笑顔の真実
 あれはいったい誰の誕生日パーティーだったかなぁ。多分、同じ幼稚園の誰かだな。
主役の顔は全然思い出せない。
でも、ケーキにろうそくが6本ささってたのは覚えている。
という事は、あれはもう4年前か。
僕の手はまだあの人のセーターの感触を覚えている。
フワフワの白いセーター。そうだ、あれは4年前の冬の出来事だ。

 暖かい部屋の中には灰色の絨毯が敷かれていて、足の短い大きなテーブルがあった。
そしてその真ん中に、チョコレート色のケーキが置いてあった。丸くて大きくて、赤や黄色のろうそくが ささったケーキだ。
部屋の壁や天井には折り紙で作った鎖やピンク色のティッシュで作った花がいっぱい飾られていた。
そこにはたしか、僕の他にも5〜6人の友達が招待されていたはずだ。 でも、友達かどうかは怪しいな。だって、そこにいたのが誰なのか全然覚えていないんだから。
大きな声を出しながらテーブルの周りを走っていた子供たちが何人かいた。それ以上の事はよく分からない。
僕が覚えているのは友達の事なんかじゃなく、髪が長くて、優しい笑顔をしたあの人の事だ。

 あの人は誕生日パーティーに招待されていた誰かのお母さんだったのかな。それとも、手伝いにきていた人? それはよく分からない。
とにかく、ケーキの置いてあるテーブルの周りには僕を含めて何人かの子供たちがいた。
そしてテーブルの上には大きいお皿に載ったご馳走がどんどん運ばれてきた。
ピザやサンドウィッチやチキンナゲット。それはエプロンをした何人かの女の人たちが手分けしてキッチンから運んできたんだ。
その中に、あの人はいた。
髪が長くて優しい笑顔で、白いセーターの上にピンク色のエプロンをしていたあの人。すごくかわいくて、優しかったな。
あの人と何を話したのかはもう忘れちゃったけど、冬の太陽に照らされて光っていた長い髪と 優しい笑顔と白いセーターの暖かさはちゃんと覚えている。
僕はあの人が気に入った。
どうしてかというと、とにかく優しそうだったから。
目尻を下げて、唇の端は上がり、ちょっとだけ白い歯が見えている。あの人はずっと、最後までその笑顔を絶やさなかった。
ご馳走が全部テーブルに並ぶと、皆は床の上に座って食事を始めた。
僕はあの人の隣を陣取り、いっぱいいっぱい話しかけた。
周りの皆はピザやサンドウィッチに夢中だったけど、僕は食べる事も忘れてあの人と話してばかりいた。
もしかして僕の話はつまらなかったかもしれない。でもあの人はずっと優しい笑顔で僕の話し相手になってくれていた。
僕はあの人を独り占めしたくて、あの人がちょっとでも他の人の方を向くと白いセーターの袖を引っ張ってこっちを向かせた。
今も手に残るあのフワフワなセーターの感触。それを思う時、すごく胸が苦しくなる。

 気が付くと、テーブルの上のお皿はほとんど空っぽになっていた。
それを見たエプロン姿の女の人たちは一斉に立ち上がり、空っぽになったお皿を持って キッチンへ下げにいった。
その時僕の好きだったあの人は、チョコレート色したケーキをお皿ごと持ち上げて長いスカートをヒラヒラと揺らしながら皆と同じようにキッチンへ消えていった。
これからケーキを切り分けるんだ。僕はその事を悟った。

 女の人たちが皆キッチンへ行ってしまった後。僕はあの後何をしていたんだろう。
顔も覚えていない友達と話をしていたか、遊んでいたか、それともただ黙ってそこにいたのか。そんな事は全然覚えていない。
ただ、あの人がいなくなってすごくつまらない気分だった。
ケーキを切り分けたらまたあの人は戻ってくる。それは分かっていたけど、僕は待ちきれなかった。

 僕はあの人を追って廊下へ出た。
とにかくあの人に早く会いたかった。早く戻ってきてほしかった。
あのパーティーをやった家は僕らのいる部屋を出るとピカピカに光る木の廊下があって、そこを左へ進むとキッチンがあった。
木の廊下は窓の外から入る太陽の光が当たって白く輝いていた。まるでスケートリンクのようだと僕は思った。
僕はあの人に早く会いたくて白い靴下をはいた両足を廊下の上で滑らせ、キッチンへと向かった。
今思えば、あんな事しなければよかったのかもしれない。

 僕は誕生日パーティーでどんな事をしたのかはよく覚えていない。そこにどんな友達がいたのかさえ、ちっとも思い出せない。
ただ、キッチンの光景だけは何よりもはっきりと覚えている。
僕がキッチンの入口に立っていたのはほんのわずかな時間だったけど、僕にとってはその時間がすべてだった。
ピカピカに光る廊下の上。靴下をスーッと音もなく滑らせると、すぐにキッチンの入口があった。
その時、入口の戸は開いていた。それとも、最初から戸がなかったのかもしれない。
僕が廊下からキッチンを覗いた時、中の様子が全部見えた。
白い壁。奥の窓際には大きな食器棚。食器棚の横には猫の絵のカレンダー。流し台の上にはたくさんの汚れた食器。
そして僕が好きだったあの人は食卓テーブルの前に立ち、目の前に置かれたケーキにナイフを入れていた。
あの人は僕に背中を向けていた。僕は音もなくキッチンへやってきたから、あの人はすぐ側で僕が見ている事に気付かなかっただろう。
背中の真ん中あたりまで伸びたまっすぐな髪は、廊下から差し込む光で透けて見えた。
腰のあたりでエプロンの紐が結ばれ、白いセーターの上にピンク色の蝶がとまっているように見えた。 あの人がケーキにナイフを入れて動かすと、ピンク色の蝶が微かに揺れた。
あの人のすぐ横にはもう1人女の人が立っていた。その人はテーブルの上で切り分けられていくケーキをじっと見つめていた。
その時、聞き間違えるはずのないあの人の声が、こう言った。
「信也くんって、うるさくて嫌だわ」
一瞬、あの人の背中が真っ白になったような気がした。
「そう?」と返事をする隣の女の人の背中も、真っ白になった。

 僕はそこからすぐに逃げ出した。
足音をたてないようにスケートリンクのような廊下をスーッと滑り、子供たちのいる部屋へと逃げ出した。
「信也くんって、うるさくて嫌だわ」
そう言ったあの人の声は、今でもちゃんと覚えている。
あれはお母さんが怒る時の声と同じだった。僕は顔が見えなくてもお母さんの声だけで怒っている事が分かる。
きっとあの人は怖い顔をしてそう言ったんだろうな。僕には見せられないほど怖い顔をしていたから、僕に背中を向けていたんだろうな。

 でも、本当に怖かったのはその後だ。
あの人は切り分けたケーキをお盆に乗せて、優しい笑顔で僕らのいる場所へ戻ってきた。
そしてあの人の白い手が、テーブルの上に並べた小さなお皿に1つずつ三角形のケーキを乗せていった。
名前も知らないあの人は丁寧にお皿の上にケーキを乗せ、その後別の女の人が運んできたグラスをお皿の横に並べた。 それから今度はペットボトルに入ったオレンジジュースをグラスの中に注いでいった。
名前も知らない友達は、皆があの人を囲んでその様子を見つめていた。
あの子たちが垣根になってくれたから、僕はまだそこに立っていられたのかもしれない。
僕はテーブルの側には寄らなかった。あの人に近づくのが怖かったからだ。
僕はその時、今すぐにでも外へ駆け出したいと思っていた。

 しばらくすると、あの人と目が合った。
全部のお皿に綺麗にケーキを並べ、全部のグラスにジュースを注いだ後、あの人は垣根になっている子供たちではなく少し離れた所に立っている僕の顔を最初に見た。
あの人は怖い顔をせず、嫌な顔もせず、変わらない笑顔で僕に声をかけた。
「信也くん、こっちへ来てケーキを食べましょう」
そう言ってあの人は立ち上がった。あの人が僕に近づいてくる。変わらない笑顔で、さっきとは違う声で。
「さぁ早く、こっちへ来て座って」
目尻が下がって唇の端が上がり、ちょっとだけ白い歯が見えているあの人が僕に近づき、手を差し伸べた。
でも僕はあの人の顔が怖かった。笑顔がすごく怖かった。
自分が好きだった物が全部急に恐ろしく感じられた。
僕はその後、あの人から逃げ回った。部屋中を走って、とにかく逃げ回った。
灰色の絨毯の上をあの人が追いかけてくる。ピンク色の蝶を随え、長いスカートをヒラヒラと揺らしながら。
僕は鬼ごっこをする時よりもずっと真剣に逃げ回った。もうあの人と話したくなんかなかったし、同じ部屋にいるのも嫌だった。
走り回っている途中僕は何度も壁に激突した。
そのたびに飾り物の鎖がパラリと床の上に落ちた。ティッシュで作った花も、いくつも床に散らばった。

 僕は、あの人をこれ以上傷つけたくなかっただけなんだ。
嫌いな人と一緒にいるのがつらいって事くらい、僕にだって分かっていた。
僕はただあの人につらい思いをさせたくなかっただけ。
それなのにどうして僕に構うの? 嫌いなら構わなきゃいいだろ?
他の誰かと、あんたの気に入った子と話してればいいだろ?
僕はずっとそんな事ばかり考えて逃げ回っていた。
「どうしたの? 信也くん」
僕が逃げると、あの人の声が変わった。
怒っている声というよりは、困っているような、迷っているような、そんな声だった。
何かあったの? さっきまで仲良くしていたのに、どうして逃げるの?
我慢して嫌いな子と仲良くしてあげたのに、どうして私が避けられなくちゃいけないの?
僕にはあの人の心の声がはっきりと聞こえてきた。

ホンネ ト タテマエ
僕がこの言葉を知ったのは、つい最近になってからの事だ。

 怖い。今笑顔で僕の目の前に立つ女の人が怖くてたまらない。 あの人と同じ優しそうな笑顔だ。目尻が下がり、白い歯がちょっとだけ見えているのも同じだ。
そして、目の前のこの人は心にもない事を僕に言う。
「気にしなくていいのよ、信也くん。おばさん、全然怒ってないからね」
日曜日。空は曇っている。6月の風は暖かい。
僕の足元には割れて粉々になった植木鉢とその中に入っていた土が散らばっている。
数メートル先の木の下にはサッカーボールが転がっている。そして、サッカーボールの横には最近仲良くなったばかりの誠二が突っ立っている。
誠二の家の庭は、とても綺麗だ。彼のお母さんは花を育てるのが趣味らしい。
芝生も綺麗だし、そこいらじゅうに珍しい花がいっぱい咲いている。赤や黄色の花。あの日のろうそくと同じ色の花だ。
誠二の足元に咲いている赤い小さな花に白い蝶が止まった。蝶は微かに羽を揺らしている。
白いセーターの上にとまったピンク色の蝶。僕はつい昔の事を思い出してしまう。
「怪我はなかった? 大丈夫?」
そう言って、僕の手を取る誠二のお母さん。
長い髪を1つに束ねて、腰に巻いたエプロンは水色。
おばさんは、あの人とは違う。でも、笑顔はあの人と全く同じだった。
優しそうな笑顔。優しそうな声。ウソでもいいから、この笑顔を誠二に向けてあげてほしい。
誠二は両手の拳を握り締め、緊張して僕らのやり取りを聞いている。
おばさんは彼に背を向けているから、その様子が分からないようだ。
誠二はお母さんが怖いといつも言っている。おばさんの知らないところで、つまらなさそうな顔をしていつもそう言っている。
誠二はサッカーボールを蹴って植木鉢を割ったのは僕だとおばさんに言った。 彼が本当の事を言えなかったのは、お母さんが怖いからだ。

 おばさんは、彼のウソに気付いているだろうか。
そして彼にウソを言わせたのは自分だという事を、この人は気付いているだろうか。
僕はおばさんの肩越しに誠二の方をちらっと見た。そこには今にも泣き出しそうな彼の顔があった。
6月の風が彼の前髪を揺らしている。誠二は唇を噛み締め、拳を握り締め、芝生の上に立ち尽くしている。
彼は僕と目が合うと、すぐに下を向いてしまった。
誠二は僕が本当の事を言うのも怖いけど、僕が彼のウソを許さない事がもっと怖いんだ。
誠二はいいヤツだ。おばさんがもう少し優しかったら、彼はきっとこんなウソをつくような事はしない。
だから僕は、彼に飛びっきりのプレゼントを贈ろう。
「植木鉢を割っちゃってごめんね、おばさん」
おばさんはあの人と同じ笑顔で、本当に反省しているかのような僕の顔を見つめる。
僕はその瞬間、おばさんの背中の向こうで誠二が顔を上げる気配に気付いた。
「僕、片付けるよ」
僕は芝生の上にしゃがみ込み、割れて粉々になった植木鉢のかけらを拾い始めた。
するとおばさんも僕の目の前へ同じようにしゃがみ込み、散らばった土を手でかき集めた。
「これを片付けたらお家へ入ってケーキを食べましょうね」
おばさんは、笑顔でそう言いながら土をかき集めていた。
時々、乾いた土が風に舞った。1つに束ねられたおばさんの髪も、風に吹かれて少しずつ広がっていった。
僕は割れた植木鉢の破片で小指を少しだけ切ってしまった。
血が滲んだ指を舐めながら顔を上げると、まだサッカーボールの横に突っ立っている誠二の姿がはっきりと見えた。 硬く握られていた彼の拳はもう力を失っていた。
彼はおばさんの背中の向こうで、次々と流れ落ちる涙を青いTシャツの袖で必死に拭っていた。
僕はその瞬間に悟った。
僕は彼が正直になる機会を奪った。彼がお母さんに謝る機会を奪った。
僕のウソは、彼を傷つけたんだ。
あの人の笑顔が僕を傷つけたのと同じように。
でも、僕にはちゃんと分かっている。
芝生の上には僕と、誠二と、誠二のお母さん。その中で本当に正直なのは、たった1人だけだ。

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