あれから1ヶ月が過ぎた。
夕方6時。俺はとある一等地のビルの前に立っていた。入口には"第一物産"と書かれた石碑が置かれていた。
ここへ来るのは二度目だ。最初は面接の時。そして今回が二度目だった。
俺はビルの入口の横で陽子さんが出てくるのを待っていた。
いったい何時になったら出てくるのかはさっぱり分からなかったけど、とにかく彼女に会えるまでは待つつもりでいた。
俺は相変わらずの暮らしをしていた。
"BAR KIRIYAMA"で働き、朝方家へ帰り、夕方からまた出勤する。
でも、あれ以来陽子さんは一度も店へは来なかった。
相変わらず続く暮らしの中で陽子さんだけが欠けていた。ジグソーパズルの最後の1つが見つからない、ずっとそんな心境でこの1ヶ月を生きてきた。
彼女を傷つけてしまったのは俺だ。ちゃんと自分でカタをつけなければならない。
6時を過ぎるとビルからは女たちが次々と出てきた。皆が俺をチラチラと横目で見ていた。
この場にそぐわないヤツがいるから変に思っているのだろうか。
さすがに社員が多い。でも、その中に彼女の姿を見つける事はできなかった。
やがて陽が沈んだ。
だんだんビルへ出入りする人が少なくなってきた。
近くにやきとり屋があるらしく、いい匂いが漂ってくる。
車はかなり渋滞していた。さっきから見ている青い車がなかなか視線から消えない。
1時間以上そこに立っていると、とうとう警備員に尋問されてしまった。
「失礼ですが、どんな御用ですか?」
「人を待ってるんだけど」
「どなたを?」
「……」
警備員がもう1人やってきた。これはまずいな。
そう思った時、やっと彼女の姿が見えた。彼女はすぐに俺に気づいてこっちへやってきた。
「ちょっと、どうしたの?」
彼女が驚くのも無理はない。いつもの俺ならもうとっくに店へ出ている時間だ。
まさかこんな時間に俺が彼女を訪ねてくるとは思いもしなかっただろう。
それにしても彼女は相変わらず綺麗だった。長かった髪はほんの少しだけ短くなっていた。
「陽子さん、ごめん」
俺は彼女に頭を下げた。自分のした事を考えれば当然の事だった。
なのに彼女は全く怒る様子を見せなかった。
「ねぇ和也くん、お店は? お休みなの?」
「うん。休みをもらってきたんだ」
「そう。じゃあデートしようよ」
「いいよ」
「本当?」
「うん」
「来て。いいお店があるの」
彼女に連れられて行ったのはとても静かなバーだった。
店内は暗く、足元のわずかな明かりを頼りに案内された席へ着く。
なかなかいい店だ。うちの店とはまた違った雰囲気だった。
背の低いゆったりしたソファに腰掛ける。
テーブルの向こうには熱帯魚が泳いでいた。その水槽が壁のようになっていて、他の客には邪魔されない雰囲気だ。
いつもは向かい側に座る彼女が今日はすぐ隣にいた。ちょっと慣れない感じがする。
彼女は黒服の男にブランデーとバナナラマを注文してくれた。
「嬉しい。和也くんとここへ来られるなんて思わなかったな」
「陽子さんなら誘ってくれる男がいくらでもいるだろ?」
「つまんない人ばかりだよ」
やがてテーブルの上に酒が運ばれてきた。
俺たちは静かに乾杯した。
よく考えてみればこんな時間にゆっくり飲むなんて、ずっとなかった事だった。
たまにはこういうのもいいものだ。
「今日の和也くん、今までで1番かっこよかった」
彼女が突然そんな事を言った。
「あんなふうに潔く頭を下げられる人ってすごくかっこいい。私には真似できないな。すごくかっこよかったよ、和也くん」
まさかそんな事を言ってもらえるとは思ってもみなかった。
一瞬親父の顔が頭に浮かんだ。なんだか親父が誇らしく思えてすごく嬉しかった。
そして同時にこんなふうに言ってくれる人を傷つけてしまった自分を本当に深く反省した。
この人は俺なんかよりずっと大人だ。
俺はいつかこの人を越えられるだろうか。
そして、親父を乗り越える事ができるだろうか。
陽子さんはしばらくグラスを持ったまま何事か考え込んでいた。
俺は黙って彼女の言葉を待った。今日は彼女の話をしっかり聞こう、そう決めてきたんだ。
しばらくすると彼女が急に俺の方を向いて最初の質問をした。
「和也くん、好きな人がいるの?」
「え?」
急に何を言い出すんだ。
「ずっとそんな気がしてた。だって、私になんか全然興味がないみたい。私これでも結構もてるんだよ。相手にしてくれないのは和也くんぐらいのものなんだから」
「そりゃそうだろうな。陽子さんは美人だし」
「その人、どんな人? その人も和也くんの事が好きなの?」
こんな時、なんと答えていいのか分からない。
今まで誰もそんな事を聞く人はいなかったから答えを用意する事もなかった。
「飲んでもいいかな?」
「どうぞ。遠慮しないで」
俺はこの店のバナナラマを口にした。結構いける。
この味。バナナの味を思う時、いつもあいつの事が頭に浮かぶ。
「自分でもよく分からないんだ。自分があいつの事をどう思っているのか、まるで分からない」
「分からない?」
「あいつの事はずっと気になってた。もう4年も会ってないし、話もしてないけど」
「その人、どこにいるの?」
「ずっと遠く離れてる」
「呆れた。あなた、やっぱり落第点ね」
「え?」
「和也くん、その人の事好きなんだよ」
「そうかな」
「遠く離れた人を4年もずっと思い続けて、すぐ近くにいるこんないい女に見向きもしないで、それでも好きかどうか分からないっていうの?」
「好きになってもどうしようもない相手なんだ」
「遠距離だから? それとも、まさか不倫?」
「いや。そんなんじゃない。もっと複雑なんだ」
恐らく彼女には理解できないだろう。
自分でもよく分からない思いを人にうまく伝えられるわけもない。
案の定彼女は全然違う事を考えていた。
「和也くん、どこかへ行っちゃうの?」
「ん?」
「その人のところへ行くつもり?」
「どうしてそう思う?」
「だって和也くんがこんなに自分の事話してくれるの初めてだから、これが最後だからなんでしょう?」
「そんな事思ってないよ」
「4年前にその人と別れた時もこうして自分の言いたい事だけ言って別れたの?」
「いや。俺はあいつには何も言わないできた」
それを聞いた彼女はすぐに2杯目のブランデーを注文し、たった数秒でそれを飲み干してしまった。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。ひどいよ」
「何が?」
「分からないの?」
「全然」
「ねぇ和也くん、私がお店に来ない間少しは心配してくれた? たった1ヶ月来ないだけでも心配してくれた?」
「ああ。もちろん心配したよ。陽子さんを傷つけたのは俺だし」
「その人も同じだよ。その人は生きてるか死んでるか分からないあなたの事をずっと心配してるにきまってる。4年だよ。4年もそんな思いをさせてるんだよ」
なんだか耳が痛かった。
「和也くん、ずるいよ。黙ってその人の前から消えればその人は和也くんの事ずっと忘れられないもの。それが分かってたから何も言わずにきたんでしょう?」
「俺は……そんなつもりはなかった」
「だったらどうして何も言わなかったの? 最後くらい好きだってちゃんと言えばいいのに、あなたはそうしなかったじゃない」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。俺は本当に分からないんだ。あいつの事が好きかどうか。もしそうだとしても、俺たちはどうにもならない」
「和也くん、逃げてる」
「え?」
「そんなの、逃げてるだけ。この世にどうにもならない事なんか絶対にないよ」
「……」
「今日、ここへ来るんじゃなかった。和也くんに会うんじゃなかった。そうすれば和也くんは私の事ずっと忘れないでいてくれたのに」
「……」
「和也くんはきっと私の事なんかすぐに忘れちゃうと思うけど、私は和也くんの事絶対に忘れない。初めて本気で好きになった人だから」
彼女はそれだけ言い残して去っていった。
最後までとても綺麗だった。完璧だった。
ちょっともったいなかったかな、と思わせるほどかっこよかった。
彼女の言う通りなのかもしれない。
あいつと最後に会った時、話すチャンスはいくらでもあった。
なのに何も話さなかった。ガラスの靴を置き忘れる事さえしなかった。
親父の会社が潰れた事。離れるのが淋しいって事。
そんな事、かっこ悪くてとても言えなかった。
今頃になってやっと分かった。
俺は今日の彼女のようにかっこいいままの自分であいつとさよならしたかったんだ。
そしてあいつにずっと俺の事を好きでいてもらいたかったんだ。
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