2.
良ちゃんが高校2年になった時、僕に夢を語った。
その時の良ちゃんは輝いていた。
彼は僕に向き合って座り、はっきりとした口調でこう言った。
「僕、カメラマンになりたいんだ」
そうか。昔から写真が好きだったもんね。
「報道写真を撮りたいんだ」
へぇ、ちょっと意外。
「お前はどう思う? プロのカメラマンになるなんて無理だと思う?」
大丈夫だよ。
良ちゃんの写真はすごくいいよ。だから、きっと夢は叶うよ。
「カメラマンになってお金が儲かったらお前に洋服を買ってやるからな」
そんなのいらないよ。
「そう言うなよ。何か他に欲しいものでもあるのか?」
なんにもいらないよ。僕は良ちゃんさえいてくれたらそれでいいよ。
「新しいカメラが欲しいんだ。だから、来週からバイトする事にした。でも、誰にも内緒だぞ。ママにみつかったら辞めさせられるからさ」
分かってるって。
僕はいつだって良ちゃんの味方だよ。
それから3ヵ月後、彼は新しいカメラを手に入れた。前のとはまるで違う、プロ仕様のカメラだった。
どうやら良ちゃんは本気みたいだ。
彼は大きなカメラを本棚に乗っかっている僕に向け、太陽のような笑顔を見せてこう言った。
「なぁ、これすごいだろ? 望遠レンズも買ったんだよ」
自慢のカメラをお披露目する彼は宝物を手にした子供のようだった。
僕はその時、ほんの少しカメラに嫉妬した。
少し前まで良ちゃんの宝物は僕だったはずなのに。そう思うとなんだか淋しい気持ちになったんだ。
でも、僕がそう思った事は良ちゃんに悟られまいとした。
僕は精一杯がんばって、彼にこう言った。
よかったね良ちゃん。
「こっち向けよ。笑って」
あっ、ひどいよ良ちゃん。
まだ準備ができてないのにシャッターを押すなんて。
いつもそうだった。
良ちゃんは僕を撮るのがヘタクソだ。
彼はそれから週末になるといつも撮影に出かけて行くようになった。
僕は嬉しかった。もう何年も良ちゃんの部屋から出た事がなかったけれど、彼がいろんな場所で撮ってきた写真を見ていると僕も一緒に出かけて行った気分になれたからだ。
ありがとう良ちゃん。とても感謝してるよ。
僕は彼が帰って来るといつも写真を見せてくれとねだった。
ねぇねぇ、今日はどこ?
海、山、湖、公園。
全部が良ちゃんの目線で撮られている。
僕はいつも自分が良ちゃんの目になったつもりでそれらの写真を見つめていた。
波がおだやかな海を撮っているのは、彼が今でも水に対しての恐怖心を持ち続けているからかもしれない。
良ちゃんはプールでは泳げるけれど、波の大きな海には未だに近づく事をしなかった。
緑がいっぱいの山を撮っているのは、昔出かけたハイキングの楽しかった記憶が頭に残っているからだろうか。
ママの作ったおにぎりが緑の中で食べると更においしくなる事を彼は知っている。
湖といえば、いつだったかどこかの湖へ出かけて遊覧船に乗った事があった。
良ちゃんはあの時、すごくはしゃいでた。僕は船に酔って大変だったけど。
ほら、やっぱりだ。湖の写真には水に浮かぶ船が写っていた。
それに、公園。
良ちゃんが学校へ通う前まで、僕らは毎日一緒に公園で遊んだ。雨の日以外は毎日公園へ行っていた。
あの頃は楽しかった。1日中良ちゃんと一緒にいられたから、僕はすごく楽しかったよ。
ある日の夕方、突然ママが良ちゃんの部屋へやってきた。
とても驚いた。最近良ちゃんは勝手に部屋へ入るとすごく怒るんだ。
いつだったかママが彼のいない間にこの部屋を勝手に掃除した事があった。その時彼はひどく怒ってしばらくママと口をきかなかったんだ。
僕はドキドキしていた。
ママは彼の机やたんすの中、それに押入れまで開けてしまった。
良ちゃんはバイトしてる事もカメラを買った事もママには話していない。やがてママはカメラをみつけてしまった。そして彼がきちんとファイルしていたネガと写真もみつけてしまった。
どうしよう。良ちゃんは絶対怒るに違いない。
やがて彼はバイトを終えて帰って来た。
疲れた顔をしている。きっと忙しかったんだ。
「ああ、疲れた」
彼がそうつぶやいてベッドに寝転がった時、ノックもせずにママが入ってきた。良ちゃんはびっくりして飛び起きた。
ママは明らかに怒っていた。
すごく怖い顔をしている。怒る時のママはいつも目がつりあがっている。
僕は必死になってママに語りかけた。
ダメだよママ、良ちゃんは疲れてるんだ。今話せば喧嘩になっちゃうよ。
「良、あんたどこ行ってたの?」
僕の声はママには届かなかった。
「どこだっていいだろ?」
ほら、言った通りだ。良ちゃんの言い方がとげとげしい。
だけど、ママも負けてはいない。
「ママにも言えない所?」
「うるさいな! 勝手に人の部屋へ入るなって言っただろ?」
「内山くんのお母さんから電話をもらったわ。バーガーショップで働いてるあんたを見たって」
そういう事だったのか。
内山くんは良ちゃんの中学時代の友達だ。
「アルバイトは学校で禁止されてるでしょう? すぐに辞めなさい」
良ちゃんは何も言わなかった。きっといつかこういう日が来るって分かっていたんだ。
だけどママの話はまだ終っていなかった。
「中間試験は終ったんでしょう? 結果はどうだったの?」
嫌な予感がした。
「まだ答案用紙が返ってきてないから……」
良ちゃんはママの目を見なかった。
もうここにいたくない。2人が喧嘩するのを見たくない。
ついにママの怒りが爆発した。
「どうしてウソばかり言うの? 試験の結果はとっくに出てるでしょう? 数学は30点、国語は25点。違う?」
「勝手に机の中を見たの?」
「あんたがウソばかり言うからよ」
「どうしてそんな事するんだよ! 出て行け!」
「カメラが欲しいならそう言えばいいでしょう?」
もうやめて。お願い、もうやめて。
そこには良ちゃんの太陽のような笑顔も、ママの優しい微笑みも存在してはいなかった。
とうとういつも温厚な良ちゃんまでもが爆発してしまった。彼はママに白い枕を投げつけた。
それまでなんとか抑えていた感情が一気に表に出てしまったようだ。
いつも優しい良ちゃんの顔はその時、とても怖い顔に変化していた。
眉間に皺が寄り、まん丸い両目でママを睨みつけている。
ママも同じように彼を睨みつけている。
2人が僕に対してこんな顔を向ける事は今まで一度だってなかった。
2人とも僕には優しいのに、どうして仲良くできないの?
僕は耳をふさぎたかった。なのに、僕にはそうする事ができない。
「まるで泥棒だな! 僕がいない間に部屋中調べたのか?」
「あんたは高校生なのよ。しっかり勉強しなさい!」
「分かってるよ」
「分かってないじゃないの!」
「僕が何か悪い事した? 欲しいものがあるからバイトしただけさ! それのどこが悪いっていうの?」
「ママに隠してたくせに!」
「言ったってどうせ反対されるからさ」
「当たり前よ」
「バイトは辞める! それで文句ないだろ?」
「写真撮るのもやめなさい! くだらないわ」
「何が?」
「勉強しないといい大学に入れないのよ」
「だったら大学なんか行かないよ」
「何バカな事言ってるの?」
「何がバカだよ? 僕は父さんみたいになりたくない。父さんは一流大学を出てるけど、つまらない人間だ。
休みの日はいつも家でゴロゴロしてるし、たまに話せば会社のグチばかりだし。僕は絶対父さんみたいなヤツにはならない。
自分のやりたい事をやる! 誰にも文句は言わせない!」
良ちゃんは無理やりママを追い出した。そしてしばらくボリュームを最大にして音楽を聞いていた。
ママはしばらく部屋の外からドンドンとドアをたたいて何か叫んでいたけれど、それもそのうち音楽にかき消されてしまった。
「僕、間違ってるかな?」
彼は落ち着きを取り戻すと、僕にそう言った。もういつもの優しい良ちゃんに戻っていた。
僕は彼の問い掛けにすぐには答えられなかった。
「少し言いすぎたかな」
良ちゃん、大人になったね。昔はママに怒られると何も言い返せずに泣くだけだったのに。
今はちゃんと自分の言いたい事を言えるようになったんだね。
「成績が下がった事は言い訳できないな」
偉いね良ちゃん。ちゃんと反省してるんだね。
「でもさ、勝手に部屋へ入られたら頭にくるよ」
うん、そうだね。だけどきっとママも反省してるよ。
「バイトは辞めなきゃな。これからはもう少しマジメに勉強するよ。でも週末はこれまで通り写真を撮りに行くからな」
それでいいよ。ちゃんと勉強すれば、ママだって文句は言わないさ。
ママはきっと淋しかったんだよ。良ちゃん、僕にはなんでも話してくれるけど、最近ママとあまり話をしなくなったよね?
僕だって良ちゃんが何も話してくれなくなったらきっと淋しいもん。
だから、たまにはママの話も聞いてあげて。たとえ喧嘩になっても構わないから。