2.
里奈から初めてメールが来たのは彼女と出会ってから2週間後の事だった。
その内容はとてもありふれたものだった。
吉田さんへ
こんにちは。
先日は当店へご来店くださいましてありがとうございました。
ただいま当店ではボトルの半額キャンペーンを行っております。
この機会に是非お立ち寄りください。
従業員一同、首を長くしてお待ちいたしております。
スナックセシル 里奈
僕がこのメールを受信したのは、会社でパソコンを立ち上げた時だった。
僕の名刺には会社で使っているメールアドレスが印刷されている。
恐らく彼女たちは営業活動の一環として客にこういったメールを片っ端から送っているのだろう。
僕はすぐにそのメールを削除した。
もう彼女と会うつもりなんか毛頭なかった。
それどころか彼女の事も、あの店の事さえも忘れてしまいたいというのが正直な気持ちだった。
それから1週間後。僕は黒いドアの前に立っていた。
本当に二度とここへ来る気なんかなかった。それは事実だ。
なのに、その時僕はたしかに黒いドアとにらめっこしていた。
僕は随分長い間黒いドアと見つめ合っていた。
どうしてもドアに手をかける勇気が出ない。
いったい僕は何をやっているんだろう。
ドアを開けて店の中へ入り、イスに腰掛け、酒を飲む。
ただそれだけの事なのに、どうしてもドアに手をかける事ができない。
僕が迷っているその間、何人もの人たちが目の前を通り過ぎて隣の店へと入っていった。
僕は人とすれ違うたびにトイレを探しているフリをした。
別に悪い事をしているわけじゃないのに、なんとなくソワソワした。
僕は店へ入る事もできず、また帰る事もできずにいた。
しばらくすると上の階からカンカンカンと小気味いいヒールの足音が聞こえてきた。
その音は階段を下りてだんだん近くなってくる。
どうしてだろう。
僕はその足音が里奈のものだとすぐに分かった。
彼女は体にフィットした紺色のスーツを着ていた。ハイヒールも洋服に合わせて紺色だった。
右手にはブランドものの小さなバッグをぶら下げている。
僕らは黒いドアの前で再会した。
僕と目が合った時、彼女はとても嬉しそうな顔をした。
その時僕はいったいどんな顔していたんだろう。
「吉田さん、来てくれたの?」
「うん……」
「あ、トイレを探してた?」
「いや」
彼女は動き出せずにいる僕を3秒くらい見つめ、それから突然僕の腕を引っぱり、急いで今来た階段を上っていった。
僕はわけが分からず、ただ彼女に引っぱられているしかなかった。
彼女は僕の腕を引っぱったままビルの裏口から外へ出て人気のない裏通りを足早に歩き、そこへ通りかかったタクシーに向かって手をあげると何も言わずに僕を車に乗せ、そして自分も乗り込んだ。
「運転手さん、大きい通りを走らずに繁華街を抜け出して」
彼女がそう言うと、タクシーは走り出した。
僕は何も言えず、ただ車に揺られているしかなかった。
運転手は彼女の希望通り、できる限り裏通りを選んで車を走らせた。
遠ざかるネオンがあっという間に視界から消えていく。
彼女は頭を下げ、低い体制でバッグの中から携帯電話を取り出し、2〜3度軽く咳をした後その電話を耳に当てた。
「あ、ママ? 里奈です。ごめんなさい。今日ちょっと具合が悪くて店へ出られないの」
やっと分かった。
彼女は店をさぼったんだ。でも、どうして?
彼女が電話を切った時、もう車は完全に繁華街を抜けていた。
運転手はミラー越しに僕たちを見つめてニヤッとし、前を見据えたまま彼女に問い掛けた。
「お姉ちゃん、彼氏とデートのために仕事をさぼったのかい?」
「いいじゃない、久しぶりに会ったんだから。私この3ヶ月皆勤だったのよ。それって淋しいじゃない? 周りの皆はしょっちゅうデートでお休みしてるのに。だから、今日はこれでいいのよ。運転手さん、このまま真っ直ぐ行って」
里奈のハスキーな声がそう答えた。その口ぶりは妹にそっくりだと思った。
ただ僕は複雑な心境で、彼女の方も運転手の方も見る事ができず、窓の外へ目を向けて道行く人たちを眺めていた。
その日は11月にしてはわりと暖かく、コートを着ていない人たちがたくさん歩道を歩いていた。
車の中には柑橘系のいい香りが漂っていた。彼女の使っている香水の香りだ。
彼女は美人で、スタイルがよくて、あか抜けた女だった。
靴についたゴミを取るフリをして彼女の足に目をやるとなんだかドキドキしてきた。
そのまま真っ直ぐに走り続けて国道へ出ると彼女は運転手に言ってタクシーを止めさせ、自分の財布から金を出して料金を支払った。
タクシーが走り去った後、僕は彼女に金を渡そうとした。だけど彼女はそれを受け取ろうとはしなかった。
「いらないよ。里奈が強引に吉田さんを引っぱってきたんだから」
「ダメだ。女に金を払わせるのは僕の流儀に反するんだよ」
僕たちは道の真中でしばらくそんなやり取りを続けていた。
国道は信号が変わるたびにビュンビュン車が走っていく。そのたびに車のライトで彼女の姿がはっきりと浮かび上がった。
やっと彼女が金を受け取った時、僕は冷静になって辺りを見回した。
その辺りはゲームセンターやバーガーショップが点在していたけれど基本的には住宅街だった。
国道と交わる細い路地を覗くと一軒家やアパートがぎっしり並んでいるのが見える。
彼女はここで降りていったいどうしようというのだろう。
僕は素直にその疑問を彼女にぶつけてみた。
「あの、どこ行くの?」
彼女はしばらく黙って地面を見つめていた。また国道を何台もの車が走って行き、そのライトで彼女の姿が浮かび上がった。
やがて彼女は顔を上げ、思い切ったようにこう言った。
「里奈のマンションへ来る?」
車の往来が止んだ。僕はその時、彼女の背後にファミリーレストランの看板を見つけた。
「メシ食おうか? 腹減ってない?」
「いいの?」
いいの? と彼女は言った。僕はその一言にどんな意味が込められているかは考えないようにした。
ファミリーレストランは家族連れの客で8割ほどの席が埋まっていた。
腕時計に目をやるとまだ8時前だという事に気がついた。
窓際の席へ通されイスに座った途端、急に空腹が胃の中を支配した。
僕はメニューは見ずに周りの皆が何を食べているかを観察した。
実に様々だ。小さな子供は大抵お子様ランチを食べているけれど、学生や大人たちの注文は人によってバラバラだった。
ハンバーグ、中華丼、フライ、とんかつ、焼魚、ピラフ、その他もろもろ。
僕はその中で1番おいしそうに見えた中華丼を食べてみる事にした。
里奈はやはりメニューを見ずにこう宣言した。
「里奈はケーキとコーヒーにする」
「食事は?」
「ダイエット」
彼女はそう言ってちょっと笑った。
僕はその顔に思わず見とれた。
思えば明るい場所で彼女と向き合うのはその時が初めてだったんだ。
綺麗だ。なんて楽しそうに笑うんだろう。
くっきり二重の瞳はパールの入ったアイシャドウで飾られ、唇にはピンク色のルージュが綺麗に塗られている。
茶色の髪はレイヤーが入っていて軽快な動きを見せる。
視線を落とすと今度はテーブルの上で組まれた白くて華奢な手に目が止まった。
シミ一つない真っ白な手だった。爪は綺麗に整えられ、ルージュと同じ色のマニキュアが塗られている。
僕はその手に触れたいと思った。
彼女の手はきっとすべすべで温かい。そんな気がした。
ウエートレスが水の入ったグラスをテーブルへ運んでくるまで、僕はぼーっとして彼女の手に見とれていた。
でもグラスがテーブルの上に置かれるトン、という音で現実へ引き戻された。
僕は目の前に置かれたグラスを手に取り、水を一口飲むと窓から見える景色を眺めた。
相変わらず国道はビュンビュン車が往来している。
道の向こうには大きなゲームセンターがあり、そこから5〜6人の少年たちが出て来た。
彼らは遊びを終えた後らしく、それぞれが自転車に乗って方々へと散っていった。
僕も昔はあんなふうだった。帯広にいた頃はあんなふうだったんだ……
「何考えてるの?」
僕はその声でまた現実へ引き戻された。
僕は頭の中で勝手な思いを巡らせていて全然一緒にいる彼女の相手をしていなかった事に気づいた。
「ごめん」
彼女はクスクスと笑い始めた。
「何も悪い事してないのにどうして謝るの?」
何も悪い事をしていない。本当にそうなんだろうか。
彼女とここにこうしている事は、本当に正しい事なんだろうか。
食事が済んだ後はお茶を飲みながら2時間くらい話をした。
考えてみればその時まだお互いの自己紹介も済んでいなかったんだ。
僕は淡々と自分の生い立ちを語った。
帯広で生まれ育ち、東京の大学へ進学し、仕事で札幌へ来たという事。
僕が話したのはその程度の事だった。
僕はとにかく里奈の事が知りたくてたまらなかった。
彼女がいかにして今の暮らしにたどり着いたのか、それが知りたくてたまらなかった。
「里奈って名前、本名じゃないよね?」
「私、高松里奈っていうの」
彼女は自分のフルネームを明かした。僕はただ小さくうなづいてそれを聞いていた。
「里奈は、今いくつ?」
「23」
「23? 僕より2つ下?」
「吉田さんが25歳なら、そういう事になるかな」
彼女は冷めかけたコーヒーを一口飲んで、窓の外に目をやった。
「ずっと札幌なの?」
「ううん。里奈は田舎育ちなの」
「どこ?」
「吉田さんに言っても絶対分からないような所」
「札幌へはいつ出てきたの?」
「去年。高校を卒業してから家を出て、最初に大阪へ行って、福岡へ行って、名古屋へ行って、その後札幌へ来たの」
「いろんな所にいたんだね。仕事で?」
「そうと言えなくもないけど……」
彼女は各地を転々とした理由を聞かせてくれた。
大阪では半年付き合った人がいて、結婚しようと言われた途端に自信がなくなって逃げた。
福岡ではしつこい男に追い回されて逃げた。
名古屋では……なんだっけ。僕はもう途中からは聞いていなかった。
ただ、彼女はとても楽しそうにそれらの話を聞かせてくれた。
もう話し慣れた口調だった。きっと客にも同じような事を聞かれ、同じような事を話し続けてきたに違いない。
「いろいろあったんだな。そのたびに引っ越しか。金もかかるし、大変だろ?」
里奈は澄ました顔で首を振った。
「ううん、全然。もう慣れたものよ。里奈は夜逃げのプロなの。一晩で跡形もなくどこへでも飛んで行っちゃうんだから」
彼女が各地を転々とした理由。それは恐らくウソではないだろう。いや、半分はウソなのかもしれない。それは僕にも分からない。
とにかくこの日、彼女はたくさんのウソをついた。
何から何まで、ウソだらけだった。
里奈は僕が知っている女の中で最も美しく、最もウソつきだった。