1.
里奈との出会いは決して劇的なものではなかった。
僕は高校卒業まで北海道の帯広で過ごし、その後東京の大学へ進学した。
大学卒業後は東京で衣料品卸会社へ就職したが、入社3年目には札幌へ転勤になった。
本当は北海道へ戻りたくはなかった。
だけど、そこは悲しきサラリーマン。会社の辞令は絶対だ。
札幌で迎える初めての秋。
僕が部長に連れられて飲みに行ったのは、10月に入って二度目の金曜日だった。
「吉田、次行くぞ! ついて来い」
「はい」
僕が転勤した札幌営業所で配属になったのは企画部だった。
そこの部長は大の酒好きで、彼に一度夜の街へ連れ出されるとなかなか帰してもらえない。
三軒、四軒のはしごは当たり前だ。
その日僕らは居酒屋で飲んだ後カラオケスナックへ行き、更にまた次の店へと向かっていた。
僕は部長の後を黙ってついて行った。
ネオン輝くススキノの街を歩くとたくさんの人たちとすれ違う。
ほんの20〜30メートル歩く間に数多くの客引きが声をかけてくる。
部長は慣れたもので、自分に近づいてくるそれらの人々を見事に振り切り、迷う事なく目的地へ向かって歩いて行った。
カラオケスナックを出てから5分ほど歩いた所で部長はある小さなビルの中へと入って行った。
部長は100キロクラスの巨漢だ。しかし動きは機敏で、歩くのも早い。
僕は部長の大きな背中を見失うまいと早足になり、後を追いかけた。
エレベーターの手前にある階段を下りて地下へと向かう。
部長は階段を下りて正面に見えてきた真っ黒なドアを開けてその店へ入った。
僕は部長の開けたそのドアが閉まる前になんとか店の中へ滑り込む事に成功した。
そこはごく普通のスナックだった。
店へ入ると左側にカウンターがあり、右側には3つのボックス席がある。
カウンターの奥の棚には客がキープしてあるボトルがたくさん並べられていた。
店の中央には小さくて足の長い丸テーブルがある。その上には白い花が生けられた
花瓶が置いてあった。
店はヒマだったようだ。
僕らが行くと背もたれの低いカウンターのイスに座ってたばこを吸っていたホステス3人が慌てて一斉に立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
そう言って部長のコートを預かったのは髪をアップにしている若いホステスだった。
もう1人は毛先だけカールした髪を振り乱しながら自分たちの吐き出したたばこの煙を手で払いのけ、急いで3人分のたばこケースと吸殻の入った灰皿を片付けようとしていた。
僕が見た時、残りの1人はすでにカウンターの奥へと消えていた。
恐らく客の死角になる場所で化粧を直しているか、お通しの用意をしているか、そのどちらかだろう。
「随分ヒマそうじゃないか。まさか俺たちが今夜初めての客じゃないだろうな」
部長がふざけた調子でそう言うと、髪をアップにしたホステスがくすっと笑った。
「今日は早い時間から忙しかったんですよ。今ちょうどお客さんが帰ったところなんです。さぁ、座ってください。部長さんのボトル、お出ししますね」
僕らは1番右端のボックス席へ案内され、グレーのソファへ2人並んで腰掛けた。
そのソファは冷たかった。
とても今まで誰かが腰掛けていたとは思えないほど冷たかった。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
髪をカールしたホステスが僕と部長それぞれにおしぼりを差し出した。
そのおしぼりは一瞬やけどするかと思うほど熱かった。
この店、大丈夫かなぁ。
そう思った時、黒いドアが開いて薄紫色の和服を身にまとったかわいらしい女性が現れた。
そう若くはないが、小柄で品のいい感じの女性だった。
部長は普段部下に見せた事のないいい笑顔で彼女に声をかけた。
「ママ! 久しぶり!」
「部長さん、いらっしゃいませ。お元気でしたか?」
ママさんは営業用の笑顔で部長に挨拶をした。
小柄で、品がよくて、和服が似合う。なるほど。部長の好みはこういう人なのか。
部長はママさんが来てから目尻を下げて彼女だけを見つめ、まるで僕の存在を忘れてしまったかのようだった。
最初は髪をアップにしたホステスが僕の相手をしてくれていたけれど、そのうち4人連れの客が二組同時にやってきて、彼女はそっちの方にかかりっきりになってしまった。
部長はだいぶ酔っていて、そのうちママさんの手を握ったり、急に甘えた声を出したりして僕をハラハラさせた。
ママさんは笑顔を絶やさなかった。プロだ。だけど、とても居たたまれない。
「ちょっとトイレに行ってきます」
やがて僕は立ち上がり、一旦店を出た。
トイレへ行って鏡を見ると少し顔が赤くなっている事に気がついた。
腕時計に目をやると、すでに日付が変わっていた。
僕はトイレで10分ねばった。
店へ戻ったら具合が悪いフリをして帰ろうと思ったんだ。
今なら部長も喜んで僕を帰してくれるに違いない。
再び黒いドアを開けて店へ戻ると、部長はママさんにぴったりくっついて彼女の肩に手を回していた。
とても席へ戻る勇気はない。やっぱりもう帰ろう。
そう思った瞬間、僕の目の前に第三のホステスが立ちはだかった。
彼女は長身だった。ハイヒールを履いているせいもあるだろうけど、身長180センチの僕よりほんの少し背が低いだけだった。
「カウンターへどうぞ」
ちょっとハスキーな声だった。
僕は部長に声をかけるタイミングを待つ事にして、彼女の言葉に従った。
カウンター席に座っている客は僕だけだった。
彼女はカウンターの中へ入って僕の向かい側に座り、氷を入れたグラスにミネラルウォーターを注いで僕の目の前に置いた。
「少し休んでから飲み直しましょう。仕事帰りですよね? お疲れ様です」
僕らはミネラルウォーターで乾杯した。
ほっとした。もう酒は十分すぎるほど飲んだ。今はミネラルウォーターがありがたい。
彼女も僕と同じ気分だったようだ。
僕は目の前でグラスの中の水を一気に飲み干す彼女を見つめていた。
彼女はまるで砂漠の真中で何日も水に飢えていた人のようにグイグイと透明な液体を喉に流し込んでいった。
こんなにおいしそうに水を飲む人は初めてだ。
彼女は綺麗な人だ。
恐らく大多数の男たちが彼女に対してそんな印象を持つに違いない。
肩まで伸びた茶色の髪はレイヤーが入っていて軽快な動きを見せる。
綺麗に整えられた眉はアーチ型で、優しい雰囲気を与えてくれる。
くっきり二重の瞳。高い鼻。ルージュを塗った薄い唇。
真っ赤なマニキュアが光る長い爪。スラッとした長身。おまけに黒いシンプルなスーツの着こなしは抜群。
僕は思わずその場で彼女をスカウトした。
「ねぇ、モデルをやってみる気ない?」
彼女は別に驚きもしなかった。後から考えればもうすでに部長から同じ誘いを受けた経験があったのかもしれない。
「僕は洋服屋で働いてるんだ。今企画部にいるんだけど、毎年2回は展示会でショーを開くんだよ。そのモデルをやってみる気ないかな?」
そう言いながら僕はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、彼女に渡した。
すると彼女は両手で受け取ったその名刺を食い入るように見つめていた。
なんだろう……
モデルをやらないかと言った時は驚きもしなかった彼女が僕の名刺を見た時には何故かひどく動揺しているように見えた。
僕の名刺には当たり前の文字が並んでいるだけだった。
会社名、会社の住所、電話番号やメールアドレス。
彼女はその時、僕の名前を見つめていた。"企画部 吉田修一"と書かれたその文字を。
ただその時僕はあまり彼女の態度を気にする事はなかった。彼女が動揺しているように見えたのはほんの一瞬だけだったからだ。
「あなたの名刺ももらえる?」
「あ、はい」
彼女は慌てて自分の名刺を取り出し、笑顔で僕に手渡してくれた。
「里奈です。よろしくね、吉田さん」
僕は名刺を受け取る時、彼女の赤く光った爪に見とれていた。
名刺には"スナックセシル 里奈"という黒い文字が印刷されていた。
いつもはそんな事しないのに、何故かその時だけは名刺をひっくり返して裏側を見てみた。
するとそこには"お客様へのメッセージ"という文字が印刷されており、その下には彼女が書いたとみられる文字が綴られていた。
スナックセシルをよろしくお願いいたします。
里奈に会いたくなったらいつでもいらして下さいね。
本日はご来店ありがとうございました。
僕はその文字をしばらくじっと見つめていた。
彼女がその時どんな顔で僕の様子を伺っていたのかは分からない。
その時の僕にはもう周りを見る余裕なんかなかったから。