月が見ていた  第1部
 2.

 ナナを振り切って駅構内へ入ると、券売機の前や待合室に大勢の幸せそうな人たちがいた。
おもちゃ屋の紙袋を大事そうに肩からぶら下げ、母親にくっついて歩く少年。 お喋りに興じている婆さんたち。人目も気にせずイチャついている男と女。皆俺とは違う人種のヤツらばかりだ。
俺は彼らから目を逸らし、改札口の真上に並ぶ電光掲示板を見つめた。
ついてない。俺の乗る電車はたった5分前に出たばかりだった。 さびれた町へ向かう電車は本数が少ない。どうやら次の電車が来るまで1時間も待たなければならないようだ。
こんな事なら、もう少しナナと一緒にいれば良かった。
だが、今更悔やんでも始まらない。 それにあの時思い切って彼女を振り切らなければ、ズルズルと長居してきっと帰るタイミングを失っていた。

 俺はしかたなく改札口の横にある待合室へと向かった。 待合室といっても背もたれのないベンチがただ並んでいるだけの狭い空間だった。
でも暖房が入っているから外にいるよりはずっといい。俺の体は冷え切っていた。 1時間もここでじっとしていればきっと体が温まるはずだ。そう考えれば電車の待ち時間も苦にならないような気がしてきた。
俺は人がひしめき合う待合室の中にやっと1人座れるだけのスペースを見つけ、そこに腰掛けた。
すると、尻の下に生ぬるい感触があった。きっとついさっきまでここへ腰掛けていた誰かの温もりだ。なんだかちょっと気持ちが悪い。
俺は気を紛らわすため、向かい側のコーヒーショップの前に設置されている大型テレビへ目を向けた。
テレビの中では知った顔の若い女が派手な衣装を身に着けて歌っていた。 名前は忘れたが、結構売れている歌手だ。 彼女はスポットライトを浴びながらステージの上を飛び跳ねていた。
さっきまでネオンの光の下にいたナナの事を思い出す。やっぱり、あと少しだけ一緒にいてやれば良かった。
ステージの上で飛び跳ねる女を見ていると、そんな後悔が再び頭をもたげてきた。

 15分ほど待合室にいると、壁際のベンチに座っていた痩せっぽちな爺さんが荷物を持って立ち上がった。
すると周りの何人かが同じように立ち上がり、改札口の方へと歩いて行った。
きっと、どこか都会へ向かう電車がやって来る時間になったのだろう。
俺はまだしばらくの間テレビを見ていたが、そのうち目の前を通り過ぎる人波に邪魔されてテレビもコーヒーショップの看板も見えなくなった。
すると今度は瞼が重くなってきた。それは体が温まってきたせいかもしれない。
目の前に広がる雑踏の映像が時々途切れる。それは俺の瞬きの間隔がゆっくりになってきたせいだ。
周囲のざわめきが子守唄に聞こえる。早く電車に乗って眠りたい……
「疲れてるみたいだな。待ち時間が長いなら、車で送ろうか?」
その低い声は、俺のすぐ側で聞こえた。その一言は俺の眠気を吹っ飛ばすのに十分なインパクトがあった。
俺はすぐ隣に座っている声の主に目を向けた。 そこにはほんの少し前まで女が座っていたはずなのに、いつの間にか人が入れ替わっていた。

 隣に座っている見知らぬ男は全身黒ずくめだった。まるで葬儀屋だ。
黒い髪、黒いコート、黒いセーター、黒いズボン。
彼は長い前髪をかき上げ、俺を見つめて静かに微笑んだ。 恐らく30代。唇が薄く、左目の下に小さなほくろがある。 切れ長のその目は、とても優しそうに見えた。その優しそうな目が、今俺1人に向けられている。
「送るよ。疲れてるなら、車の中で寝ればいいだろ?」
彼は更にそう続けた。俺はいよいよ警戒した。いきなり親切そうに近づいてくるヤツには何かある。 人は自分に利益がないと行動を起こさないものだ。
俺は待合室にいる人たちを一瞬で観察した。
どうやら皆自分の世界に入り込んでいる。俯いて携帯メールを打っている人や、本を読んでいる人。 お喋りに夢中な人や、ウトウトしている人。誰も俺たちの事なんか気にしていない。 きっと俺たちが何を話していても、誰も聞いてやしない。
「俺と時間を共有したいなら金を払えよ。ただし、高いぜ」
俺は黒ずくめの男を追っ払うつもりでそう言った。出来るだけ相手を見下した態度で、不適な笑いを浮かべて。
だが、その後には俺の予想しない展開が待っていた。
「ああ、いくらでも払うよ。じゃあ決まりだな」
彼は軽い口調でそう言って、俺のジャケットのポケットに右手を突っ込んだ。 それからスッと立ち上がり、さっさと歩き始めてしまった。
急いでポケットの中を覗くと、1万円札の束が見えた。恐らく20〜30万はある。
俺は立ち上がり、雑踏の中に消え行く男の姿を探した。でも俺が見た時にはもう彼の姿はどこにもなかった。
「ちょっと、待てよ!」
俺が叫ぶと、自分の世界に入り込んでいた周りの連中が初めて俺に注目した。 だがそんな事には構っていられない。
こんなやり方はダメだ。俺の主義に反する。 俺は何かと引き換えじゃなければ金を受け取らない主義だった。それがこの俺の、ちっぽけなプライドだ。

 コーヒーショップの横には駐車場へ続く小さな出口がある。俺は男を追って走った。周りを気にする余裕もなく 思い切り出口へ向かってダッシュした。そこへ辿り着くまでに、何人もの人とぶつかった。
重いガラス戸を蹴って外へ飛び出すと、目の前の広い駐車場には数え切れないほどたくさんの車が並んでいた。
外はもう真っ暗になっていた。場内には暗い外灯がいくつかあったが、 明るい駅構内から急に外へ飛び出すとすぐには目が慣れず、しかも闇に 溶けてしまいそうな黒ずくめの男を一瞬にして見つけ出す事は不可能に近かった。
あいつ、いったいどこにいるんだ?
俺は何度もきつく瞬きをしながら辺りを見回した。 何台もの車が出口へ向かっているけれど、いったいどの車に彼が乗っているのか全く分からなかった。

 そろそろ暗闇に慣れた俺の目線がワイドに場内をさ迷っていた時、黒塗りの高級車が近づいてきた。 周りに何匹もの蛾がまとわりついている暗い外灯の下で、高級車の黒いボディがピカピカに光っていた。
いかにも金持ちが乗っていそうなその車は、俺の目の前でピタリと止まった。
助手席側の窓が、スーッと音もなく開いた。 俺はポケットの中の札束を握り締めて、窓の中を覗きこんだ。 するとさっきの葬儀屋が運転席でハンドルを握りながら、切れ長の優しい目を俺に向けていた。
俺は右の掌に握り締めている札束をそいつに投げつけてやるつもりだった。
今夜はせめてナナの手の感触を抱いたまま眠りに就きたかったのに、そんなちっぽけな夢さえ叶わなかった事にものすごく苛立ちを感じていた。
「そんな所に立ってたら風邪をひくぞ。早く乗れよ」
彼は誘うようにそう言って俺を挑発した。その時の俺には、そうとしか思えなかった。
俺は一歩前へ踏み出して全開になっている助手席側の窓に手を掛け、この言葉を吐き捨てた。
「あんた、ゲイなのかよ!」
すると彼は腹を抱えて笑い出した。大きな声を上げて、とっても楽しそうに。
俺は勢いをつけて、思い切りよく右腕を振り上げた。 すでに頭の中では俺の手の中の札束が彼の頬を引っ叩く様子をイメージしていた。
「おもしろい事言うな、洋輔くん」
彼は、いつも俺の予想を裏切った。 別に彼がここで何を言うか想像していたわけではなかったが、彼はいつも俺が考えられない事ばかりを口にした。
その時、黒い高級車の前を誰かの車が走って来た。黄色いライトに照らし出された彼の顔は、もう笑ってはいなかった。
俺は、振り上げた右腕を力なく下ろした。 右の掌に包まれた札束は俺の手を離れ、風に舞ってパラパラとどこかへ飛んでいった。


 俺は結局、葬儀屋の車に乗った。
だがプライドを捨てたわけじゃない。俺の受け取った金はすべて風がどこかへ運んでいった。 俺は彼から1円も施しを受けてはいない。
彼は俺が乗ると、黙って車を走らせた。
暗い中、さっきより鮮やかに見えるネオンが俺の目の前を次々と駆け抜けていった。
高級車のシートは大きめでゆったりとしていた。なんとも乗り心地がいい。 だけど俺には心地よさに酔っている余裕なんかこれっぽっちもなかった。

 車内に流れるのは、静かなピアノ曲。
大通りを抜けて舗装されていない砂利道へ入っても、まだ彼は黙っていた。 まるで同乗者がいる事も忘れているかのように俺の事なんか見向きもせず、じっと黙ってハンドルを握っていた。
俺はただ前方を照らし出す車のライトの先をじっと見つめ、大急ぎで様々な事を考えた。 だけど、いつもより頭はスローな気がしていた。
彼はゲイなんかじゃない。5分も一緒にいれば、そんな事はすぐに分かった。
彼はなんの目的で俺に声をかけたのだろう。俺はその疑問に対する答えが知りたくてたまらなかった。
だが長い前髪が邪魔をして、彼の表情を読み取る事は困難だった。 ピアノの音が邪魔をして、何気無い吐息を聞き取る事さえ困難だった。
彼は答えにつながる情報を何一つ俺に与えようとはしなかった。

 外灯のない真っ暗な道へ入っても、まだ沈黙は続いた。車内の空気は張り詰めていた。
やがて何度か左折を繰り返し、車が対向車とギリギリ行き交う事ができる細い道へ入った時、俺の体中に鳥肌が立った。
うかつだった。ハメられた。本能に逆らう事ができず、フラフラと車に乗ってしまった自分を死ぬほど悔やんだ。
地元の人間しか知らないはずの細い道。滅多に対向車がやって来ない細い道。 窓の外には暗闇以外に何もない。
道の両側にはただ背の高い樹木がぎっしりと並んでいる。だが暗闇に包まれた今は木の幹すらはっきりとは見えない。
この辺りには外灯もなければ民家もない。もしここで今殺されても、きっと誰にも見つからない。
そうだ。もしかしてこの男は本物の葬儀屋なのかもしれない。
俺の体は小刻みに震えていた。それなのに、掌にはびっしょり汗をかいていた。
もしかしてこの男は園長の手先なのだろうか。 だったらつじつまが合う。彼は俺の名前を知っていた。そして園の場所も知っている。
だとしたら、園長はいったいこの男に何をさせようとしているのだろう。この男は俺に何をしようとしているのだろう。
俺は体の震えを止めようと、きつく奥歯を噛み締めた。 体が震えているのはガタガタな道を走る車の振動のせいだ。自分にそう言い聞かせる事に必死だった。
頭の中には外へ出かけたまま二度と帰って来なかった仲間の顔が次々と浮かんでは消えていく。
「どうした? 寒いのか?」
心配しているような、そうでもないような、感情の読み取れない声が車内に響く。
彼は、俺が震えている事にあっさりと気が付いた。 俺の事を見る仕草なんか全く見せなかったのに、それでもすぐに気が付いた。こいつは絶対にタダ者じゃない。
目の前が真っ暗になっていくのは単に外が暗いからか?それとも、俺の行く先が真っ暗だからか?

 逃げよう。
俺は走り続ける車のドアを開けて外へ飛び出す事を試みた。だけど、ドアはがっちりロックされていてビクともしなかった。
「何してるんだ、走行中だぞ!」
男の鋭い声が、車内に響くピアノ曲と重なった。
"そんな事は分かっている" そう言いたいのに、喉が乾きすぎて声も出せやしない。 俺はカラカラに乾いた喉に唾を流し込み、彼を一瞥した。 それでも彼は俺に見向きもしなかった。
彼は前を向いたまま後部座席へ左手を伸ばした。 それからガサゴソと音をたてながら手探りで白い紙袋をつかみ取り、それを黙って俺に差し出した。
その中身はミネラルウォーターのボトルとプラスティック容器に入ったサンドウィッチだった。
彼は、俺の喉が乾ききっている事にも気が付いていた。まるで何もかもがお見通しだった。

 腹が減っている事なんか、しばらく忘れていた。 だけどいざ食い物を目の前にすると、俺の本能が今は食っておくべきだと強く主張した。
俺はすぐにボトルのキャップを開け、乾ききっている喉を潤した。 それからプラスティック容器を手で破壊し、むさぼるようにサンドウィッチを口へ詰め込んだ。
男はそんな俺の様子を横目で、呆れた顔で見つめていた。彼の視線がわずかでも俺に向けられるのは本当に久しぶりだった。
「不用心だな。知らないヤツが寄こした食い物をよくたしかめもせず口にするなんて、毒でも入ってたらどうするつもりだ?」
俺はすぐに言い返したかったが、今度は口の中に物がいっぱいで声を出す事ができなかった。
「まぁいい。腹が減ってると判断能力が低下する。もう外へ飛び出そうなんてバカな真似はよせ」
彼はそう言った後、また運転に集中した。 でもそう思っていたのは俺だけで、彼は本当は運転に集中するふりをしながらずっと俺の様子を観察していたのかもしれない。
俺は最後の水を飲んで口の中の物を胃へ流し込み、それから自分の中に抱えている恐怖を打ち砕くべくやっと彼の言い草に反論した。 空腹が満たされて喉が潤うと、驚くほどスラスラと言葉が出てきた。でも、俺の声は微かに震えていた。
「飢え死にするくらいなら毒入りりんごを食って死んだ方がまだマシさ。俺は食える時には食っておく主義だ。 腹が減るとおかしくなる事くらい知ってるよ。何日も食わないと石ころが芋に見えてくる。 だけど、あんたにとっちゃ石ころはいつまでたっても石ころでしかないだろ? 高級車に乗ってる金持ちが、分かったような口利くなよ!」
俺はひどく感情的になっていて、気が付くと空になったボトルを彼に投げつけていた。 だが至近距離だというのにコントロールが定まらず、ボトルはハンドルに当たって再び俺の方へ跳ね返ってきた。
それでも彼はちらっと俺の顔を見ただけで、何も言わなかった。 暗闇のバトルに参加する意思はない。まるでそんな態度だった。
ほとんど一方的な会話は、相手とろくに顔をつき合わせる事もなく続けられた。
「あんた、俺の名前を知ってた。それに、あんたは俺の帰る場所を知ってる。 この道は俺の住む家へ続いてる。あんた、俺を送るって言ったよな? 最初から俺の帰る場所を知ってたんだろ? どうしてだ? あんたはいったい誰なんだ? なんの目的があって俺に近づいた?」
車内には相変わらず眠たくなるようなピアノ曲が静かに流れていた。 よくよく見ると、彼は時々ピアノの音に合わせてうなづきながらリズムを取っていた。 なんだか余裕たっぷりだ。
「少しは頭が冴えてきたようだな。ずっと黙っていたかと思えば、今度は質問攻めか」
感情的になっている俺とは違った冷静な声。 ついさっきボトルを投げつけた自分が恥ずかしくなってくる。
車の中はとても暖かかった。俺は額に薄っすらと汗をかいていた。 だけど、どうしても声の震えを止める事は出来なかった。
「ちゃんと……ちゃんとこっち向いて、聞いた事に答えろよ!」
「この道を走っているのは偶然さ。俺はお前を家へ送るとは一言も言ってないぞ」
じゃあ、いったいどこへ送るって言うんだよ。死体置き場か?
俺は困惑した。彼はのらりくらりと俺の言葉をかわして、ろくに取り合おうともしない。 俺の事をちゃんと見ようともしない。

 突然彼が車を道の左端へ寄せて停めた。 彼が急ハンドルを切ったため、俺の体は左に大きく揺れた。
彼が車のライトを消すと、辺りは本物の暗闇に包まれた。 彼は同時にCDコンポの電源も消した。すると、辺りは本物の沈黙に包まれた。
俺はその時、本気で死を覚悟した。俺はきっと何らかの理由で不要になったんだ。 彼は俺を始末するために園長が雇った刺客だ。そうとしか考えられなかった。
死んでいくヤツに何を言っても時間の無駄だ。だから彼はろくに何も話そうとしないんだ。
彼は俺よりずっと大人で、体つきもがっちりしている。きっとどんなに抵抗しても勝てない。
ふと足元に目線を落とすと、1年くらい履き続けているスニーカーのつま先に穴が開いているのが見えた。 こんな真っ暗な場所で、穴の開いた靴を履いて死んでいくのか。そう思ったら、なんだか泣けてきた。
「こっち向けよ」
男の低い声がそう言った。切れ長の目はしっかりと俺に向けられていた。
俺は最後に自分と接した男をしっかり見ておこうと、真っ直ぐ彼に視線を送った。 俺の目には薄っすらと涙のフィルターがかかっていた。 フィルターを通して見ると暗闇の中でも彼の表情がはっきりとよく見えた。
彼は、最初に会った時と同じように長い前髪をかき上げ、最初に会った時と同じ優しい目で俺を見つめていた。 だが今はその優しい目が死ぬほど怖かった。それでも俺は、もう彼から目を逸らすまいと思っていた。

 しばらくすると彼の薄い唇が何かを言うために動き出した。俺の耳は極度に緊張していた。
「率直に言おう。俺の下で働かないか?」
彼は、いつも俺の予想を裏切った。 別に彼がここで何を言うか想像していたわけではなかったが、彼はいつも俺が考えられない事ばかりを口にした。
俺は脳みそを引っかき回されている感覚を味わった。なんなんだ? いったいどうなっているんだ? どう考えても分からない。園長は、俺を葬儀屋へ売ったのか?
「俺に葬儀屋を手伝えっていうの?」
だがその時俺が放った言葉も、彼の予想を裏切ったらしい。
彼はその時、初めて自分の感情を顔に表した。 "何を言われているのか全然分からないよ" 彼の顔にはそう書いてあった。 決してウソのない、ぽかんと口を開けた、いかにもマヌケな顔だった。
「ふ……ふふふ」
次の瞬間、彼の口許が緩んだ。
彼は俺を見つめたまま肩を小刻みに震わせて笑った。だが俺の体はもう震えてはいなかった。
「俺が葬儀屋なら、この黒い車は霊柩車かな?」
彼は冗談めかしてそう言ったが、俺は笑う事ができなかった。 自分の置かれている状況を考えれば、とても笑えるはずなんかなかった。

 彼の笑い声が響いた事で、真っ暗な車内の空気がいくらか和んだ。 でもそう感じたのは俺の気持ちが少し変化したからかもしれない。
俺はその時、珍しく希望的観測を持った。
考えてみれば彼の方は終始冷静で、いつも優しかった。
ハンドルから離れ、シートの上に投げ出されている彼の大きな手。その手が自分の首に巻きつく様子を想像する事はひどく困難だった。 彼の手はきっと温かい。触れてもいないのに、そっちを想像する方がずっと容易だった。
俺の右手に、ナナの手の感触が蘇った。 あの冷たい手の感触は、彼女の手に触れなくてもはっきりと思い出す事ができる。
俺がほんの少し前向きになれたのは、空腹が満たされて頭の血の巡りがよくなっていたせいなのか。 それとも、心のどこかで自分のカンを信じていたせいなのか。疑問の答えはすぐには出なかった。
彼は俺の気持ちの変化を見逃さなかった。きっと彼は、ずっとこの時を待っていたんだ。
「いつも慎重なお前が、どうして俺の車に乗った?」
責めるでもなく、見下すでもなく、ただ言い聞かせるような彼の声。
恐らく彼は、聞かなくてもその答えを知っていた。だから俺は黙っていた。 彼は最初からすべてお見通しだった。きっと、俺が必ず車に乗ると確信していたに違いない。
彼に名前を呼ばれたあの瞬間、俺の本能は車に乗るべきだと主張していた。
「簡単に人を信用しないところは気に入ったよ。カンがいいところも、気に入った。 俺の事を信用しろとは言わない。簡単に信用するようなら、そっちの方が問題だ。 お前は頭がいいからよく考えれば分かるはずだ。 大事な事はお前がこの先どんな状況に陥ったとしても、今よりはましだって事さ。そうは思わないか?」
俺は、優しい目で見つめられる事に慣れていなかった。 だからその時、俺の目は温かそうな彼の手を見つめていた。
ピアノの音が消えた車内には、突き放すような、優しいような、どっちとも取れるような彼の言葉が響いた。
「あとはお前が判断しろ。このまま帰るなら、家まで送るよ。でも俺の話に乗るなら、今すぐこの道を引き返そう」
彼はそれだけ言うと、沈黙を守った。

 彼は俺の額の汗に気付いたのか、ほんの少しだけ窓を開けた。
窓の外には時々弱い風が吹いて、木々の揺れる音が微かに俺の耳に届いた。
俺は、また体に震えがきた。だけどその震えはさっきまでのものとは全く違っていた。
こんなにゾクゾクする感じは久しぶりだ。
何かが始まりそうな予感。だけどそれは、ワクワクするのともちょっと違っていた。

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