月が見ていた  第1部
 1.

 羽根布団の感触が心地いい。
本当はもう少し眠っていたい。だけど、起きなきゃ。
俺は瞼に力を込めてゆっくりと目を開けた。
薄暗い部屋。だけど、外はまだ明るいはずだ。
サイドテーブルの上に置かれたひょうたん型のアンティーク時計。その針は3時を指している。
俺は一瞬不安になった。この部屋に1つしかない大きな窓にはぶ厚いカーテンが引かれ、外の光が全く入ってこない。
まさか、寝過ごしてしまったのだろうか。万が一今が午前3時だったとしたら、ひどく面倒な事になる。
俺は眠たい目を擦りながら羽根布団の誘惑を蹴飛ばしてベッドを飛び下り、恐る恐る窓へと近づいた。
全く、いつ来ても無駄に広い部屋だ。ベッドから窓への距離は10メートル近くもある。 早く窓へ辿り着きたいのに、やたらと長い絨毯の毛が足に絡みついて素早く歩く事もできやしない。
俺はやっと行き着いた大きな窓の前に立ち、細心の注意を払って趣味の悪いオレンジ色のカーテンに手を伸ばした。
ほんの少しだけカーテンを手前に引くと、眩しい光が目に突き刺さって痛みさえ感じた。
だが、とりあえずほっとした。良かった、今はやっぱり午後3時のようだ。

 遠くの方でシャワーの音が聞こえる。
今日のスポンサーは長風呂だ。恐らくあと1時間はバスルームへこもったきり出てこない。
俺は毛の長い絨毯の上に投げ出されたシルクのガウンを右手で拾い上げた。 そして何も身に着けていない体にそいつを羽織ると、1つしかない窓の横に置かれた華奢なパソコンデスクに近づき、薄っぺらいノートパソコンの電源を入れた。
パソコンが立ち上がるまでには少し時間がかかる。 俺はデスクの前の回転椅子に腰掛け、クルクルと椅子を回しながらだだっ広い部屋の中をぐるりと見回した。
わざわざヨーロッパから取り寄せたという足の長いキングサイズのベッド。 フカフカの羽根布団は俺に蹴られたままの形でそのベッドの上に乗っかっていた。
天井からぶら下がる豪華なシャンデリアには光が灯されていない。
この部屋に1つだけの大きすぎる窓はベッドの正面に位置している。 恐らくカーテンを開けると眩しいくらいの光がキングサイズのベッドを照らし出すのだろう。 だが俺はその様子を見た事はないし、これからも見る事はない。 俺がここにいる間はオレンジ色のぶ厚いカーテンがいつも閉ざされているからだ。

 パソコンが立ち上がった。
俺は椅子を回してパソコンと向き合い、インターネットに接続して、さっきまでベッドを共にしていた女のお気楽なサイトを開いた。
親子ほど年の離れた俺のスポンサーは、"美奈子の子育て日記" と題されたサイト上の日記に4歳になる娘の事をあれこれ綴っていた。
俺は1番新しい日付の物を読んでみた。昨日の日付だ。

10月23日(土)
今日も娘は元気いっぱいで部屋中を走り回っていた。元気すぎて、困るくらいだ。
明日パパとお出かけするのが待ち遠しいようで、そのせいか今日は特にテンションが高かった。
娘はクローゼットの中から赤いワンピースを引っ張り出してきて、私にこう言う。
「明日はこれを着ていくの」
ところが5分もたたないうちに今度はピンク色のスカートを持ってきてまた同じ事を言う。
「明日はこれを着ていくの」
娘はこの作業を延々と続けた。最初の二、三回は笑顔で付き合っていられるけど、それが何十回も続くと私もだんだんつらくなってくる。
「あなたの出してきた洋服を全部片付けるのはママなのよ」
そんなセリフが喉元まで出かかった。でも、パパとのデートを楽しみにしている愛娘の笑顔を見ていると、どうしても怒る事はできなかった。

 俺はそれだけ読み終えるとすぐに別なサイトへ飛んだ。
彼女の日記を盗み見る事はもう習慣になっていた。習慣だから読む。ただそれだけで他意はない。
最初のうちは感想を持つような事もあったが、今はもう読んでも何も感じなくなっていた。
女が夫と娘を追い払って若い男を家へ連れ込んだとしても、そんな事は珍しくもない。汚らしい事でもない。 そんなの、誰もがやっている事だ。

 気まぐれにわけの分からないサイトへ飛ぶと、チカチカする原色が目に染みた。
キーボードの "N" はいつもながらに反応が鈍い。
広い部屋の中にはキーボードを打つカチャカチャという音だけが響いていた。
遠くのシャワーの音はもう途絶えた。女はきっと猫足のバスタブに浸かっているのだろう。
最初にこの部屋へ来た時はたばこの匂いが鼻をついたけれど、もう今ではそれも感じなくなっていた。 俺の体に無数に刻まれた傷の痛みも、いつからか全く感じなくなった。
人は慣れると何も感じなくなる。俺は幼い頃からその事を知っていた。

 一瞬、なかなか反応しないキーボードの "N" を右手の人差し指で連打していた時、 もうとっくに感じなくなっていたたばこの匂いが突然蘇って妙に鼻についた。
ここへ来るのも今日で最後かな。俺は眩しい原色の赤に目を細めながら漠然とそんな事を考えていた。


 俺は女から手当てを受け取ると、その足ですぐに電車の駅へ向かった。
日曜日の午後4時。田舎の駅のホームには誰もいなかった。 改札口に紺色の制服を着た車掌が1人いるだけで、それ以外は全く人気がなかった。
次の電車が来るまでには10分ほど時間があるため、俺はホームの隅の古くさいベンチに腰掛けて電車を待った。
1時間前に薄暗い部屋から外の様子を伺った時は強い光を感じたのに、俺が駅へ着いた頃もう空は曇っていた。
正面を見据えると、錆びた線路の向こうに小さな商店があった。 赤い屋根に、白い壁。一見ごく普通の民家にしか見えないが、"柳下商店" という木の看板が屋根の下に掲げられていた。 一応駅前だというのに、商店が一軒しかない。それ以外は野原が広がっているだけ。なんとものどかな風景だ。
だけど、俺の住む町はここよりもっとのどかだ。駅前には何もない。商店も、民家も、何も見当たらない。 無人駅だから、車掌さえ見当たらない。
早くあの町を飛び出したい。だけど、飛び出すのが死ぬほど怖い。
1つため息をつくと、右手の方から電車が見えてきた。
俺は立ち上がって周りを見回したが、やっぱりホームには俺1人しかいなかった。
一両だけの青い電車は、減速しながらホームへ入ってきた。 俺は誰もいないホームから誰も乗っていない電車に飛び乗り、隣町を目指した。

 電車に揺られて約1時間。車窓から見える景色が突然華やいだ。
夕方5時の空は、もうだいぶ暗くなりかけていた。点滅するパチンコ屋のネオンや車屋の看板の原色が俺の目に眩しく映った。
ここまで来ると、いつもほっとする。 俺の住む町では住人全員が顔見知りだ。俺の素性を知らない人間なんか、誰1人いない。
でも、たった1時間と少しの間電車に揺られれば都会の町へ出る。そうすれば、周りの人間は皆知らない人たちに変わる。
それは俺にとって解放を意味していた。いつか自分を知らない人ばかりの中で暮らしたい。 それは、幼い頃からのささやかな夢だった。

 駅について改札を出ると、大勢の人たちが行き交う大通りが見えてきた。
大通りを歩く人の波。道行く人たちは皆コートの襟を立て、背中を丸めて歩いていた。
10月ともなると、夜はかなり冷える。夕方5時頃はちょうど気温が下がり始める時間帯だ。
手が冷たい。俺は両手に息を吹きかけ、大通りを歩く人波に加わった。
道の両側には飲食店のネオンが続いていた。 目的地へ向かう途中で中華レストランの店内を覗くと、肩を寄せ合ってラーメンをすする男女の姿が目に付いた。
なんだか急に腹が減ってきた。だけど、今はただ歩くしかない。

 そのまま真っ直ぐに歩いて行くと、一際目立つド派手なネオンが見えてきた。 赤や黄色の光がチカチカと点滅するキャバクラのネオンだ。
俺はその店の手前の中小路を左へ曲がった。すると、華やかだった景色が一変した。
その通りはひっそりしていた。長屋のような建物がいくつか並び、そこには小さなスナックがひしめき合っているようだが、午後5時を過ぎたばかりで看板に光を灯している店は一軒もなかった。

 その細い通りを100メートルほど進むと、黒いドアの前に立つ人影があった。
グレーのコートを着た白髪頭の中年男。小柄だが目は鋭く、薄暗い中小路で彼の目だけがギラギラと光っていた。
「ナナはいる?」
俺は彼に近づき、声をかけた。
俺はその男と顔見知りだった。この町で俺の顔を知っているのは、その男とナナの2人だけだった。
白髪頭の男は、いつも無愛想だった。俺は彼の声を一度も耳にした事がない。 彼は黒いドアをそっと押して建物の中へ入り、約2分後にナナを伴って出てきた。
「洋輔!」
真っ白なロングコートを着たナナは俺を見るなり両手を肩に回して抱きついてきた。 白髪頭の男はナナの背中の向こうから感情のない目つきで俺を見つめていた。
俺は左手でナナの細い肩を抱き寄せ、右手に握り締めた10枚の1万円札を白髪頭の男に差し出した。これでナナは明日の朝まで自由の身だ。
俺はナナの手を引いて、再び大通りへと向かって歩き始めた。 その時、冷たい風に乗って漂う異臭が俺の鼻をついた。生ゴミと排泄物が混じりあったような、ひどく不快な匂いだった。
ここへ通い始めた頃はいつもこの匂いに顔をしかめたものだった。 だけど何度も通い詰めるうちにだんだん慣れて、しだいに何も感じなくなっていった。
久しぶりに感じるゴミタメの匂い。今ではなんだか懐かしささえ覚える。

 大通りへ出ると、ナナはほっとした顔を見せた。
あの黒いドアからここまでの距離はたったの100メートル。 オリンピック選手なら、10秒足らずで走り抜ける事ができる距離だ。だが、彼女は自由にその道を抜け出す事もできやしない。
俺はド派手なキャバクラのネオンの下に立つ彼女の顔を見つめた。 原色のネオンが点滅するたびに、ナナの顔も赤や黄色に染まった。
彼女は人形のように透き通る灰色の目で俺を見上げていた。鼻筋の通った綺麗な顔には傷1つ見当たらなかった。俺はそれを確認し、ほっと一息ついた。
「ナナ、しばらく会いに来れなくて悪かった。手荒な真似はされてなかったか?」
彼女は何も言わず、つないでいる俺の手をぎゅっと握り締め、口許だけで微笑んだ。
俺は彼女の変化を1つも見逃すまいとした。 腰のあたりまで伸びた髪がほんの少し短くなっている事や、彼女の手がいつもより冷たい事。 そして俺に嘘をつくまいと、黙って微笑んでいる事。
「少し歩くか」
「うん」
ナナは、いつもとちょっと違っていた。
その日の彼女は全く無理をしなかった。いつもなら無理をして元気そうな素振りを見せるのに。
彼女はまるで手を離すと二度と会えなくなるかのように力強く俺の手を握り締め、自慢の長い髪が風に乱れても全く気にせず、ただ俯き加減でゆっくりと歩き、何も話そうとはしなかった。
彼女ももう限界なんだ。彼女の冷たい手はその事を示唆していた。 だけど俺にできる事はこれで精一杯だ。俺もまた、自分に限界を感じていた。
すれ違う人たちが皆幸せそうに見える。きっとその時、ナナも同じように感じていただろう。

 飲食店のネオンに包まれながら駅へ向かって歩いて行くと、右手の奥に10階建てのシティホテルが見えてきた。 白い壁に点在する四角い窓の半数には光が差していた。
それはここいらではわりと安くて小綺麗なホテルだった。 もっと豪華なホテルは駅付近にたくさんあったが、俺にはナナをそこへ泊めてやれるだけの甲斐性はない。
駅ビルの大きな時計の針は5時50分を指していた。大勢の人たちが駅に吸い込まれていく。 楽しい日曜日を過ごした連中がそろそろ家路につく時間なのだろう。
俺がシティホテルへと続く道の前で立ち止まると、ナナは泣き出しそうな顔を見せた。
「もう帰るの? 朝まで一緒にいて」
ナナは、俺との別れにいつまでたっても慣れなかった。俺の方はすっかり慣れているような顔をしながら、この瞬間はいつも胸が締め付けられる思いがした。
「ナナ、明日の朝までホテルでゆっくり休め。これでうまい物でも食えよ」
俺は彼女のコートのポケットに1万円札をねじ込んだ。ナナは俯いて、じっと唇を噛み締めていた。
「じゃあな。また会いにくるから」
俺は彼女の冷たい手を振りほどき、人波をかき分けて駅ビルへとダッシュした。背中をナナの声が追いかけてきたけれど、彼女が最後になんと言ったのかは聞き取れなかった。

   TOP  NOVELS  LONG STORIES  BACK  NEXT