エレベーターボーイ
 17.

 「優作くん、全部気付いちゃったのね」
僕は下降を続ける1号機の中で、その声をしばらく黙って聞いていた。決して振り向く事はせずに。
「ここの屋上から見る景色は最高よ。優作くんにも見せてあげたかったな。でも、私のせいで屋上は閉鎖されちゃった。ごめんね」
"ごめんねなんて言うなよ" 僕は心の中でそう叫び、振り向かずに2度3度と首を振った。
「あの時、屋上から見上げる空が青かった。とても綺麗な空だったわ。あの空を見ていたら、飛んでみたくなったの」
すぐ側に彼女の気配を感じる。
すぐ側に彼女の体温を感じる。
「私、本当は優作くんよりずっと年上なのよ」
「小雪さん、父さんに似てるから僕を好きになったの?」
とても自然に言葉が出た。地下2階でドアが開いても、僕らは2人きりで話し続けた。
「最初はそうだった。でも今は違う。優作くんはあの人よりずっと素敵よ。だって、優作くんは絶対に私を裏切ったりしないでしょう?」
「もちろんだよ。僕は父さんの気が知れない。僕が父さんだったら、絶対にあんな事はしない」
「優しいね。優作くん」
振り向きたい。振り向いて彼女を抱きしめたい。 だけどそれができないのは、彼女がそう仕向けているからなのか。
「優作くんと過ごした時間は、とても楽しかった。短い間だったけど、幸せだった。どうもありがとう」
「もう会えないような言い方するなよ」
「私、もうここへは来ないわ。優作くんには幸せになってもらいたいの。ちゃんとかわいい人を見つけて、幸せになってもらいたいのよ」
涙で歪むボタンが、すっかり目の前から消えた。もう苦しくて、目を開けている事さえ困難だった。
「最上階へ着いたら、私は行くわ」
僕は反射的に目を開け、ドアの上で点滅する数字を見上げた。
5、6、7。点滅して光る数字はどんどん最上階へ近づく事を表している。
「ありがとう。さよなら、優作くん」
点滅する数字が8に変わった時、彼女は消え入りそうな声でそう言った。
嫌だ。このまま別れるなんて絶対に嫌だ。まだ話したい事がいっぱいあるのに、まだ一緒に行きたい所がいっぱいあるのに。

 僕はその時、エレベーターボーイになって以来初めて停止ボタンを押した。
するとガクンと強い衝撃を感じ、1号機がすぐに緊急停止した。四角い空間は照明が落ち、突然薄暗くなった。
振り向くと、すぐ後ろに彼女がいた。 彼女は最初に会った時と同じピンク色のワンピースを着ていつものように輝くような笑顔を僕に向けていた。 でも僕を見つめる大きな目から涙が溢れていた。その涙は、僕とお揃いだった。
僕は静かなエレベーターの中で力いっぱい彼女を抱きしめた。骨が折れそうなほど、強く抱きしめた。 すると、彼女の体温が僕の体へストレートに伝わってきた。
「さよならなんて嫌だよ。ずっと一緒にいたいんだ」
彼女の髪は、いい香りがした。前に彼女がお気に入りだと話してくれたローズ系のシャンプーの香りだ。
僕の体に伝わる彼女の体温。小さな吐息。震える肩。彼女は確かに、ここにいる。
彼女は僕の胸に顔を埋めて泣いていた。僕はいつも自分が抱えていたクッションの気持ちがようやく分かった。
「ダメよ。今はまだ年が近いけど、優作くんはこれからもっと大人になるわ。 きっとあなたは私なんかよりずっと素敵な大人の女の人に恋する時がくる。 あなたが大人になっても、お爺さんになっても、私は今のまま。19歳の子供のままなのよ」
「僕はツイてる。小雪さんはずっと綺麗なままだ。僕が白髪になっても皺くちゃになっても、小雪さんは今のまま。ずっと綺麗なままでいてくれる」
「私はあなたのお嫁さんにもなれないし、子供を産む事もできないわ」
「ずっと側にいてくれるだけでいい。こうして側にいてくれるだけでいい」

"1号機、どうしました?"

パネルスピーカーから部長の声が響いた。 緊急停止したエレベーターに何か異常が発生したのかを確認する声だ。
「優作くん、呼ばれてるよ」
「ずっと側にいるって約束して。じゃないと、もうここから出してあげないよ」

"1号機、応答願います"

四角い箱の中にまた部長の慌てた声が響いた。こんな時まで、見かけ倒しのソプラノだ。
「返事をした方がいいんじゃない?」
「約束が先だよ」

"1号機、聞こえますか?"

「本当に、側にいてもいいの?」
小雪さんの震える声が僕の胸にそう囁いた。
「そう言っただろう?」
僕を見上げる小雪さんの顔が、すぐ近くにあった。
頬を伝う涙をそっと手で拭ってやると、彼女も真似をして僕の涙を拭ってくれた。 彼女の涙も、頬に触れた手も、とても温かかった。

 臆病な僕は、今まで待っているだけで何もしなかった。
彼女からの電話を待ち、彼女が会いに来てくれるのを待ち、ここで2人きりになるとエレベーターが壊れて停止するのをただ祈るように待ち続けた。
最初に会った時から彼女が好きだったくせに。兄ちゃんから何を聞いたって、彼女が好きな事に変わりはないくせに。
なのに僕は彼女に電話もせず、彼女に会いに行く事もせず、彼女からの電話を待ち、彼女が会いに来てくれるのを待つだけだった。
僕は、エレベーターボーイだ。
いつだって停止ボタンを押す権利は僕にある。なのに何故もっと早くそうしなかったんだろう。 そうすれば、簡単に彼女に手が届くのに。
ここは、僕だけの城だ。ここでの時間を止められるのは僕だけだ。 去って行こうとする彼女をここへ閉じ込めておけるのは僕だけだ。 城の中で誰にも邪魔させずに彼女を抱きしめる事ができるのは僕しかいない。
やっぱりこの仕事をした事は、無駄じゃなかった。
僕は僕だけの城で永遠に美しい姫をいつまでも抱きしめていたい。
ローズのシャンプーの香りに酔いしれながら。彼女の体温を確かめながら。
そして時々その柔らかな唇に渇いた唇を重ねながら、永遠に。

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