妖精たちが舞い降りる夜
 僕はショーケースの上に肘をついて7時になるのを待ちわびていた。
午後7時になればバイトが終わる。今日は忙しかった。
腹が減って死にそうだ。早く帰ってメシを食いたい。

 ショーケースの向こうには入口のドアがある。上半分にガラスがはめられた木造りの重いドアだ。
12月1日。
今日からドアのガラスにはクリスマス用の白いカッティングシートが貼られた。 "Merry X'mas" という文字と、ソリに乗ったサンタのシルエットだ。
ただし、店の中から見ると"Merry X'mas" の文字は逆向きになっている。
ガラスの向こうでは音もなく小粒の雪が降り続いている。今年はホワイトクリスマスになるだろうか。
ドアの左右には同じく木造りのテーブルが置いてある。
そしてテーブルの上には焼き菓子が入った丸い籠がいくつも並べられている。
しかし閉店間近となるとほとんどが売り切れていて、わずかに残っている焼き菓子たちは居心地悪そうに籠の中でじっとしている。
ショーケースの横には今日からクリスマスツリーが飾られた。背丈1メートルくらいのごく一般的なツリーだ。
てっぺんには金色のお星様。キラキラと輝く電飾。さすがに洋菓子店だけあって、ツリーにはマジパンのブーツやリースがたくさんぶら下がっている。

 僕は腕時計に目をやった。
6時58分。閉店まであと2分だ。もう客は来ないだろう。
そう思った僕はツリーに飾られている電飾のスイッチを切った。
すると今まで規則的に点滅を繰り返していた光が一斉に消えてしまった。
その時、入口のドアが開いた。閉店2分前に客が来てしまったんだ。
僕は反射的にショーケースの中を覗いた。
ケーキはもうほとんど売り切れてしまっている。チーズケーキとモンブランとアップルパイ。残っているのはその3種類だけだった。
「いらっしゃいませ」
僕は本日最後の客になるであろうその人を一応は笑顔で迎えた。
本日最後の客は、若い女の人だった。
ストレートのロングヘアー。頭の上にはほんの少し雪が乗っかっている。
ふっくらとした唇にはピンク色の口紅が塗ってあり、キラキラと光っている。
襟にファーのついた革のハーフコートはとても暖かそうだ。
でも、白いミニスカートはとても寒そうだ。
それでもロングブーツを履いているから、足元はポカポカしているのかもしれない。
彼女は勢いよくドアを開け、頭の上に降り積もった雪を手で払いながらギシギシいう床の上をまっすぐに歩き、ショーケースの真ん前で立ち止まった。
木造りの床には彼女の足跡がはっきりと残されていた。
彼女が頭の上に乗せて運んできた雪は床の上に落ちてすぐに融けていった。

 彼女は大きな目でショーケースの中を覗き込み、何かを探しているようだった。
しかし、ショーケースの中はほとんどカラだ。
「すみません。もうこれしか残っていないんです」
僕は彼女にその事実を告げた。
すると彼女は目線を上げ、僕の目を見てこう言った。
「バースデーケーキをお願いしたいんだけど」
「あ、はい。ご予約ですか?」
彼女がコクリとうなづいた。
するとわずかに残っていた彼女の頭の上の雪が融けて水となり、長い前髪を滑り落ちてショーケースの上に滴り落ちた。
僕は注文用紙とボールペンを取り出し、彼女にいくつか質問をした。
「お名前は?」
「宮本です」
「ケーキは配達しますか?」
「いいえ。取りに来ます」
僕はショーケースの上に注文用紙を乗せ、ボールペンで彼女の言う事をサラサラと書き込んでいった。
「ええと、何日に取りに来ますか?」
「12月24日」
12月24日。僕はそれを聞いた時、一瞬手が止まってしまった。
彼女は長い前髪を右手でかき上げ、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。
「彼氏の誕生日、クリスマスイブなの」
彼氏の誕生日。そうか。そういう事か。
「どんなケーキにしますか?」
僕はデコレーションケーキのパンフレットを彼女に手渡しながらそう言った。
もう店頭のデコレーションケーキは完売してしまった。申し訳ないが、パンフレットを見て決めてもらうしかない。
三つ折りになったパンフレットを広げると、様々な種類のケーキが目の前に現れる。
イチゴが乗っかった生クリームのケーキやかわいい装飾がほどこされたバタークリームのケーキ。大きさも様々だ。

 彼女は食い入るようにパンフレットを見つめていた。
しかし、なかなか決断する事ができない。
無言でひたすら悩み続ける彼女。
僕は間がもたず、ショーケースの上に山積みされている別のパンフレットも彼女に手渡した。
それは、クリスマスケーキ用のパンフレットだった。
「今クリスマスケーキを予約すると、2割引になりますよ」
「ああ、そう」
彼女はそのパンフレットを一応受け取りはしたが、全く中身を見る事はなかった。広げる事すらしなかった。
彼女にとって12月24日はクリスマスイブではない。
彼女にとって12月24日は彼氏の誕生日なんだ。
僕にはそんな彼女の思いがはっきりと伝わってきた。

 その瞬間、僕は自分の誕生日の事を思い出していた。
僕は今まで一度もバースデーケーキを買ってもらった事がない。
2歳年上の兄貴の誕生日は、10月20日。
兄貴の誕生日にはいつもちゃんとしたバースデーケーキが用意されていた。
イチゴがたくさん乗っかった生クリームたっぷりのバースデーケーキ。
その真ん中には"まさとくん お誕生日おめでとう" と書かれたチョコプレートがいつも飾られていた。
僕の誕生日は、5月5日。
僕の誕生日にバースデーケーキが用意された事は一度もなかった。
イチゴがたくさん乗っかった生クリームたっぷりのデコレーションケーキ。
そしてその真ん中には兜の形をしたチョコレート。もしくは鯉の形をしたマジパン。
僕の誕生日にはいつもバースデーケーキの代わりに"子供の日" のケーキが用意されていた。
僕は今まで、自分の名前が入ったケーキを一度も見た事がない。
母さんは兜や鯉の乗っかったデコレーションケーキに僕の年の数だけろうそくを突き刺し、マッチで火を灯すと「ろうそくの火を吹き消して」と僕に言う。
それは兄貴の誕生日にも行われていた事だが、僕はいつもなんとなく納得いかないままユラユラと揺れるろうそくの火を見つめていた。

 僕は今年の5月5日、17回目の誕生日を迎えた。
この年になると家族揃って誕生日パーティをするような事はない。
僕は17回目の誕生日を数人の男友達と一緒に過ごした。
今年はとうとうケーキを食べずに誕生日を終えてしまった。
僕はもう子供じゃない。ケーキに拘るような年ではない。
でもこうして彼女を目の前にした時、自分の中に残る小さなわだかまりを意識せずにはいられなかった。
母さんは僕の誕生日よりも"子供の日" の方が大事だったんだろうか。
毎年兜の乗っかったケーキを買う時、一度でも僕の名前が入ったバースデーケーキを買おうとは思わなかったんだろうか。

 "宮本" と名乗った彼女はまだ真剣に悩み続けている。
2割引のクリスマスケーキになんか目もくれず、彼氏のバースデーケーキを選ぶためだけに大切な時間を費やしている。
でもきっとそれは彼女にとって当り前の事なんだ。
彼女にとって12月24日はクリスマスイブではない。
彼女にとって12月24日は彼氏の誕生日なんだから。

 やがて彼女はやっと決断し、僕の方にパンフレットを向けて2番目に大きいデコレーションケーキを指さした。
イチゴがたくさん乗っかった生クリームたっぷりのケーキだ。
「これ、5000円の生クリームのにする」
この人の彼氏はきっと素敵な人なんだろうな。彼女の決断を知った時、僕は最初にそう思った。
僕は彼女が決断したケーキのサイズと種類を注文用紙に書き込み、それから1番大事な事を訊ねた。
「彼氏の名前は?」
「たけし」
たけし。宮本さんの彼氏の名前は"たけし" というのか。
もしかして、たけしもずっと僕と同じ思いをしてきたのかもしれない。なんといっても、12月24日生まれだもんな。
12月24日。
彼の誕生日にはいつもサンタの乗っかったケーキが食卓に上っていたんじゃないだろうか。
そして彼はいつも納得いかない思いでそれを見つめていたんじゃないだろうか。そんな気がしてならない。
おめでとう、たけし。
今年はちゃんと自分の名前が入ったケーキを食べられるよ。

 「ろうそくは何本入れますか?」
「20歳の誕生日だから、20本」
ふぅん。たけしは20歳か。
僕は注文用紙に必要事項をすべて書き込み、彼女に代金を告げた。
「5250円です」
「ちょっと待って」
彼女はまず左手にぶら下げていたエナメルのバッグから赤い札入れを取り出し、そこから千円札を5枚抜き取ってショーケースの上に置いた。そしてその後、コートのポケットをまさぐり始めた。
彼女はポケットに入っていた小銭を全部左の掌に乗せ、右手の人差し指で250円分の小銭を探した。
「100円……200円……」
彼女はそうつぶやきながら50円玉3枚、10円玉8枚、5円玉3枚、1円玉5枚を見つけ出し、それを右手で掴んでショーケースの上に置いた。
するとそのうちの何枚かが車輪のようにコロコロとショーケースの上を転がっていった。僕は慌てて転がるコインを手で押さえた。
一応それらの金を数えてからレジを打ち、僕は彼女にレシートとケーキの引換券を渡した。
「12月24日、ご来店お待ちしてます」
「じゃあ、よろしく」
「ありがとうございました」
僕らは最後に当り前の挨拶を交わした。 彼女はひと仕事やり遂げたといった様子で、満足そうに微笑んでいた。

 僕は彼女の背中を見送った後、再び腕時計に目をやった。
もうとっくに閉店時間を過ぎている。もうすぐ7時半になるところだ。
「ああ、腹減った」
僕は独り言をつぶやきながら閉店準備を始めた。
ドアの内側に掛けられている"営業中" の札をひっくり返して"準備中" に変え、テーブルの上に並べられた焼き菓子の入った籠を覆い隠すように白い布をかける。
あとはレジの金を数えて、電気を消すだけだ。

 店を出たのは7時45分だった。
外はあまり寒くはない。雪は降り続いているが、積もってはいない。
腹が減った。早く帰ろう。
僕は雪の降る中、肩をすくめてとぼとぼと歩き始めた。 途中、雑貨屋のウインドーを覗くと、そこには白いクリスマスツリーが飾られていた。
店内はまだ明るい。そして客がたくさん入っているようだ。
僕はその中に宮本さんの姿を見つけた。
彼女は灰皿のような物を手に取り、それをしげしげと眺めていた。
もしかして、たけしの誕生日プレゼントを選んでいるんだろうか。
僕は一つため息をつき、再び家路に着くため歩き始めた。
しばらく歩いて行くと暗闇の中にそびえ立つ巨大なスーパーが見えてきた。
その入口には"クリスマスセール" と書かれたポスターが何枚も貼られている。
どこもかしこもクリスマスか。

 今年のクリスマス。僕はバイトに明け暮れる事になるだろう。洋菓子店にとって 1番忙しい時なんだから、しかたがない。
12月22日から27日まで休みはなしだ。
その間僕は幸せな時を過ごす人たちにクリスマスケーキを売り続ける。
それを思うと、ひどく悲しい。
12月24日。
たけしは誕生日を彼女と一緒に過ごすんだ。
彼は自分の名前が入ったバースデーケーキを見て大喜びするに違いない。
そんなたけしが羨ましい。
僕も一度でいいからちゃんと自分の名前が入ったバースデーケーキを食べてみたい。

 5月5日。
ロングヘアーの彼女は僕のためにバースデーケーキを用意している。
だけど僕にはそんな事、まるっきり知らされていない。
僕は彼女の部屋へ招かれ、恐る恐る一歩足を踏み入れる。
その部屋には窓から暖かい日差しが差し込んでいる。
彼女は「座って」と僕に言う。
僕らはテーブルを挟んで、向かい合って座る。
そして彼女はしばらくの間僕にどうでもいいような話を聞かせる。
僕はなんだか落ち着かない。彼女の話も上の空だ。
彼女の部屋へ招かれたのはその日が初めてだから、緊張しているんだ。
僕は彼女に気づかれないようにそっと部屋の中を観察する。
テーブルやベッドや箪笥などの家具はすべて白で統一されている。
背の低い箪笥の上には色とりどりのぬいぐるみがぎっしり並べられている。
彼女は結構淋しがり屋なのかもしれない。僕は彼女を見守るたくさんのぬいぐるみを見てそんなふうに思う。
そしてその部屋にはいい香りが漂っている。
それが香水の香りなのか、芳香剤の香りなのか、もしくはフェロモンの香りなのか、僕にはよく分からない。
「あっ!」
彼女が突然僕の後ろを指差してそう叫ぶ。
僕は何事かと思い、後ろを振り返る。
僕の後ろには窓がある。白いブラインドは全開だ。
しかし、春の日差しが眩しすぎて外の景色はよく見えない。彼女はいったい何を指差して叫んだりしたんだろうか。
「どうしたの? 何か見えた?」
僕は再び彼女の方へ向き直り、不思議そうな顔でそんな事を言う。
しかし僕は次の瞬間あまりの驚きで言葉を失ってしまう。
さっきまで存在しなかった物が白いテーブルの上に置かれているからだ。
それは、イチゴがたくさん乗っかった生クリームたっぷりのバースデーケーキだった。
まるで夢のようだ。
ケーキの真ん中に置かれているのは兜や鯉ではない。"みのるくん お誕生日おめでとう" の文字が入ったチョコプレートだ。
彼女は「おめでとう」と言って拍手をしてくれる。
彼女の目は心から僕を祝福してくれている。
ふっくらとした唇は僕だけのために「おめでとう」と言ってくれている。
僕はその日、生まれて初めて自分の名前が入ったバースデーケーキとご対面した。
5月5日は子供の日ではない。
5月5日は僕の誕生日だ。
それを証明してくれたのは、僕の目の前で微笑むロングヘアーの彼女だけだった。

 僕の頬に白い妖精が舞い降りた。それは夢の終わりを告げる合図だ。
僕は冬の空を見上げた。
真っ白な妖精たちが次々と地上へ舞い降りてくるのが見える。
だが妖精の命は儚い。
彼らはアスファルトの上に舞い降りた瞬間、すぐに融けてなくなってしまう。
イチゴがたくさん乗っかった生クリームのケーキは、口の中に入れると一瞬のうちに飲み込まれてしまう。
自分の名前が入ったチョコプレートは、口の中で噛み砕くとあっという間に融けてしまう。
でも、白い妖精が舞い降りる姿は僕に安らぎを与え、すぐに融けてなくなるチョコプレートは僕に喜びを与えてくれる。
しかしそれは、つかの間の夢だ。
夢から覚めた僕は妖精たちに見守られ、空腹を満たすためにただひたすら歩き続ける事しかできなかった。

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