自殺志願
 1.

 終わった。随分時間がかかってしまった。
マウスを動かし "上書き保存"をクリックする。
フロッピーディスクを取り出してパソコンの電源を切る。
そして、靴の空き箱へフロッピーディスクを投げ入れる。
箱の中に納められたフロッピーディスクは2枚。たったの2枚。

 パソコンで文書の作成をしているとたばこの本数が増える。
いつの間にかベッドの脇に置かれた灰皿にはたばこの吸殻が山積みになっていた。
腰が痛い。
ベッドにうつ伏せになって長々とキーボードを打っていたせいだ。
俺は起き上がって両手で腰をさすった。
4年間使い続けているノートパソコンを閉じて押入れの中へとしまいこむ。
今日もお勤めありがとう。ご苦労さん。

 気がつくともう夜中の3時だった。
今日は熱帯夜だ。窓を開けていても暑い。
手紙を書くのに夢中で今まで暑さなんか全然気にならなかったのに。
ビールが飲みたくなった。たしかまだ冷蔵庫に缶ビールが1本残っていたはずだ。
俺はベッドを飛び降り、床に散乱している雑誌やお菓子の箱を踏みつけながら手狭なキッチンへと向かった。
小さな冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、立ったままでごくごくとアルコールを喉へ流し込む。

 再びベッドへ戻り、仰向けになって天井を見つめると瞼が重くなってきた。
約8畳のワンルーム。そして、ちょっと手狭なキッチン。
ここが俺の城だ。誰にも邪魔されないただ一つの空間だ。
新築のわりに家賃は安い。大きな出窓も結構気に入っている。
日当たりは良好。ただし土台はもろい。
少し強い風が吹くとアパート全体がガタガタと音をたてて揺れる。
最初のうちはそんな事が随分気になったけど、4ヶ月も住んでいるともうすっかり慣れてしまった。
まぁ、ここへ帰って来てする事といえば風呂に入って手紙を書いて寝るだけだから、多少揺れようが傾こうがどうでもいいといえばそれまでだ。

 この部屋にある物。それは、ベッドとテレビと中古で買ったパソコン、それに冷蔵庫。
高価な物は何一つない。
どんなに立派な物を手に入れたって、所詮天国まで持っていく事なんかできないんだ。
俺が死んだらベッドと冷蔵庫は恐らく処分されるだろう。
テレビは、きっと母さんがどうにかする。
パソコンは弟に譲り渡すと書き残しておいた。
愛車のポンコツ軽自動車は母さんに、と一応書いたけど、立派な乗用車を持っている母さんにとってはありがた迷惑かもしれない。

 俺が書いた手紙は2通。手紙というより、遺言という方が正しいのだろうか。
1通は母さんへ、そしてもう1通は弟の弘行へ宛てたものだ。
俺は自分がいつ死んでもいいようにと家族へ手紙を書くクセがあった。
それはあの日からずっと続けてきた事だった。
最初は日記のようにノートに書いていたけど、パソコンを買ってからはフロッピーがノートの代わりになった。
毎晩パソコンを立ち上げ、前の日に書いた手紙に目を通し、文章を付け足したり、削除したりする。
旅行や何かの用事がある時以外はずっとずっとこの作業を続けてきた。
手紙の内容は毎日変わっていった。
この作業を続けていると人の心が連日連夜変化するという事を実感する。
いい事があった日はなんとなく手紙の内容も明るくなる。
でも、逆につらい事があった日は真っ暗な内容になってしまう。
人はいつ死ぬか分からない。
だから俺は自分がいつ死んでもいいように家族へ手紙を書き残しておく事に決めたんだ。
封筒に宛名を書いて1枚ずつフロッピーを入れれば、もう完璧だ。
俺がいなくなった後には2人それぞれがパソコンに向かい、俺の言葉を受け止める事になるだろう。

 それにしても暑い。
俺はあまり酒が強くはない。父さんもそうだった。
ビールを飲んだ瞬間は少し涼しくなったものの、今はアルコールが体全体に回って逆にポカポカしてきたような気がする。
外はほとんど風がないらしい。
窓を開けているのにちっとも風が入ってこない。したがってアパートが揺れる事もない。
少し体をずらして部屋の中を見つめる。
汚い。汚すぎる。
これじゃまるでゴミと同居しているようなものだ。
だけど、この部屋で暮らすのももう長くはないような気がする。
俺がいなくなった後は母さんがきっと綺麗に片付けてくれるだろう。

 眠いはずなのにまだ電気を消す気になれない。
他にやり残した事はないか。俺は頭を巡らせた。
だけど、特に何も思いつかない。
ものすごい財産を持っているわけでもないし、女がいるわけでもない。
今夜は何時間もかけて2通の手紙を書き上げた。
途中何度も書き直し、幾つも文章を付け足した。
もう日課になっているのに、いつまでたってもこの作業に慣れる事はない。
俺が何時間もかかって書き上げた手紙はほんの数分で読み終わってしまうに違いない。
所詮そんなものだ。
人生なんて、あまりにも儚く短いものなんだ。

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