1.
最近、夜中に携帯が鳴る。
だけど、決して長くは鳴らない。いつも3回くらいで切れてしまう。
電話が鳴っている事に気づいて起き上がった時にはもう部屋は静まり返っている。
そして僕は思う。
今度はすぐに出られるように携帯を枕の下に入れて寝よう。
だけど、僕が待てば電話は鳴らない。
そのうち忘れていつものように携帯を机の上へ置いたまま就寝するようになる。
そうするとまた夜中に電話が鳴る。
あっ、と思って起き上がった時にはもう電話は鳴り止み、静寂がその場の空気を支配している。
まるで僕をあざ笑っているかのようだ。
僕の携帯に唯一"非通知"でかけてくる君。
いつまでたっても君の声を聞く事はできないのだろうか。
まるで実験室のようなその部屋に緊張が走る。
僕は1人丸イスに腰掛け、テーブルの上に置かれた1枚の皿をじっと見つめる。
目の前に置かれた皿の上に乗っかっている掌サイズの白くて丸い物体。
僕は恐る恐るそれを手にとって口に入れた。
口の中に甘ったるい味が広がっていく。僕は3回噛んでそれを飲み込んだ。
我慢できずに青い湯のみに入った冷たいお茶を一気飲みする。
その様子を固唾を飲んで見守っていた畑中さんが肩を落とす。
「またダメ?」
「すみません。甘いです」
「そう? 今度はバッチリだと思ったんだけどなぁ」
「ごめん、畑中さん」
「いいの。正直に言ってくれてありがとう」
ここはとある食品会社の商品開発部だ。
僕は大学1年の時からこの会社でバイトをしている。
畑中さんはデザート部門担当の開発研究員だ。
29歳。独身。仕事に生きる女 (?)
彼女は試作品が出来上がると必ず僕に食べてみてくれと言う。
今食べたのは、畑中さん命名"野イチゴまんじゅう"だ。
まんじゅうの皮の中に野イチゴたっぷりのアンコがたらふく入っている。
イチゴの酸味が効いていてそう甘くはないはず、と言われて口に入れたのだが、やはりアンコはアンコでしかない。
僕は甘い物が苦手だ。畑中さんはそれを知った時から試作品を僕に食べさせるようになった。
僕のように甘い物が苦手な人にこそおいしいと言ってもらえるデザートを作るのが彼女の夢なのだという。
「さて、報告書を作るとしますか」
彼女は浮かない顔でそう言いながら僕の隣の丸イスに腰掛け、白衣の胸ポケットからボールペンを取り出した。
色白でちょっと頬がこけている彼女の横顔。長いまつげが印象的だ。
まつげの下の大きな目はテーブルの上に置かれた報告書を真っ直ぐに見つめている。
ここでバイトを始めてからもう何回この作業を繰り返した事だろう。
畑中さんに呼ばれて最初にここへ来た時、ここは恐怖の実験室だと思った。
まず、部屋の造りが小学校の時の実験室にそっくりだったんだ。
大きな机がいくつか並んでいて、壁一面を陣取っている棚には粉末の入った容器が並べられている。
そして、日が当たらない。
僕は小学校の頃実験室が怖くてたまらなかった。幽霊が出るという噂が流れていたからだ。
最初にここへ来た時研究員の人たちは皆白衣にマスク姿で火を扱っていて、まるで科学の実験をしているように見えた。
そして僕は実験用モルモットになった気分だった。
だって、実験によって作り出されたばかりのわけの分からない物体を食べさせられるんだから。
科学の実験ならアルコールの香りが漂っているイメージだけど、甘ったるい香りの充満するこの部屋は甘い物が苦手な僕にとってまさしく恐怖の実験室だった。
畑中さんには悪いけど、この試食作業は僕にとって恐怖でしかなかった。
僕の仕事は主に販売促進部の手伝いだ。決して食べる事ではない。
スーパーの開店や何かのイベントへ出かけて行っては新商品をアピールして道行く人たちに試食を促し、商品を売る。
まぁ、そんな所だ。
僕は大学を出たらここの仕事が本業になる。
1週間前に人事部長に呼ばれ、良かったら卒業後にここへ入社しないか、と誘われた。
大学3年のこの時期に進路があっさり決定するなんて、僕はツイてる。
僕は平凡に、幸せに暮らしていた。
幸せすぎて怖いくらいだ。
電話が鳴ってる。
無意識に枕の下に手を入れた。だけど、そこに携帯は見つからなかった。
またやった。
どこへ置いたんだっけ? 机の上? かばんの中?
そう思って目を開けようとした瞬間に呼び出し音が止んだ。
いつもこうだった。
明日は絶対忘れずに枕の下へ携帯を入れておかなくちゃ。
今いったい何時だろう。
眠い。眠すぎて目が開かない。
きっとまだ真夜中だ。
だって、あまりに静かすぎる。