16.
3月初旬。僕は新しい仕事を手に入れた。
それは、宝石店での販売業務だった。僕は元々販売をやりたいと思っていたから、その仕事が決まった時はとても嬉しかった。
春の足音が聞こえる3月。僕は感慨深い思いで1号機に乗っていた。
今日、部長に退社の意志を伝えよう。僕はそう決心し、残り少ないエレベーターボーイとしての人生を全うしようとしていた。
この仕事をした事は、決して無駄ではなかった。
宝石店へ面接に行った時、僕が中山デパートのエレベーターボーイだと知ると面接を担当していた女性がにわかに微笑んだ。
「中山デパートのエレベーターボーイは皆礼儀正しいという評判よ」
僕に内定を出してくれたのは、あの言葉が少なからず影響しているに違いない。僕はそう思っていた。
それにしても卒業・入学シーズンでデパートは混み合う時期なのに中山デパートには相変わらず閑古鳥しかやってこない。
でも、ここの閑古鳥とももうすぐオサラバだ。そう思うと、閑古鳥だって立派なお客さんだという気がしてきた。
「上へまいりまーす」
今日も僕は、誰もいないドアの向こうに張り切って声をかける。
そして誰も乗らないままドアを閉め、たった1人で最上階を目指す。
もう涙は枯れた。そう思っていたのに今日は時々目の前のボタンが涙で歪む。
僕はやっぱり父さんと似ている。好きな人の事を引きずって、くよくよしてばかりいる。
彼女はこの世の人じゃない。
何度も自分にそう言い聞かせ、諦めなくちゃいけないと考えながら、本当は今でも彼女が会いに来てくれるのを待っている。
一度だけこの腕に抱いた彼女の温もりは幻なんかじゃない。あれはたしかに本物だった。
柔らかい唇も、輝くような笑顔も、あの時たしかに存在していた。
会いたい。もう一度彼女に会いたい。彼女に会って、もう一度抱きしめたい。
「上へまいりまーす」
また地下2階へ1号機が降り立った。
だがドアの前には誰もいない。ただお菓子の甘い香りが鼻をつく。
エレベーターホールのベンチの上には、誰かが忘れていった白い手袋が片方だけ置いてあった。
僕が今日この光景を見るのは、いったい何度目だろう。
あと少しで、勤務時間が終了する。そうしたら制服のままで部長の元へ行き、退社の意思を伝えるんだ。
ずっとここにいたら、どうにかなってしまいそうだから。
1号機のドアを閉め、再びエレベーターは上昇する。
どうせ最上階へ行っても待っているお客さんは誰もいない。それでも僕は、淡々と与えられた業務をこなす。
「下へまいりまーす」
最上階。一応声をかけて、僕はドアを閉める。
ふと腕時計を見ると、もうすぐ午後7時になろうとしている事が分かった。
外はもう暗いだろうか。僕は暗い道をまた1人で家路に着くんだろうか。
「呼んだ?」
エレベーターが7階へ差し掛かった頃、僕は背中でその声を聞いた。
急に体中が熱くなる。僕が彼女の声を聞き間違えるはずなんかない。
「しばらく誰も乗ってこないよ」
間違いない。小雪さんはもう一度僕に会いにきてくれたんだ。