魔法のとけたシンデレラ
 1.

 目覚ましが鳴った。
もう時間か。まだ5分くらいしか寝てないような気がしてるのに。
時計を見ると確かにもう4時だった。起きなきゃ。仕事に遅れる。
俺はしかたなく起き上がり、冷蔵庫の中からチーズを一切れ取り出して口に入れた。
これで夕食は完了だ。

 寝ている間電源を切っていた携帯の留守電をチェックしてみる。
すると久しぶりに親父からのメッセージが入っていた。
「和也、元気なのか? たまには帰って来い。母さんが淋しがってる」
親父とはもう3年も会っていない。
母さんとは半年くらい前に一度会っている。随分やつれていた。
親父もあんなふうなのかと思うと、とても帰る気にはなれない。

 俺は17歳になるまで裕福な家で育った。
冷静になって部屋の中を見回してみる。
なんと殺風景な部屋だろう。
フカフカのベッドも、大画面のテレビも、今となっては幻だ。
大事なものは全部置いてきた。
お気に入りのCDも、使い慣れた机も。すべて、何もかも捨ててきた。
自分で稼いで生きていく事がこんなに大変だなんて、苦労知らずのお坊ちゃんだったあの頃には決して分からない事だった。
1人で暮らす事を決めたのは自分だからしかたがない。だけど……
だめだ。もう出ないと仕事に間に合わなくなる。
こういう時、忙しさが幸いする。
今はまだ余計な事は考えたくない。何も考えたくはない。

 "BAR KIRIYAMA"
ここが俺の職場だ。もう勤めて3年になる。
重厚なドアを開けると店長が笑顔で俺を迎えてくれた。
「よぉ! 和也、おはよう!」
「おはようございます」
"BAR KIRIYAMA"はカウンター8席、ボックス席が3つという比較的こじんまりした店だった。
飾り気のないシックな内装は店長の好みだ。

 店長の桐山さんは48歳。俺の親父と同じ年だ。
でも、とてもそうは思えないほど若く見える。暇さえあればジム通いをしているというから、きっと体自体が若いのだろう。
彼は面倒見のいい人だ。でなきゃ俺のような生意気なガキを雇えるはずがない。
「今日は8時までお前と2人だからな。よろしく頼むよ」
「まかしといて」
制服に着替えてカウンターの中へ入り、開店準備を始める。
もう3年も同じ事をやっているから慣れたものだ。
俺は結構楽しくやっていた。
仕事は忙しくて大変だけど店長はいい人だし、他の従業員たちともうまくやっていた。
"BAR KIRIYAMA"は俺の大事な居場所だ。

 開店時間の6時。重厚なドアが開いて1人の女がやってきた。
陽子さんだ。相変わらずお美しい。
彼女は一流企業に勤めるOLだ。24歳。俺より3つ年上。
美人で頭が良くていつも高そうな洋服を着ている。バッグはブランドものしか持たない。 酒はブランデーしか飲まない。
彼女は完璧な女だった。
その完璧な女が何故か俺を気に入って3ヶ月前からちょくちょくここへ通って来るようになっていた。

 「こんな早い時間に珍しいでしょう?」
彼女はそう言って俺のすぐ目の前に座った。いつもの席だ。
俺は彼女のボトルを取り出し、ロックグラスに酒をついだ。
「和也くんも飲んで」
「ありがとう」
俺はブランデーを水で割った。彼女はきっと言う。
「もったいない。ロックの方が絶対おいしいのに」
やっぱり言われた。毎度の事だ。
「今日は休みだったの?」
「有給を取ったの。たまにはいいかな、と思って」
「どこか行ってきた?」
「ちょっとブラブラしたけど1人じゃつまらないし、だから和也くんの顔を見に来たの」
「……」
「買い物がしたかったんだけど気に入った物もないし」
「そう」
「ちょっといい時計があったんだけど……」
「買わなかったの?」

 俺はずっと自分は話すのが得意な人間だと思っていた。
だから接客の仕事ならきっとうまくやっていけるという自信があった。
だけど、それはちょっと違う。
ここでは客の話を聞くのが1番の仕事だ。それは俺にはとても難しい事だった。
興味のない話を黙って聞く。まるで学校の授業と同じだ。

 あいつのすごさがよく分かる。
いつも俺のくだらない話を黙って聞いてくれたあいつのすごさが今になってよく分かる。

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