SAYONARA  -彼の気持ち-
 「もう会わない」
そう言う君の手が震えていた。
今まで君の強さを愛していると思っていたのに、それが錯覚だったと初めて気がついた。
去って行く君を追いかけられない自分の弱さを死ぬほど恥じた。
二度と振り返らない君の強さを死ぬほど憎んだ。

 彼女が去った後、残された僕はどこへ行っていいのか分からず夜の街をさまよった。
だけど僕の帰る場所は一つしかない。彼女と5年間一緒に暮らしたアパートだ。
真っ暗なアパート。
もう僕の帰りを待つ人のいないアパート。
できれば今日だけは帰りたくなかったアパート。
だけど他に行く所なんかありはしない。
僕の居場所はここ以外にない。

 昨日と同じように部屋の鍵を開けて中へ入る。だけど今までとは何もかもが違っていた。
まず電気のスイッチが見つからない。
僕は暗闇の中、手探りでスイッチを見つけなければならなかった。
昨日までは彼女がこの部屋で僕の帰りを待っていてくれた。
明かりの消えたこの部屋へ帰ったのは今夜が初めてだ。
やっとスイッチを見つけ、部屋に明かりが灯る。
僕はその場に立ち尽くして一瞬動けなくなる。
この部屋はこんなに広かっただろうか。
いつも狭くて窮屈だと思っていたはずの部屋が今夜はとてつもなく広く感じた。
寒い。いつもは彼女がちゃんと部屋を暖めていてくれたから、ここへ帰って来て寒いと感じた事 なんか今まで一度もなかった。
でももう部屋を暖めていてくれる人なんかどこにもいない。
コタツに入り、体が暖まるまでじっと我慢するしかない。

 僕は決して彼女の事を忘れないだろう。
彼女は僕に初めて背を向けた女だから。

 彼女は僕が買ってあげた物を全部ここに置いて出て行った。
彼女のために買った洋服。
彼女のために買った靴。
彼女のために買った枕。
それらはすべて今僕の目の前にある。
そしてこの部屋にはまだ彼女の残り香が充満している。

 僕は今まで自分から誰かを好きになった事なんか一度もなかった。
それは黙っていてもいつも女の方から僕に近づいてきたせいだ。
彼女も例外ではなかった。
そうだよ。僕が彼女を好きになったんじゃない。
彼女が僕を好きになったんだ。
僕はいつも自信たっぷりな態度で彼女と接していた。
喧嘩になって彼女がここを飛び出して行っても決して追いかけたりなんかしなかった。
そんな事しなくたってまた必ず戻って来てくれるという自信があったからだ。
僕はいつもわざと彼女を困らせた。
それは自分が愛されているという事を確かめたかったからだ。
彼女はいつだって僕を愛してくれた。
どんなわがままだって受け入れてくれた。
愛される事が当たり前だと思っていた。愛する努力なんかする必要がないと思っていた。
だって、僕が彼女を好きになったんじゃない。
彼女が僕を好きになったんだ。

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