自殺志願
 11.

 土曜日の昼下がり。ピザ屋は戦場だった。
従業員11名は息つく暇もない。
ピザが出来上がると配達係は次々と軽自動車に乗って出て行く。
注文の電話は鳴り止む事がない。
テイクアウトの客はチラチラと時計を見ながら自分の注文したピザが出来上がるのを今か今かと待っている。
時々気の短い客がまだ出来ないのか、と受付係の女の子に詰め寄る。
俺は苛立ちを隠せない客をなだめようとアイスコーヒーをサービスする。
これに気を良くした客はあと5〜6分は待っていてくれるだろう。

 まだ5月だというのに今日はヤケに暑い。
配達を終えて戻って来たバイトの学生がハンカチで額の汗を拭う。
制服の赤いポロシャツが余計に暑さを際立たせている。
ピザ屋のキッチンは外よりも暑い。温度計に目をやると思わずめまいがしそうになる。

 2本ある電話が同時に鳴り出した。
受付係の女の子2人が一斉に電話を取る。
メイキング係はひたすら無言でピザを作り続けている。
俺はレジの中に釣銭用の百円玉を補充していた。
全面ガラス張りの店内は外の紫外線を余すところなく受け入れている。
「テイクアウトでお待ちのお客様、大変お待たせいたしました」
その声を背中で聞いてひと安心する。
「コーヒー、ごちそう様」
そう言って帰る客の声を聞いてもっと安心する。

 釣銭の補充が終わり、ブラインドを下ろそうかと思った瞬間、入口の自動ドアが開いて1人の男が店の中へと入って来た。
受付係の手はふさがっている。
俺は太陽の光を浴びて真っ直ぐにカウンターへ向かって来るその男を出迎えた。
「いらっしゃいませ。お持ち帰りでよろしいですか?」
そう言ってその男の顔を見た時、一瞬言葉を失った。
それは1年ぶりに会う弟の弘行だった。

 弟は今年で17歳になる。もう高校2年だ。
すっかり大人になって、もう今では俺の事なんか構ってくれなくなってしまった。
もうずっと話もしていなかったのに突然店へやってくるなんて、どういう風の吹き回しだろう。
「弘行、珍しいな」
「仕事の邪魔して悪かった?」
俺は久しぶりに会う弟の姿をまじまじと見つめた。
髪は肩のあたりまで伸びていて、茶髪。しかも耳にはピアスをしている。
学校の制服はわざとダボダボな物を着ている。
全く、母さんもこいつには甘いな。
「何の用だ? 忙しいんだよ」
「冷たいなぁ。兄貴は昔からそうだったよな」
「ふざけるなよ。お前が補導された時警察まで迎えに行ってやったのは誰だと思ってるんだ?」
「もう時効だろ?」
「とにかくここじゃ話せない。裏へ回ってくれ」
「はいはい」
弟はダラダラとした足どりで自動ドアから店を出た。

 裏口を出た所でたばこをふかしながら待っているとすぐに弟がやってきた。
すると弟はいきなり両手を合わせて俺に哀願した。
「兄貴、金貸してくれ。頼むよ」
そんな事だろうと思ったよ。何かないとこいつが来るはずないんだから。
たばこをふかしながら弟をじっと観察する。弟の顔を見れば大体の事は想像がつく。
そうでもないか……しばらく会ってないから、こいつの事なんかもう分からないかもな。

 弟は照りつける太陽の下、足元に転がっている石ころを蹴り飛ばしながら俺の言葉を待っていた。
「金って、いくらだ?」
弟は右手の指を3本立てた。
「3万円」
「バカか!」
「じゃあさ、お年玉って事にしてよ。1年1万円。向こう3年分まとめてくれるって事で手を打ってよ。お願い!」
また両手を合わせて神頼みだ。まぁ、泣き脅しよりいくらかマシかな。
お年玉か。そういえば今年の正月に実家へ帰った時、こいつには会えなかったんだっけ。
俺が帰ってくると分かっていたのに友達と出かけてしまったんだ。
こいつも家族より友達の方が大事な年齢になったというわけだ。
「何するんだよ、3万も」
「ヤボな事聞くなよ」
「向こう3年間お年玉はナシだな? それでいいんだろ?」
「うん!」
俺は弟に右手を差し出した。すると弟はすぐにその手を握った。
なんか、うまく乗せられたような気もするが、まぁいいか。こんな事は初めてだし。

 「ちょっと待ってろ。金を取ってくる」
俺は薄暗いロッカールームへ財布を取りに行った。そこでやっと気づいた。
そうだ。銀行へ行くのを忘れてた。今俺の財布には843円しか入っていない。まいったな。
その時、ロッカーに入っているある物に目が止まった。白い紙袋だ。
それは弟の誕生日にと用意してあったプレゼントだった。
俺はその紙袋を持って再び弟の待つ裏口へと向かった。

 弟は日陰に座り込んで野良猫を見つめていた。
店の裏口にはエサを求めてしょっちゅう野良猫が顔を見せるんだ。
弟は俺が行くと飛びっきりの笑顔を見せてすくっと立ち上がった。
野良猫は俺の姿を見て一目散に駆け出すとあっという間に姿が見えなくなった。
いつも追い払われているから、俺の顔をすっかり覚えてしまったらしい。
俺はわざと申し訳なさそうな顔をして弟にこう言った。
「弘行、ごめん。明日でもいいかな? 今日、銀行に行けなくてさ」
「いいよ! じゃあ明日もう1回集金しに来るから」
「集金って、お前は取立て屋かよ」
「やっぱり持つべきものは兄貴だな!」
「調子いい事言ってるよ」
弟は俺が手に持っている白い紙袋に注目した。俺はこの瞬間を待っていたんだ。
「ねぇ、何それ?」
「弘行、誕生日は来月だったな。ちょっと早いけど……」
「何? 何かくれるの?」
弟の目が輝いた。
「ほら」
紙袋を手渡して、じっと弟を観察する。いったいどんな顔をするだろう。

 照りつける太陽の下で弟の顔がどんどん曇っていく。
袋の中身は黒いブルゾンだった。弟はそれを取り出し、太陽を遮るように空に向かって広げてみせた。
「なんだよこれ?」
「お前が欲しがってたやつだ。背が伸びたらお前にやるって約束したろ? これで向こう4年間お年玉はナシだからな」
「ええ?」
弟は大ブーイングだった。
この時俺は初めて弟に勝ったような気分になっていた。
だから、弟の猛抗議も余裕で受け止める事ができる。
「こんな古くさい物着られるわけないだろ? ふざけんなよ」
「残念でした。言い出したのはお前なの。それ高かったんだぞ」
「こんなのいらねぇよ」
「じゃあ3万円もいらないんだな」
「汚ねぇな……」
弟はそう言って俺を睨みつけた。
「兄貴、あの約束まだちゃんと覚えてたんだな」
「もちろん覚えてたさ」
「変な事覚えてるよな、兄貴は」
「俺は約束を守る男だぞ」
「ねぇ、俺が本気でこれ欲しかったと思ってるわけ?」
「違うのか?」
「まぁいいや……しかたがない。もらってやるよ」
弟はブツクサ言いながらもちゃんとブルゾンを紙袋に入れて手に持った。

 横断歩道の手前で弟と並ぶと、もうほとんど身長の差がない事に気がついた。
目の高さがほとんど一緒だ。
本当に大きくなったな。俺も本格的に兄貴は卒業だ。弟はもうすっかり一人歩きを始めてる。
あれ。ちょっと待てよ。
こいつは今年で17歳。4年たったら21歳。
おい、いったいいくつまでお年玉をもらう気でいるんだ?
やっぱり乗せられた……
でももう約束をしてしまったからしかたがない。
まぁ、俺の人生は所詮こんなものだろう。
兄貴に生まれてしまったから、しかたがない。兄貴は損するものなのさ。

 信号が青に変わった。俺は弟の背中を押して送り出した。
「気を付けて帰れ。明日集金忘れるなよ、取立て屋さん」
弟はふっと笑って横断歩道を渡って行った。

 さぁ、仕事へ戻るか。暑苦しいキッチンが俺を呼んでいる。
そう思って再び店へ戻りかけた時、弟が何か叫んでいるのが聞こえてきた。
俺は道の向こうで太陽を背にして立っている弟を振り返った。
弟は確かに俺に向かって何かを叫んでいる。
「兄貴! さっきの約束、やっぱり破棄するよ!」
聞き捨てならない。約束は守れと教えたはずなのに。
俺たちを挟んで車が左右から行き来していた。俺も負けずに大声で応戦した。
「どういう事だよ!」
「フロッピーを買い取って! 2枚で3万円だよ!」
「何?」
「聞こえなかったの? フロッピーを買い取って!」
フロッピー……? まさか、まさかあのフロッピーか?
その時、俺の周りだけ気温が10度は下がった。寒気がする。
このバカ! お前があれを持ってたなんて、夢にも思わなかったぞ。
弟の目が笑っていた。こいつはさっきから逆転するチャンスを狙っていたんだ。
「買い取ってくれないなら母さんに見せちゃうよ!」
「バ、バカ! よせ! 分かった。買い取ってやるからすぐに持って来い!」
「やっぱり1枚3万円にする」
「バカ! ふざけんなよ! ピザ屋の給料なんかたかが知れてるんだぞ!」
「分かった。じゃあ2枚で3万円! それで手を打つよ。じゃあ明日ね!」
俺は軽い足どりで去って行く弟を見送った。
乗せられた……完全に乗せられた。

 俺は必死になってフロッピーに保存した手紙の内容を思い出そうとしていた。
だけど、もう4年も前の事だ。どうしても思い出せない。
ただ1つだけ分かっている事がある。
それは今読むと顔から火が出るほど恥ずかしい内容に違いないという事だ。
あいつはフロッピーの中身を見たんだろうか。見たよな。
最悪だ。
俺はめまいがして思わず歩道にしゃがみこんでしまった。
めまいの原因はあまりにも多すぎた。
太陽の照りつける暑さ。
急に体を襲った寒気。
変な汗。
心の中を裸にされてしまったような羞恥心。
とても立ち直れない……
やられた。甘かった。
あいつはちゃんと知っていたんだ。あのフロッピーがいつか自分の最大の武器になるという事を。
弟に勝とうとした事がそもそも間違いだった。
あいつは生まれて以来の負け知らずだ。ちゃんと勝負どころを心得ている。
弘行、お前の勝ちだ。今のは見事だったよ。

 いつの間にか信号が変わり、停止線で止まった車に乗っている人たちの視線が痛いほど突き刺さる。
動悸が激しい。
俺は歩道にしゃがみこんだまま電柱につかまり、大きく深呼吸をした。
電柱は触ると熱かった。
だけど、しだいにその熱が体に伝わって寒気は解消されていった。
再び信号が変わって次々と車が俺の前を走り過ぎて行く。
ああ、かっこ悪い。明日がユウウツだ。
いったい弟はどんな顔してやってくるだろう。穴があったら入りたい。

 俺はうなだれながらもとぼとぼと歩いて店へ戻り、キッチンへ入ってイスに腰掛け、水を1杯飲んだ。
急に大きな声を出したせいで喉が痛い。
「店長、具合が悪いんですか?」
メイキング係の女の子が心配そうに声をかけてくれた。
俺は誰の目からも意気消沈しているように見えるらしい。
頭痛がしてきた。
具合が悪いなんてものじゃない。もう死にたい気分だよ。

 携帯が鳴った。
俺はいつもの習性でろくに相手も確かめずに電話を取る。
「もしもし。高梨です」
「兄貴?」
なんだよ、またお前か。
「言い忘れた事があるんだけど」
「なんだ? 早くしろ。俺は忙しいんだ」
「俺にパソコンをくれるんだろ? 明日金と一緒に持ってきて」
血圧が上がった。頭と顔が熱い。
俺は次の瞬間、立ち上がって叫んでいた。
「弘行! ぶっ殺すぞ!」
「あははは。怒るなって」

 弟が生まれた時はすごく嬉しかった。
兄弟喧嘩をするのが夢だった。
だけど、いつでも勝ちは弟に譲ってやろうと決めていた。
兄貴は損だ……
今度生まれてくる時は絶対に弟がいい。
ブルゾンとパソコンと3万円。
それは次に生まれてきた時、兄貴から取り返す事にしよう。

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