当たり前の夜
 信号待ちで車が止まった。
フロントガラスの向こうに見える夜のオフィス街はひどく淋しげだった。
昼間はスーツ姿の男女が颯爽と行き交うオフィス街。外が明るいうちは、私もここの住人だ。
でも、午後11時の今は歩いている人影も見当たらない。車も走っていない。
信号待ちで止まっても、横断歩道を渡る人は誰もいない。前にも後ろにも、車は見当たらない。
ただ月明かりに照らされたオフィスビルの群れがぼんやりと浮かんで見えるだけ。
午後11時。この街は眠っている。

 運転席の純一は、カーラジオから流れるお気に入りの歌に合わせて口笛を吹いている。
それにしてもラジオのボリュームが大きすぎる。まるで騒音と変わらない、もう題名も忘れてしまった彼のお気に入りの歌。
細く開けた助手席側の窓からちょっぴり涼しい風が入ってきた。とても気持ちのいい風だ。
今日は夕方まで異常なほど暑かった。
外を歩くと空からは太陽が照りつけ、地面からはアスファルトの熱が上昇し、体中から汗が噴き出した。
ポリエステルのブラウスが肌に貼りつく感触は不快としか言いようがなかった。
でも、夜も11時を過ぎるとだいぶ風は涼しくなっているようだ。
明日も暑くなるだろうか。私は少し身を乗り出し、フロントガラスごしに夜空を見上げた。
昼間はよく晴れていたのに、空には星が見当たらなかった。ただ真ん丸い月がぽつんと1人で淋しげに空に浮かんでいた。
私はふと目のピントを空より少し低い位置に合わせた。するとそこに、月や星とは違う光を見つけた。
月明かりに浮かぶオフィスビルの窓の、白い光だ。
そのビルはいったい何階建てなのか。私は更に身を乗り出して下から上へと窓の数を目で数えた。

 12階建てビルの8階と10階。2つの窓に、白い光が輝いていた。
私は反射的にカーラジオの上のデジタル時計に目をやった。
そこに光る表示は 23:12。間違いなく今は、金曜日の午後11時過ぎ。
眠ったように見えたこの街にもまだちゃんと起きている人がいる。
私は再びオフィスビルの光る窓を見上げた。すると無意識のうちにこんな言葉が口をついて出た。
「こんな時間まで働いてる人がいるなんて、信じられない」
それはきっと、小さなつぶやきだった。
でも純一は私の視線を追いかけていたようで口笛を吹くのをやめ、その独り言に素早く反応した。
「当たり前だろ。仕事なんだから」
私は驚いて、運転席の彼に視線を向けた。
カーラジオから大音響で流れているのは、題名も忘れてしまった彼のお気に入りの歌。
彼は少しの間冷たい目で私を見つめた後すぐに目を逸らし、今度は口笛ではなく歌詞そのものを口ずさんだ。
彼とは今日で終わりにしよう。
私はその時、そう決めた。

 彼に悪気はない。彼はきっとあの日の事を忘れているだけだ。
3ヶ月前。私が旅行代理店へ就職して間もない4月中旬。
いつもは午後7時で終わるはずの仕事がその日に限って長引いてしまった。
彼との待ち合わせは、午後7時30分。
7時を過ぎてから次々と仕事を命じられ、彼に電話をする余裕さえなかったあの日の事。
やっと仕事が一段落して彼に電話を入れたのが、たしか午後8時10分。
私はちゃんと話せば分かってくれるとあの時は信じていた。
だって、仕事なんだからしょうがない。
私はオフィスを出てトイレに駆け込み、純一の携帯へ電話を入れた。
仕事が一段落したといっても、まだ帰れそうにはなかった。 今日は彼に会えそうもない。そう思うと、ため息が出た。
しかも分かってくれると信じていたのに、あの時彼の声はひどく冷たかった。

「もしもし、純一?」
「お前、何してるんだよ」
「ごめんね。急に残業が入っちゃって、もう少し遅くなりそうなの」
「だったらすぐに電話してくればいいだろ? 今頃になってなんだよ」
「ごめん。電話もできないほど忙しかったんだよ」
「忙しくたって、電話くらいできるだろ! なんのために携帯持ってるんだよ」
「ごめん。電話しようと思ったんだよ。でも……」
「俺の事が好きなら、仕事なんか放り出してでも会いに来るはずだろ?」

 あの時から、別れを予感していた。
彼はまだ大学生。
ボロボロに破れたジーパンも、金色に染めた長い髪も、彼にとっては当たり前。
お父さんにねだって新車のスポーツカーを買ってもらう事も、彼にとっては当たり前。

 彼はルームミラーに映る自分にしか興味を示さない。
金色の長い髪を細い指で整え、鏡の中の自分に笑いかける彼。
彼は自分にしか微笑まない。
後続車のいない今、ミラーに映るのは彼の金色の髪と切れ長の目だけ。私は決してミラーに映し出される事がない。

 シグナルが青に変わった。
純一は自慢のスポーツカーのアクセルを目一杯踏み込む。タイヤは悲鳴を上げる。これも、彼にとっては当たり前。
彼は夜のこの街が好きだった。
他に車のいない三車線の道を猛スピードで走り抜く事ができるからだ。
私がいくら「怖いからやめて」と言っても、彼は決してスピードを緩める事をしない。
昼間は家まで車で20分の道程。でも彼の車は10分たらずで私を家まで運んでくれる。
車のスピードはどんどん上がっていく。彼はろくにメーターを見る事もしない。
外の景色がものすごい早さで私の側を駆け抜ける。
遠くのネオンがあっという間に目の前に見え、あっという間に視界から去っていく。
「もう少しゆっくり走って」
私は今まで何度も彼にそう言った。でも、彼はいつでもレーサー気分。 前を見てハンドルを握る事だけで精一杯。私の言葉なんか、聞いてはくれない。
そして外の景色を楽しむ事もしない。私との会話を楽しむ事もしない。
彼がボロボロの中古車に乗っている時はこうじゃなかった。
乗り心地が悪くて、アクセルを踏んでも踏んでもちっともスピードが上がらない、廃車寸前のボロ車。私はあの車の方が好きだった。
見慣れた景色が、どんどん近づいては消えていく。
カーラジオから流れるのは、聞いた事もない歌。でも彼はちゃんとその歌に合わせて歌詞を口ずさんでいる。
彼が口ずさむ、題名も知らない聞いた事もない歌。
ファミリーレストランの看板が見えてきた。そして、すぐに消えた。
次にビデオ屋の看板が見えてきた。そして、また消えた。
この調子ですぐに私の家に着く。
いつもの夜。いつもの、彼にとっては当たり前の夜。

 「もう少しゆっくり走って」
私が彼にその言葉を言わなくなってからどのくらいの時が経過したんだろう。
彼ともう少し一緒にいたい。
そう思わなくなってからどのくらい時が経過したんだろう。
車は再び信号待ちで止まった。
住宅街に近い地下鉄駅前の交差点。
このあたりはオフィス街よりもずっと明かりが多い。
焼き鳥屋のちょうちんやコンビニの明かり。私はその明かりで帰って来た事を確認し、ほっとする。
駅から吐き出された人たちが横断歩道を渡っていく。
スーツを着た男性。ラフな服装の少年。ミニスカートの女性。
運転席の彼は早く走り出したくてしょうがないという仕草を見せる。
小さめの皮のハンドルを右手でポンポンとたたく仕草。 これもいつもの事。彼にとっては当たり前の事。
この交差点を過ぎたら、私の家はすぐそこだ。
今までどうして気付かなかったんだろう。
いつもこうだった。彼はそんなに早く私を降ろしたかったんだ。

 シグナルが青に変わった。
彼は当たり前のようにアクセルを目一杯踏み込む。タイヤは悲鳴を上げる。
歩道を行く人たちが彼のスポーツカーに注目する。彼は満足そうな顔をして、ただハンドルを握っている。
すべてがいつもの、当たり前の事。でもすべてが今日でお終いの事。
車は通り過ぎる景色を目に焼き付けるヒマもなく、月明かりの下を猛スピードで走っていく。
未練を残すヒマもなく、さよならに向かって猛スピードで走っていく。

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