1.
良ちゃんが死んだという知らせが来たのは蒸し暑い雨の日だった。
僕は彼を止められなかった事を今更ながらに悔やんだ。
良ちゃんの死は僕の死を意味する。
人はいつか必ず死ぬ時がくる。
それは僕にも分かっていたけれど、彼の死はあまりにも早すぎた。
僕が良ちゃんと初めて会ったのは彼が3歳の時だった。
僕らはすぐに仲良しになった。彼が小さい頃は遊びに行く時も、ご飯を食べる時も、いつも一緒だった。
良ちゃんは泣き虫だった。ママに怒られるとすぐに泣く。
そして僕と2人で自分の部屋へ閉じこもる。
良ちゃんのまん丸い目から大粒の涙がこぼれ落ちると僕はとても悲しくなる。
彼は畳の上に座り込んで真剣な目をして僕を見つめる。
「ねぇ、僕は悪くないよね?」
彼の涙の問い掛けに、良ちゃんは悪くないよ、といつも僕は答えた。
すると彼は満足そうに白い歯を見せてにっこり微笑む。
本当に嬉しそうに、にっこり微笑む。
そしてもう怒られた事なんか忘れてしまうんだ。
ママはきっと彼のこんな顔を見た事がないだろう。
良ちゃんの笑顔はまるで太陽のようだ。僕にとっては彼が笑顔でいてくれる事が1番の喜びだった。
僕は良ちゃんの事ならなんでも知っている。
ママが知らない事だって、全部知っている。
良ちゃんが学校へ通うようになると僕はいつも彼の部屋で留守番をした。
優しい彼は僕のためにフカフカのクッションを用意してくれた。
彼は太陽のような笑顔を僕に向け、行ってくるね、と言って毎朝出かけていく。
彼がいない間、部屋の中にはただ静寂が流れている。
僕の見える範囲で部屋を見回すと、正面にはドア、窓の側にはベッド、その横には学習机が見える。
僕は1人でいる時、いつも同じ景色を眺めていた。
たまに良ちゃんが脱ぎ散らかした洋服やおもちゃが床に散乱している事があったけれど、それは良ちゃんが学校へ行った後、すぐにママが片付けにくると決まっていた。
そうするとまたいつもの景色が僕の視界に広がる事になる。
ずっとずっと同じ景色を眺めているのはとても退屈だ。
学校の時間割りが貼られたドア。黒いパイプベッド。茶色い木の机。
でも、良ちゃんは必ずここへ帰って来てくれる。
彼を待つ時間は退屈だったけれど学校から帰ると遊んでくれるって事が分かったから、そのうち待つのも平気になった。
良ちゃんは写真が大好きだった。それはパパの影響だ。
彼の部屋には数え切れないくらいたくさんのアルバムがあった。
パパが彼の成長をずっとずっと撮り続けていたからだ。
アルバムは僕が乗っかっている本棚にずらりと並べられている。
彼は時々アルバムを開いて僕に見せてくれた。アルバムの中には僕と良ちゃんの写真がいっぱいあった。僕らはとても仲良しだったから。
僕は良ちゃんと遊んだ時の事を全部覚えている。
写真を見れば、すぐにその時の事を思い出す事ができるんだ。
海へ行った時の事。
とても暑い日だった。黙っていても汗をかくような、そんな日だった。
あの時良ちゃんは水が怖いと言って泣いていた。
ママとパパがどんなに平気だよ、と言って聞かせても絶対波に近づこうとはしなかった。
そして彼は波打ち際で砂遊びを始めた。
良ちゃんが作った砂の僕は、正直言ってあまり上出来とは言えなかった。
お祭りへ行った時の事。
人ごみの中で僕は迷子になり、知らない女の人に助けられ、小さな部屋で良ちゃんが迎えに来てくれるのをずっと待っていた。
僕はあの時すごく不安だったんだ。もしも良ちゃんが来てくれなかったらどうしようって、ずっと不安に思っていた。
僕と同じように迷子になった仲間たちも皆不安そうな顔をしていた。
待っている時間ほど長く感じるものはない。
少しずつ外の陽が傾いていくのが分かるとますます不安になってきた。
もうすぐ夜になる。外は暗くなる。良ちゃんは暗くなる前には家へ帰らなければならない。
僕は今日から1人ぼっちになってしまうんだろうか。
そんな不安ばかりが頭に浮かんで、僕はしだいに落ち込んでいった。
だけど、良ちゃんはちゃんと来てくれた。僕をちゃんと迎えに来てくれたんだ。
彼は迷子になった僕を見つけるとすぐに駆け寄り、抱きしめてくれた。
良ちゃんは太陽の匂いがした。
彼は高校の入学祝いにパパから小さなカメラを買ってもらった。
その日の彼の嬉しそうな顔、僕はちゃんと覚えている。
彼はしばらく説明書に目を通し、その後で僕にカメラを向けた。
「ほら、笑って」
僕はいつものクッションの上に座ってぎこちない笑顔をつくった。でも彼はそれでいいと言ってくれた。
「1番最初にお前を撮るって決めてたんだ。写真ができたら見せてやるから、楽しみにしてろよ」
良ちゃんはそう言った後しばらく畳の上に座って黙々とカメラを磨いていた。
彼にとってカメラはとても大事な物なんだ。その姿を見た時僕はそう思った。
それから2日後、僕の写真は出来上がった。
やっぱり顔が引きつっている。モデルとしては失格だ。ちょっぴり反省した。
それでも良ちゃんは満足そうだった。
「よく撮れてるよ。記念すべき1枚目だから、飾っておく事にしよう」
そう言って彼はコルクボードに僕の写真を貼り付け、壁に飾った。
嫌だな。僕、本当はもっといい男なのに。
彼が次に撮ったのは、クラスメイトの女の子だった。すごく綺麗な子だ。
恐らくその写真を撮ったのは良ちゃんの学校だ。学校の事はよく分からないけど、きっとそうだ。
彼女は制服姿で写真に写っていた。
その写真には何人かの女の子が一緒に写っていたけれど、カメラがその中のある1人の女の子に向けられているのはすぐに分かった。
彼女は紺色のブレザーがよく似合う。長い髪に太陽の光があたってキラキラと輝いている。
彼女の優しそうな目がカメラを真っ直ぐに見つめている。
良ちゃんもカメラの中から真っ直ぐに彼女を見つめていたはずだ。
すぐに分かった。良ちゃんは彼女の事が好きなんだ。
良ちゃんは彼女が写った写真を僕に見せて、こう言った。
「見て。この子、かわいいだろ?」
うん、かわいいね。良ちゃん、ちゃんと好きって言ったの?
「写真ができたから取りにおいで、って誘ってみたんだけど、わざとらしかったかな?」
そんな事ない。良ちゃんにしちゃ上出来だよ。
「土曜日、彼女が来るんだ。お前にも紹介するからな」
とても楽しみだ。
良ちゃんの好きな人はどんな声で話すんだろう。
彼女は良ちゃんの事、どう思っているんだろう。
土曜日の午後、彼女はちゃんと写真を取りに来た。写真と同じく制服姿でやってきた。
彼女は部屋へ入るとすぐに僕に気づいて挨拶をしてくれた。
「こんにちは」
高音でとても綺麗な声だった。近くで見ると写真よりずっとかわいい。
良ちゃんはその時落ち着かないそぶりで彼女の後ろをウロウロしていた。
「適当に座れ」
不思議だった。
良ちゃんは彼女の前だといつもと全然違ってた。言葉が乱暴だし、わざとそっけないフリしてる。
ダメだよ良ちゃん。そんなふうだと嫌われちゃうよ。
「ほら、写真できたぞ」
つっけんどんに写真をつき出す彼。
彼女は畳の上に座ってしばらくそれを見つめていた。写真と同じく太陽の光があたって長い髪がキラキラと輝いていた。
気がきかないな良ちゃん。ほら早く、彼女に何か話しかけて。
彼は緊張していて僕の声も聞こえていないみたいだった。でなきゃ、あんな事を言うはずがない。
「お前の隣に写ってるの誰? すっげぇかわいいじゃん」
その日以来、彼女が良ちゃんの部屋へ来る事は二度となかった。