自殺志願
 10.

 次の日の夜、仕事の後で弟を家まで送った。
今夜からまた1人になる。少し淋しい。
でも、そんな事は言えた義理じゃない。

 俺はその日、実家の前で車を止めた。
こんなに近くで実家のレンガ色の壁を見るのは久しぶりだった。
俺はフロッピーを失った事で家族との距離がほんの少し縮まったような気がしていた。
助手席の弟はまだ少し不安そうな顔をしている。
「弘行、大丈夫か? 俺も一緒に行ってやろうか?」
弟は不安そうなまま、それでも精一杯大人の顔をしてこう言った。
「俺は平気。でもお兄ちゃん、家へ寄って行って」
「いや……また今度にする」
「じゃあ、今度は絶対来て」
「ああ」
「約束だよ」
俺たちは右手で握手をし、ブンブンと2度振ってから手を離した。

 弟はでかいかばんを重そうに持って車を降りた。
俺はそれからすぐに車を発進させた。すぐにその場から離れたかったんだ。
ルームミラーに映る弟の姿がだんだん小さくなっていく。
でも、小さくなるだけでなかなかその影は消えなかった。
弟は俺の車が見えなくなるまでずっと見送り続けてくれたんだ。
繁華街に入り、輝くネオンが見えてくる。
だけど、今日はあまり綺麗だと感じる余裕がなかった。

 1人ぼっちのアパートへ着いた。
自分の手で鍵を開けて部屋の中へ入る。
見事に片付いている部屋は1人だとなんだか落ち着かない。
いつものように何もする気が起きない。
窓を開け、ベッドに寝転がってたばこを口にくわえ、火をつける。
灰皿はちゃんと手の届く所にあった。もうビールの空き缶を使うような事もない。
淋しい。本当は家へ寄って行きたかった。
でも、そうするとここへ帰った時今以上に淋しくなるような気がしてやめた。
どこからか人々の笑い声が聞こえてくる。
きっと隣の部屋に客が来ているんだ。余計に1人ぼっちが身にしみる。
俺が弟と笑っている時もこうして誰かに淋しい思いをさせてしまったんだろうか。
もう寝よう。明日はまた仕事だ。
俺は手を伸ばして窓をぴしゃりと閉め、弟がたたんでいってくれたパジャマに袖を通し、たばこをもみ消した。

 電気を消そうとしたその時、携帯が鳴った。
俺はいつもの習性でろくに相手も確かめずに電話を取る。
「もしもし。高梨です」
「お兄ちゃん?」
電話はさっき別れたばかりの弟からだった。
「おお。どうした? たっぷり説教されたか?」
「うん。でも、もう済んだよ」
「そうか」
「お兄ちゃんは、約束を守る男だよね?」
確かめるように弟がそう言った。
父さんにずっと言われ続けてきた言葉が頭をかすめる。
約束はちゃんと守りなさい、俺はずっとそう言われて育ってきた。
昨日から弟と2つも約束を取り交わしてしまった。
まさかこんな時にあのカタブツな父さんの言葉に縛られるなんて思ってもみなかった。
それにしても、弟はいつからこんな駆け引きができるようになったんだろう。
こいつは俺が約束を破れない事を知っている。
目の前に出された食事を残せない事も知っている。
それは全部父さんにそう言われて育ったせいだ。
約束はちゃんと守りなさい、出された物は残さず食べなさい。
そして俺も今まで弟に同じ事を言い続けてきた。
約束は守れ、食事は残すな。

 「俺の背が伸びるまできっと3年くらいはかかるんだから、それまで予約したブルゾンはちゃんと預かっておいてね」
「分かった。リボンをつけといてやる」
「お兄ちゃんは、もう大丈夫だね?」
そう言われた時、またドキッとした。
こいつは俺の心の闇に少しは気づいていたんだろうか。
俺はいつも弟に助けられてきた。
弟に心配をかけるなんて、俺もまだまだガキだという事なんだろうか。
「バカ。お兄ちゃんは大丈夫だよ」
「よかった」
今夜からまた1人に戻る。
3週間も誰かと一緒にいた代償は大きい。また1人に慣れるまでにはきっと同じくらいの時間が必要になる。
でも、家を出るのは自分で決めた事だ。ちゃんと1人でがんばっていくしかない。
それが俺のプライドだ。俺の生き方だ。
「お兄ちゃん、もう1つの約束は?」
「なんだっけ?」
「いつ帰って来てくれるの?」
「……」
俺はその後すぐに眠ってしまったから、弟の次の言葉は記憶がない。

 次の日、俺はちゃんといつも通りピザ屋へ出勤した。
そしてこれもいつも通り。キッチンへ入って皆に元気よく挨拶をする。
「おはようございます」
すると皆も元気よく挨拶をしてくれた。
「おはよう、高梨くん」
外は曇り空だった。俺の心も快晴とは言えなかった。
でも、弟と生きる約束をしてしまったからしかたがない。
今日1日クタクタになるまでがんばってみよう。
何も考えず、ぐっすりと眠れるように。

 昼過ぎ。
休憩に入ろうとしていた時、受付係の女の子に呼び止められた。
彼女はちょっと困った顔をしていた。
「高梨くん、3丁目の岸田さんって、知り合いなの?」
3丁目の岸田? さぁ、知らないな。
「今注文の電話が入ったんだけど、高梨くんに配達してほしいって、ご指名なのよ」
俺はキッチンのドアに貼ってある地図を見てあっ、と思った。
ロングヘアーの美人が頭に浮かぶ。
俺は急いで出来上がったピザの箱を持ち、車をぶっ飛ばした。

 うちの店は迅速なのが売りだ。
公園通りを真っ直ぐ走りぬけ、駄菓子屋の手前で右折。
その後3本目の道を左折。もう見えてきた。角から5件目の赤い屋根。
あそこがロングヘアーの美人のお家ってわけさ。

 前と同じように車を降りて白いドアの前に立ち、インターホンを押す。
するとストップウォッチを持った彼女が勢いよくドアを開けてくれた。
「記録更新! 14分38秒。この前は16分かかったのに」
彼女は薄い黄色のブラウスにジーンズのミニスカートをはいていた。
その細くて長い脚を見つめていると彼女はしてやったり、といった顔でくるりと一回転して見せた。
「どう? この洋服昨日買ったばかりなの。似合う?」
俺は正直に答えた。
「うん。よく似合うよ」
「よかった。最初にお兄さんに見てもらいたかったの」
「それで俺を呼んだのか?」
「うん。ピザが食べたくなったしね」
「配達員を指名する客なんて初めてだよ」
「いいじゃない。お客様は神様でしょう?」
「まぁな」
彼女はピザの入った箱を受け取り、今日はミニスカートのポケットから千円札を2枚取り出して俺に渡した。
俺は下を向いて集金袋の中から釣銭をかき集めようとしていた。
「ねぇ、ピザの注文ナシでお兄さんに会いたい時はどうすればいいの?」

 うわっ。今の聞いたか?
生きてりゃいい事があるってものさ。

   TOP  NOVELS  LONG STORIES  COVER  BACK  NEXT