5.
その日は一度も目が覚める事なく夕方までぐっすり眠れた。
いろいろありすぎて疲れていたんだ。
目覚めると一気に昨夜の記憶がよみがえってくる。自分を嫌いになりそうな気分だ。
起き上がる気力もない。
そうだった。俺は失業したんだ。
時計の針は5時半をさしていた。もう店長は店に出ている時間だ。
でもそんな事、もう俺には関係のない事だ。
やっぱり俺、客商売には向いていないんだな。
また職探しか。きついな。
こんな時だというのに腹が減ってきた。考えてみたら昨日からろくなものを食べていない。
夜食を食べる前に店を飛び出してそれっきりだった。
冷蔵庫の中を覗いてみる。相変わらず何も入っていない。
俺は財布と部屋の鍵だけを持ってアパートを出た。
コンビニへ行って何か食料を調達しようとしたが、どうも食べたいものが見つからない。
結局俺は求人情報誌とバナナアイスだけを買って帰った。
床に寝転がってパラパラと求人情報誌をめくってみる。
その中に1件の求人を見つけた。アイスクリームの販売だ。
これはいい。毎日バナナアイスが食べられる。
俺はすぐに電話をしてみようと思い、携帯の電源を入れた。
するとかけるよりも先に手に持った携帯が鳴り出して一瞬驚いた。
「おどかすなよな」
これはもちろん独り言だ。
携帯の液晶画面には"BAR KIRIYAMA"の文字が表示されていた。
店長だ。
俺は電話に出ようかどうしようかすごく迷った。
だけど、昨夜の醜態を詫びる必要があると思い、決断した。
「もしもし」
店内の雑踏と共に店長の声が聞こえてきた。思えば彼と電話で話すなんて滅多にない事だった。
「和也、やっとつながった。お前何してるんだ? 遅刻だぞ」
「え?」
「今何時だと思ってるんだ。早く来てくれ。忙しくて人手が足りないんだ」
「俺、クビだろ?」
「誰がそんな事を言った?」
「だって、普通そう思うだろ?」
「昨日の事か? あんなのたいした事じゃない。俺は若い頃客をぶん殴った事があるんだぞ」
「……」
「とにかく早く来てくれ。今日柴田が来られなくなったんだ。待ってるぞ」
「え? ちょっと……」
「切るぞ! お客さんが来た」
「ちょっと待ってよ。店長……」
電話は切られた。
随分考えた。
行くべきか、やっぱりやめようか。
何度も引き返そうと思いながら重い足どりで店までたどり着いたのはもう9時近かった。
"BAR KIRIYAMA"と書かれた重厚なドアの前に立つ。
敷居が高い。
俺は最低だ。いくらあんな事があったからってまるで関係のない彼女に八つ当たりして、きっと店長や他の皆にも迷惑をかけた。
ここへ戻って来られる道理なんかない。やっぱり帰ろう。
俺は重厚なドアに背を向けた。
すると突然背後でドアが開き、中から店長が顔を出した。
俺も店長もお互いの顔を見て一瞬はっとした。
「和也、来てたのか」
「いや……」
店長は何故だか慌てていた。
「おい、赤い服を着た男を見なかったか?」
「いや。誰もいなかったよ」
「トイレは?」
俺たちはすぐに男子トイレへ行ってみた。だけど、そこには誰1人いなかった。
店長は突然怒り出し、トイレの白い壁を思いきり蹴りつけた。
「ど、どうしたの?」
「やられた! 初めて来た客だ! 1番高いボトルを全部飲み干して逃げやがった!」
「ええ?」
「畜生! 今度見かけたらタダじゃおかないからな!」
俺はそれからトイレで説教された。
口答えをする勇気は今の俺にはとてもなかった。
「だいたいお前が悪いんだぞ和也。忙しくて手が回らないんだ。いつもならこんなドジはしないのに」
「すみません」
「3万円の損だぞ。お前、責任持って取り返せ」
「どうやって?」
「今2番ボックスに4人組の女たちがいる。お前接客してどんどん飲ませろ」
「……」
「返事は?」
「はい」
「何してる? 早く行け」
「はい」
重厚なドアを開けると客の笑い声が響いた。
俺が行くと高橋くんがほっとしたような顔を見せた。
「和也! 待ってたぞ。3番ボックスにグラス3つ持っていってくれ」
「は、はい!」
どうって事なかった。
俺は結局いつものように店に出て、酒を作り、酒を飲み、客の話にうなづくだけでよかった。
昨日の事なんかもう誰も覚えてはいなかった。
ただ、そこに陽子さんだけがいなかった。