8.
駅の前で里奈が立ち止まった。
僕は彼女と向き合った。
風が吹いて彼女の髪が揺れていた。道行く人たちが皆美しすぎる彼女を振り返る。
だけど彼女の目は迷う事なく僕だけを見つめている。
走り去る車のライトで彼女の顔がはっきりと浮かび上がった。
僕はその時、初めて彼女の涙を見た。
彼女を抱きしめたい。僕はその衝動に駆られた。
でも、そうしなかった。
周りにたくさん人がいたからというわけではない。
でもとにかく、僕はそうしなかった。
「どうしたんだよ」
愚問だった。僕はただ沈黙が恐かっただけだった。
「修くん、かわいそう」
かわいそう? いったい何が? 僕には分からない。
「諏訪さんは弱虫だよ」
ああ、彼女の事を言っているのか。
「修くんの答案用紙は白紙じゃなかった。その事を知ってたのに、彼女は誰にも言えなかったんだもん」
「言ったってムダさ。現実に答案用紙は白紙だった。金本先生が答えを消してしまったなんて、あの当時誰も信じなかったよ」
僕はあれでよかったと思っている。
金本先生のした事を他の誰かが気づいて騒ぎ立てるような事は本意ではない。
そんな事をすれば彼女の思うつぼだ。
彼女が当時のかわいらしさと男子生徒たちからの多大な人気を武器にして自分を悲劇のヒロインに仕立て上げる事は容易だったはずだ。
諏訪さんは僕のやり方に賛同してくれた。誰も知らない所で僕の味方をしてくれた。
あれでよかったんだ。彼女は決して弱虫なんかじゃない。
里奈の泊まるホテルはもう目の前だった。
彼女は無理矢理笑顔を作ってみせた。いつものように、笑顔を作ってみせた。
「修くん、今日はどうもありがとう。すごく楽しかった。皆によろしく伝えて」
彼女はそれだけ言うと僕に背を向け、カンカンカンとヒールを鳴らしながらホテルへ向かって歩き始めた。
時々強い風に吹かれて揺れる髪を手で押さえながら。
「里奈!」
僕は彼女を追い求め、走り出した。
思えばこんなふうに彼女を追いかけたのは初めてだった。というより、女を追いかけたのは生まれて初めてだった。
里奈が振り返った。彼女はもう泣いてはいなかった。
「どうしたの?」
「家へ泊まれよ」
「え?」
僕はたまらなく不安だった。今夜彼女を1人にしてはいけないような気がしていた。
「親父にも会ってほしいから……」
「……」
彼女は伏し目がちだった。どんなに言っても彼女は来てくれない。僕にはそれが分かっていた。
クラス会での彼女の振る舞いを見た時から、全部分かっていた。
列車が着くたびに駅からたくさんの人の波が押し寄せた。
相変わらず皆が里奈を振り返る。
彼女はもう一度目線を上げ、僕を真っ直ぐに見つめた。
「金本先生、綺麗だったね」
「ああ……」
「別れて失敗したと思ってる?」
僕は真剣な彼女を見つめながらちょっと笑った。
「全然思わないよ」
「修くん、いつか私の事もそんなふうに言うのね」
彼女は視線を落としてそう言った。強い風の中に消え入りそうな小さな声でそう言った。
僕はずっと君と一緒にいたいと思っている。本気でそう思っている。
だけど、今のままじゃやっていけない。それが分かっていたから君と一緒にここへ来たんだ。
本当はそう言いたかった。だけど僕が口を開く前に彼女は顔を上げ、今日の終わりを告げようとしていた。
「今日はもう疲れちゃった」
たしかに、それはウソではないはずだ。
彼女はずっと緊張していた。そしてそれを僕に悟られないようにと更に気を遣っていた。
だから、もうこんな事はやめにしたいんだ。
里奈、もうそんなにがんばらなくてもいいよ。
言いたい事が有り余るほどあるのに、うまく言葉にする事ができない。
僕が何も言えずにいると、ふいに彼女がこう言った。
「諏訪さんは、きっと修くんの事が好きだったよ」
彼女の目は夜空に浮かぶ月をじっと見つめていた。
「過去形かよ……」
思わずそんな言葉が僕の口をついて出た。
彼女は再び僕に背を向け、カンカンカンとヒールを鳴らしながらホテルへ向かって歩き始めた。
僕にはもう彼女を引き止める術がなかった。
「里奈! 明日、10時に迎えに行くからな!」
彼女が二度と振り返る事はなかった。
僕らのやり取りを見ていた野次馬たちが僕に哀れみの目を向ける。まるで見世物だ。
2人の長い1日が終わった。
今更クラス会へ戻る気もしない。
だいたい、彼女のいないクラス会など僕にはなんの意味もない。
僕はそれからすぐにタクシーをつかまえて、そのまま家へ向かった。
家へ帰る途中、タクシーの中から二次会へ流れて行くクラスメイトたちを見かけた。先生たちも一緒だ。
隆志が携帯電話を耳にあてて歩いている。きっと僕にかけているに違いない。
さっきから何度も上着のポケットの中で携帯電話が震えていた。
僕はポケットの中から携帯電話を取り出し、車に揺られながら力なく受信ボタンを押した。
もうその時クラスメイトたちの姿は見えなくなっていた。
「修くん? やっとつながった。今どこにいる?」
「ごめん。調子が悪いから帰るよ。もう家に向かってるんだ」
「なんだと? お前、久しぶりに会ったのに冷たすぎるぞ」
「ごめん、隆志」
「彼女が怒ったから帰るのか?」
隆志は呂律が回っていなかった。一次会の段階でかなり飲んだのだろう。
でも、里奈の言葉がウソだという事くらいは理解しているらしい。
「違う。隆志、彼女はあんな事で怒るような人じゃないよ」
「そうか?」
「彼女は優しい人なんだよ」
「分かったよ」
「お前は分かってない。なんにも分かってないんだよ!」
僕は一方的に「じゃあな」と言って電話を切った。
またかかってくると面倒だからもう電源自体を切ってしまう事にした。
僕らのクラス会はこうして幕を閉じた。
ミラー越しに運転手と目が合った。白髪頭の爺さんだ。
彼は驚いたような目をしていた。
全然自覚していなかったけれど、僕の電話の声はかなり大きかったらしい。
密室の車内には気まずい沈黙が流れていた。
僕はシートに深く腰掛け、目を閉じた。
諏訪由香里。
里奈が諏訪由香里である事は間違いない。
里奈に出会って初めて名刺を受け取った時、なにげなく裏をひっくり返して見た。
いつもはそんな事しないのに、あの時だけは何故かそうした。
名刺の裏に書かれた特徴のある小さくて角ばった文字。
全く、つまらない事を覚えていたものだ。
僕は名刺の裏のあの文字を見た時、夕日の差し込む教室で1人机に向かう自分の姿を鮮明に思い出した。
窓の外から聞こえてくる笑い声。
かすかに頬に感じる生暖かい風。
そして諏訪さんの優しさを知った瞬間の、戸惑いと喜びが混じりあったような複雑な思い。
こうして目を閉じると昨日の事のように全部思い出す事ができる。
僕は名刺の裏のメッセージを読んだ後、里奈の顔を凝視した。
でも、里奈の顔が諏訪さんの顔と重なる事はなかった。
里奈の目も、鼻も、口も、諏訪さんのものとはすべて違っていた。
人は顔貌を変える事はできても筆跡を変える事は難しい。
彼女の文字は以前より多少大人びていたけれど、あの癖字は簡単には変えられない。
僕の1人よがりな計画は見事に失敗した。
僕は諏訪由香里として皆に彼女を紹介するつもりだった。
彼女の抱えている問題は、いや、僕らの抱えている問題はきっとそれほどたいした事じゃない。彼女が思うほどたいした事ではない。
最初は彼女の変身ぶりに皆驚くかもしれない。でも、それは長くは続かない。
僕は散々考えてそういう結論に達した。その事を彼女にも分かってほしかった。
だからちょっと強引だけどこの機会を利用しない手はないと思った。
なんとかして僕らのウソっぱちな関係を終わらせるきっかけを作りたかったんだ。
元のクラスメイトが彼女を見て諏訪由香里だと気づく事は絶対にありえない。
でも彼女はわずか数パーセントの可能性にひどく怯えていた。
もうそんな事はやめにしてほしかった。
彼女にはもっと楽に、もっと幸せに生きてほしいと願っていた。
結局のところ、問題が複雑すぎるんだろうか。
ああ、どうしてこんな面倒な女を好きになったりしたんだろう。
僕はどうすればよかったんだろう。
ちゃんと彼女と話をつけてからこっちへ来るべきだったんだろうか。
でも僕が突然「君は諏訪さんだろ?」と言っても彼女はきっとうなづかなかった。僕にはそれが分かっていた。
そんな事になったらますますウソが積み重なっていくだけだ。
彼女は本当の事を言い出せなくなり、僕も彼女を問い詰める事が難しくなる。
じゃあ何も考えずに「里奈、結婚しよう」と言えばよかったのか。
そんな事をしたら彼女はきっと僕の前から姿を消してしまう。僕にはそれも分かっていた。
ゆっくりと目を開けてみる。車の揺れが心地よい。
車内には相変わらず沈黙が流れていた。
その時、自分は1人だという事をはっきりと認識した。
最近タクシーに乗る時はいつも里奈が一緒だった。
僕はいつも彼女だけを見つめ、彼女の話に聞き入っていた。
そして車内にはいつも彼女の香りが漂っていた。
気まずい沈黙は大声で喋った僕のせいなんかじゃない。里奈がいないせいだ。
やがて前方に家のガレージが見えてきた。もう古くなった親父の乗用車が止まっている。
もうすぐ世界一リラックスできる家へ帰れるというのに、なんだか嬉しくない。
夕方家へ帰って来た時のような感動がない。
それはきっと、里奈が一緒にいないせいだ。