかし彼女はあまりにおバカさんだから、それが幻想である事に気づきもしない。
彼女はその瞬間夫を永遠に失ったというのに。
「キャー」
夫の愛人は悲鳴を上げ、震えて立ち上がる事もできずにいる。 しかし恐怖に怯えるその顔もやはり美しかった。
美代子はたっぷり返り血を浴びていた。とても生温かい夫の血だった。
現場は悲惨な状況だった。
ピカピカに磨き上げられたフローリングの床も、イタリア製のソファも、白い壁も、風景画も、夫も、夫の若く美しい愛人も、そして彼女自身も、全部全部血まみれになった。
「キャー」
うるさい。
美代子はその金切り声から逃れるように今度は自分の腹を突き刺した。
夫の上に乗っかったまま、たっぷり脂肪のついた腹を何度も何度も突き刺した。
絶命する直前、彼女はこう思った。
目の前の若く美しい女は絶対に殺してやらない。
夫と一緒に逝くのは私。私だけと決まっているのだから。

 美代子さん、あなたみたいな人が天国へ導かれるはずないでしょう。
あなたはそんな事も分からないおバカさん。だからここへ連れて来られたんだよ。
あなたは生前、ひどい女だった。愚かな女だった。
夫が愛想を尽かしたのは何もあなたの容姿が衰えたからじゃない。それは理由の一つであって、すべてではないんだよ。
でもあなたはおバカさんだから、そんな事分からないと思うけど。
自分本位なあなたには本当に呆れる。
夫を殺して、自分も殺して、残された家族がどれだけつらい思いをするか分かっているの?
あの血まみれになった部屋を掃除する人の気持ちは考えなかったの?
あなたみたいな人が大勢いるから、僕はいつだって大忙しなのさ。

 あなたはやがて愛する夫に手を引かれ、メルヘンチックな家の中へ足を踏み入れるだろう。
そこからはあなたにとって、まさに地獄。
あの家の中にはあなたなんか足元にも及ばないほど美しい女がたくさん暮らしているのだから。
あなたの美しい夫は自分にふさわしい女たちと毎晩夜を共にするだろう。
きっとあなたはあの家から逃げ出したくなる。
しかし、もう二度とあなたは逃げられない。あの家から、あの地獄から逃れる事はできない。死ぬ事もできやしない。
チョコレートのドアは二度と開かない。
キャンディーで作られたナイフは役立たず。
そう、あの家はあなたにとって、まさに地獄。

 でも、僕にだって情けはある。
言っておくけど、僕はあなた1人を責めるつもりなんかない。夫も同罪さ。
あなたの夫は地獄の住人としてふさわしい人だ。彼はあなたの夫でありながら他の女にうつつを抜かしていたんだから。
夫に浮気を繰り返されたあなたは、かわいそうな人だ。
それ以上に、女の魅力は若さと美貌だけと思い込んでいたあなたは本当にかわいそうだ。
あなたは生前、地獄を生きていたんだね。
あなたの暮らしは今までと何も変わらない。それは、あなたがずっと地獄を生きてきた証。
あなたは毎晩美しい夫に近づく女たちにヤキモキし、夫はそんなあなたに責められ続ける。
そして、その暮らしは永遠に続く。
つまり、これからあなたたち夫婦は一緒に地獄を生きるという事なんだよ。
あなたが夫と自分を殺してまで抜け出したかった地獄にあなたたち2人は舞い戻ってきた。ただそれだけの事なんだよ。
あなたはかわいそうな人だ。自分の手を汚したのはあなただけ。夫の手は綺麗なまま。美しいまま。
だから僕はあなたをこの森へ連れて来てあげたのさ。つかの間の夢を見させてあげたのさ。
あなたは覚えているかな?
幼い頃 「お菓子の家に住みたい」と言ってママを困らせた事があるでしょう?
あなたは地獄へ来て夢を叶えたんだよ。
それから、チューリップの花はオマケだよ。あなたが好きな花だったでしょう?
なにしろ見てくれを大切にするあなたの事だから、きっと喜んでくれると思っていたよ。
でも、僕にできるのはこのくらいの事。
案内人の持つ権限は、このくらいのもの。

 ああ、それから一つだけ忠告しておくよ。
自分の姿を鏡に映して見るのはよした方がいい。
あの家の中には若くて美しい女ばかり。あなた以外はね。
今のあなたはとても醜い姿をしている。
あなた自身がとても耐えられないほどに、今のあなたは醜い。生前よりもっともっと醜い姿をしているんだ。
これは僕にもどうしようもない事なんだよ。
自らの手を汚したあなたの罪は夫より大きいんだ。不本意かもしれないけど、そういう事なんだ。
あなたの夫は今のまま、美しい姿のまま永遠に生き続ける。そしてあなたは今のまま、醜い姿のまま永遠に生き続けなければならない。
今のあなたは醜い。あなたは自分の姿に耐えられない。だから、決して鏡は見ない方がいい。
分かったね? 美代子さん。

 さぁ、僕は次の人を迎えに行かなくちゃ。だから、この辺で失礼するよ。
あなたみたいな人が大勢いるから、僕はいつだって大忙しなのさ。

   TOP  NOVELS  BACK