2.
木曜日の夕方5時。
ピザ屋の従業員は皆せっせと仕事に励んでいる。
受付係は次々と鳴る電話の対応に忙しい。
メイキング係はただひたすらピザを作り続けている。
店長は売上金のチェックに余念がない。
配達係は新しい客の家を地図で確認中だ。
仕事が終わった俺は5時5分にタイムカードを押し、薄暗いロッカールームで制服の赤いポロシャツを脱ぎ捨て、私服に着替えて帰る用意を始めていた。
サラリーマンを辞めて5ヶ月。
ピザ屋で仕事を始めてちょうど4ヶ月。
この薄暗いロッカーに1人でいるといつも気が滅入ってくる。
そこへ突然同僚の山崎がやってきた。
彼は1つ年下ではあったけど仕事では2年も先輩で、同時に俺の教育係でもあった。
彼がここへやってくる理由。それは1つしかない。
普段からつり上がっている彼の目がますますきつくなっている。
神経質そうな細身の体からは怒りのオーラを発している。
俺はまた何かドジを踏んだのだろうか。
「高梨くん、伝票が間違ってたよ。もう3回も同じ間違いを繰り返してる。本当にやる気あるのか?」
やっぱりか。
彼の声は怒っているというより、呆れているような声だった。
「すみません」
「簡単な事なんだからちゃんとやってくれよ。店長に文句言われるのは俺なんだからさぁ……」
目の前で年上の俺にタメ口でまくしたててる君。
君は、今日俺が死んでしまっても後悔しないのかい?
帰る用意を済ませた後、挨拶をするためにもう一度キッチンを覗く。
皆忙しくて誰も俺の事になんか目もくれない。
この人たちは俺がいなくなってもきっと何も変わらないだろう。
いつものように出勤し、いつものように仕事をして、いつものように家路につく。
明日俺のロッカーには花が飾られるかもしれない。
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
きまりきった挨拶を済ませると裏口から店を出て愛車のポンコツ軽自動車へ乗り込んだ。
国道へ出るとそこはすでに渋滞していた。
でも、それほどイライラしない。渋滞に巻き込まれるのもこれが最後になるかもしれない。
そう考えるとユウウツなはずの渋滞でさえも愛しく思えてくる。
ルームミラーには後続車のドライバーが映し出されている。
彼は恐らくサラリーマンだ。もう随分前から携帯電話を片手に談笑している。
きっと今日は彼にとって良い1日だったに違いない。
右隣の車は赤いスポーツカーだ。
ドライバーは俺と同じ年くらいの男だった。
彼はなかなか進まない車の中でミラーを見ながらしきりに髪を整えようとしている。
きっとこれから女の子と会う約束をしているに違いない。
外は快晴だった。7月ともなると日が長い。
もう5時を回ったというのにまだ太陽が高い位置にある。
夕方から雨が降るという予報はどうやらはずれたようだ。
携帯が鳴った。
俺はいつもの習性でろくに相手も確かめずに電話を取る。
「はい、もしもし。高梨です」
電話の相手は太い声の男だった。
「警察です。高梨弘行くんのお父さんですか?」
警察。急に胸がドキドキしてくる。
「弘行は弟ですけど、弟に何かあったんですか?」
「パチンコ店にいる所を補導しました。すぐに迎えに来てください」
出るんじゃなかった……
俺は電話をたたき切って後部座席へ投げつけた。
さっきまで気にならなかった渋滞に突然イライラしてくる。
警察署へ着くまでいったい何時間かかるんだろう。
1時間? 2時間?
あのバカ! 弘行のヤツ、中学生の分際でいったい何やってるんだ!
弟と2人で警察署を出た時は午後8時を回っていた。もうすっかり夜になってしまった。
普段は生意気でうるさいくらい元気なはずの弟がその時だけは沈んでいた。
なんだか調子が狂う。
兄貴として最後の説教をしようと思っているのに、こう落ち込まれちゃとても強気に出られない。
「ほら、乗れよ」
俺は弟のために助手席のドアを開けてやった。すると弟は何も言わずに車に乗り込んだ。
車を走らせて10分。弟は一言も喋ろうとはしない。
警察へ連れて行かれたのが相当堪えたらしい。
沈黙に耐えられなくなった俺は、珍しく無口な弟に声をかけた。
「弘行、お前パチンコ屋で何やってたんだ?」
すると弟は口を尖らせてこう答えた。
「パチンコに決まってるだろ? パチンコ屋だもん」
前言即撤回。
弟は普段と何も変わりがない。
「警察から電話が来た時は何事かと思ったぞ」
「ねぇお兄ちゃん、お腹すいた」
こいつ! 全然聞いてやしない!
「お前、食ってないのか?」
「食ってないよ。カツ丼は出なかったもん」
「カツ丼? なんだそりゃ」
「警察に捕まったらカツ丼が食える。ドラマでもよくやってるだろ?」
「そうなのか?」
「警察も不景気なのかな。カツ丼も出ないなんてさ」
「バカ! 俺たちが必死で働いて支払った税金がカツ丼に使われてたまるかよ!」
「あっ、ラーメン屋だ。ねぇラーメン食べようよ!」
少しは話を聞けったら!
俺は結果的に弟が指さした赤いのれんのラーメン屋の前へと車を止めた。
弟はさっさと車を飛び降りてのれんをくぐり、元気よくラーメン屋の戸を開けた。
最後の晩餐が台無しだ。
1つだけ空いていたテーブルに弟と向かい合って座り、そう多くはないメニューを眺める。
「お前、何にする?」
「みそラーメンとギョーザ!」
「デブになるぞ」
「腹減ってんだもん。カタイ事言うなよ」
弟はすっかりご機嫌だった。元気がなかったのは腹が減っていたというだけの事だったんだ。
俺は目の前でラーメンにがっつく年の離れた坊主頭の弟を半ば呆れて見つめていた。
それなりに精一杯オシャレはしているけど、元々チビだし美形というわけでもないから単にから回りしているようにしか見えない。
腫れぼったい一重の目はいつも寝起きのようだし、鼻もそう高くはない。
口がでかいのはこいつのお喋りな性分を表しているかのようだ。
Tシャツの下の骨格はまだまだ頼りなく、男らしさは感じられない。
母さんにねだって買ってもらった流行りのスニーカーも、見た所サイズは随分小さいようだ。
それにしても警察に補導されたというのに、全く無邪気なもんだ。一言も喋らずラーメンに夢中になっているんだから。
「チャーシュー食べないならちょうだい」
久々の発言がこれだ。
弟は返事をする前に俺の丼からチャーシューをかっさらっていった。
こういう時だけは素早いんだから……
「お前、よく食うな」
「育ち盛りなんだよ」
「全然育たないじゃないか」
「うるさいなぁ」
「早く食え。もう行くぞ」
「待ってよ」
「置いてくぞ」
再び弟を乗せて車を走らせると途中で雨が降ってきた。
遅まきながら予報が当たったというわけだ。
もう9時半か。
弟を送るだけとはいえ実家へ行くのは気が進まなかった。
家を飛び出してからもう4ヶ月になる。俺はその間一度も実家へ帰った事はなかった。
もう帰らないと宣言していたからだ。
母さんは俺たち兄弟にものすごく厳しかった。遊びたい盛りの中学、高校の頃は随分不自由をした。毎日が戦いだった。
俺が弟に甘いのはこいつに対して負い目を感じていたからだ。俺が家を出た後、母さんの目はすべて弟に向けられている。
きっとこいつも不自由な思いをしているに違いない。
交差点が見えてきた。
もうすぐ信号が赤に変わる。
その時ふと思った。このままブレーキを踏まずに赤信号に突っ込めば死ねるかもしれない。
俺はアクセルを踏み込んだ。ハンドルを持つ手に力を込める。
その時、信号が赤に変わった。