9.
翌朝9時半。
僕はベンツを走らせ、里奈の泊まるホテルへと向かっていた。
家族からはもう一度彼女を連れて家へ来るようにと言われていた。
特に親父は彼女に会う事を楽しみにしているようだった。
今日こそ彼女をもっとちゃんと家族に紹介しよう。
彼女を諏訪由香里さんとして、ちゃんと家族に紹介しよう。
ホテルの前に車を止めてエンジンを切る。車を降りると強い日差しに目がくらんだ。
今日も1日いい天気になりそうだ。
回転ドアからホテルへ入ると左側にフロントがある。
チェックアウトは10時だ。まだ少し時間がある。
僕はドアから右側へ進み、安っぽいソファを見つけて腰掛けた。
広々としたロビーは閑散としている。
全く人影がない。もちろん里奈もいない。フロントにさえ人の姿はない。
ソファの目の前にはエレベーターがあった。だけど今のところ人が下りてくる気配はない。
エレベーターがフル稼働を始めたのは10時10分前だった。
どうやらほとんどの客が早い時間にチェックアウトを済ませて遊びに出かけて行ったようだが、10時ギリギリまでゆっくりしている人たちも中にはいるようだ。
カップル、夫婦、家族連れ。いろんな人たちが大きな荷物を抱えてロビーへ下りて来る。
これからどこへ行くのか、皆楽しそうに笑っている。
フロントは急に忙しくなり、4人の従業員たちが客の会計作業に追われていた。
僕は目の前でエレベーターの扉が開くたびにそこから里奈が降りてくる事を期待した。
彼女に言いたい事がある。言い忘れた事もある。早く彼女と会って話したい。
だけど、10時を過ぎても彼女が姿を現す事はなかった。
10時20分。エレベーターの動きが止まった。
その時間、フロントには1人の男性従業員がいるだけだった。
彼は寝坊した里奈を待っているのかもしれない。
僕は淡い期待を胸に立ち上がり、ゆっくりとフロントへ向かって歩き始めた。
薄暗いロビーに自分の足音がやけに響く。それは人の話し声が消えたせいだろう。
外は日差しが強いのに、日があたらないロビーはまるで冷房が入っているかのように寒々としていた。
僕はフロントへ行って1人しかいないホテルの男性従業員にこう告げた。
「308号室に電話をつないでください」
「かしこまりました」
若い男性従業員は手元でカチャカチャとキーボードを打った。そしてはっきりとした口調でこう言った。
「308号室のお客様は、昨晩チェックアウトされています」
僕は驚かなかった。半分くらいはそんな気がしていたんだ。
いろんな事が頭をよぎって動き出す事ができない。
昨日の今頃、僕は複雑な思いを胸に彼女を乗せて車を走らせていた。
こんな結末は想像もせず、ただ車を走らせていた。
僕はいつも彼女に触れたいと思っていた。抱きしめたいと思っていた。
だけど、どうしてもそうする事ができなかった。
彼女の事が好きなのに、どうしてもそうする事ができなかった。
僕らの関係がウソで塗り固められたものである以上、そんな事はできないと思っていた。
僕は彼女をクラス会へ連れて行く事で2人のウソっぱちな関係にピリオドを打つつもりでいた。
誰よりも美しく変身した君を皆に見せつけてやりたかった。
ちゃんと諏訪由香里として君を皆に紹介したかった。
だけど、結果的に僕はそうしなかった。
君はもしかしてその事で僕を責めてるのか?
本当は僕の強引なやり方で自分を里奈から解放してほしいと望んでいたのか?
それとも僕はずっと君を傷つけていたのか?
僕は最初の頃いつも悩んでいた。
僕が諏訪由香里と付き合っていると知ったら皆はどう思うだろう。
顔貌が変わってしまった彼女を見て皆はなんと言うだろう。
僕のそんな思いはやはり君に対する裏切りだったんだろうか。
当時の僕と変わらないほどの長身。
お世辞にもスリムとは言えない体型。
あまり整っているとは言えない顔立ち。
暗いイメージ。
中学の頃そんな印象だった君が大変身を遂げるまでには乗り越えなければいけない壁が数多く存在していたはずだ。
君は1人でそれを乗り越えてきたんだね。
それが分かった時、僕は君のすべてを受け入れようと決めたんだ。
君の過去も、君のウソも、全部受け入れようと決めたんだ。
そして最後の壁は2人で乗り越えようと決めたんだ。
君は僕がどれほど君を大切に思っているかこれっぽっちも分かってはいない。
僕は君以外の女と話す事さえ君に対する裏切りだと感じていた。
こんなふうに思うなんて、今までになかった事だった。
なのに、君を思う時いつも僕の前には壁があった。
君は僕がその壁を乗り越えられないと思っていたのか?
君は今まで一度も僕を好きだと言う事はなかったね。
僕も君を好きだと言う事は一度もなかった。
僕はその事できっと君を不安にさせたね。
僕もずっと不安だったから、君の気持ちが分かるんだ。
不安だったのは君だけじゃない。
僕はこうなる事をずっと恐れていた。君を失う事をずっと恐れていたんだ。
それが恐くて今までずっと君のウソに付き合ってきた。
腫れ物に触るように君を扱ってきた。
君は僕のそういう態度に傷ついていたのか?
隆志が僕に君のノートを回した事。
金本先生が僕に復讐を試みた事。
期末テストの時、僕が君の前の席だった事。
夕日が差し込む教室で教壇の上に立った事。
ジャージの下から問題集を見つけた事。
名刺をひっくり返して裏側を見た事。
僕が君の筆跡を鮮明に記憶していた事。
これらの偶然はすべて再び君に出会うための伏線だった。今僕はそう思っている。
僕はずっと君だけを探していた。
もしも時間が戻せるのなら、昨夜に戻って君を抱きしめたい。
彼女は今頃もう札幌の街を出ているだろうか。
そしてまたどこか遠い街へ移り住み、夜な夜な男たちの酒の相手をしながらきっとこう言うに違いない。
「札幌を出たのは、バカな男と別れるためよ。里奈はその人から逃げて来たの」
客を楽しませるために話を脚色し、笑顔でそう言う彼女の姿が目に浮かぶようだ。
「お客様?」
その声に顔を上げるとホテルの若い男性従業員が僕の顔をじっと見つめていた。
彼と目が合った時、自分がまだフロントの前で突っ立っているという事にやっと気がついた。
ここを出る時彼女はどんな様子だったんだろう。
すっきりした顔で出て行ったのか、それとも少しは落ち込んでいただろうか。
思わず彼に問いただしたくなる。
「吉田様でいらっしゃいますか?」
今度は僕が彼の顔をじっと見つめた。彫りが深く、日本人離れした顔だ。前に会った覚えはない。
どうして彼が僕の名前を知っているんだろう。
「吉田だけど……」
僕がつぶやくようにそう言うと彼は僕の目の前に1枚の名刺を差し出した。
「こちらをお預かりしております」
僕が受け取ったのは、里奈の名刺だった。
彼女に初めて会った夜に受け取ったものと同じ名刺だった。
「ありがとう」
僕は名刺を上着のポケットに忍ばせ、大急ぎでホテルを出た。
外へ出るとまた強い日差しに目がくらんだ。今日は風もない。ドライブ日和だ。
札幌へ帰る途中に寄り道しようと思っていた所がたくさんあったのに、それに付き合ってくれる彼女はもうここにはいない。
ホテルの前に止めてある立派すぎる車に再び乗り込む。
僕は逸る気持ちを抑え、一つ深呼吸した。
ふと視線を落とすと助手席の下にカラになったペットボトルが落ちている事に気づいた。
僕は腕を伸ばしてそれを拾い上げ、右手でフタを開けてみた。
飲み口には彼女のルージュの跡が残されていた。
ポケットから今さっき受け取ったばかりの名刺を取り出し、そこに印刷された文字を読んでみる。
"スナックセシル 里奈" 相変わらず黒い文字でそう書かれている。
僕は以前そうしたようにゆっくりと名刺をひっくり返して裏側を見た。
そこには小さくて角ばった癖のある文字が綴られていた。
星印の意味が知りたかったら会いに来て。
由香里より
僕はその短いメッセージを何度も何度も繰り返し読んだ。
それからその名刺をもう一度上着のポケットに入れ、車を発進させた。
昨日2人で来た道を今日は1人で帰る。でも、淋しくはない。
昨日は緊張していて外の景色を見る余裕なんかなかった。
そして今は彼女の事ばかり考えて外の景色を見る余裕がない。
里奈とさよならした僕はこれから由香里と出会うだろう。そして今日から2人の歴史は作られる。
僕らの歴史は1枚の薄っぺらい名刺に書かれた短いメッセージから始まった。
どこかで聞いた事がある話だ。そうだ。前にもこんなふうに出会った女がいた。
由香里とはもう少し劇的な出会いがしたかった。でも、そううまくはいかないものだ。
だけど、まぁいいか。
大事なのは出会いではない。その後の道のりこそが重要なんだから。
だから、これから先の事を考えよう。
星印の意味がいったいなんなのか。今僕はその答えが知りたくてたまらない。
彼女がいったいどんな答えを用意しているのか。それが聞きたくてたまらない。
彼女の答えが聞けた時、僕らはやっと最後の壁を乗り越えられる。
本日は晴天。雲一つない青空が僕の頭上に広がっている。
夜になったらこの空には星が輝くだろう。
今夜、星空の下で彼女の答えを聞こうか。
そして僕は10年前に言いそびれた「ありがとう」を彼女に言おう。