月が見ていた  第2部
 2.

 学校から帰ると、ミキは玄関で僕を出迎えてくれる。
家へ帰るといつも甘い匂いがするのは、彼女が僕のためにお菓子を用意してくれているからだ。
「お帰り。すぐに手を洗ってね」
ミキの目は灰色だ。その目は人形の目のように透き通っている。
彼女の優しさには一点の曇りもない。それが分かるから、僕はすぐに彼女を好きになった。
ミキは最近髪を伸ばしている。今は大体背中の真ん中くらいまで真っ直ぐな髪が伸びている。
日差しが当たると、その髪はキラキラと輝く。それでなくても、彼女はいつも輝いている。

 手を洗ってからリビングへ行くと、テーブルの上に焼きたてのクッキーとミルクが用意されていた。
僕はクルミ入りのクッキーが大好きだ。ミキはそれをよく知っていて、週に一度は必ずクッキーを焼いてくれるんだ。
僕たちは並んでソファに腰掛けて、それから夕方の静かな時を過ごす。
「今日は学校で楽しい事があった?」
甘く温かいクッキーを口に入れた時、彼女が笑顔でそう言った。 部屋の中は夏の日差しに照らされていて、ミキの髪は白く輝いていた。
「今日は昼休みにサッカーをして遊んだよ」
「そう。楽しかった?」
「うん。すごく楽しかった」
こういう事を話すと、ミキはいつもほっとしたような表情を見せる。
彼女はソファの背もたれに寄り掛かって、クッキーを1つ口に入れた。するとその欠片が短いスカートの上にポロポロと零れ落ちた。
本当はそれを手で払ってあげたいけれど、僕にはどうしてもそうする事ができなかった。
僕がもっと小さい頃は、ミキを本当のお姉ちゃんだと思っていた。 そうじゃない事に気付いたのは、1年くらい前の事だ。
それに気付いてから、僕は滅多に彼女に触れられなくなってしまった。 手をつなぐ事も、抱きしめてもらう事も、何故だか恥ずかしくて急にできなくなってしまったんだ。

 ミキと翼は僕がここへ来る前から一緒に暮らしていた。それがどうしてなのかは、僕にはよく分からなかった。
ちゃんとその訳を聞いてみたいけれど、なんとなく聞いてはいけないような気がしていた。
でも、そんな事はどうだっていいんだ。 どんな理由があろうとも、2人がそばにいてくれる事がすごく心強かったから。
「もうすぐ夏休みだね。どこか行きたい所はある?」
ミキは僕の頭をそっと撫で、穏やかな口調でそう言った。
頭の上に感じる細い指の気配にドキドキして、僕は結局何も答えられなかった。


 「また出張へ行くの?」
翼はその日、午後9時を過ぎた頃に仕事を終えて家へ帰ってきた。 彼はまた遠くへ出かけるらしく、帰ってくるなり寝室にこもって明日の荷造りを始めていた。
「急な仕事が入ったんだ。今回は2〜3日で帰ってこられると思う」
彼はそう言ってベッドの上に5枚のシャツを投げ出した。2〜3日で帰ると言うわりには、持って行く洋服の数が随分多いような気がした。
その時ドアの向こうからしょっぱい匂いが漂ってきた。それはミキが翼のために夕食の準備を始めたからだった。
「腹減ったな」
翼は独り言をつぶやきながらクローゼットの奥を覗き込んだ。
彼はいつも帰りが遅くて、僕と一緒にいる時間は少なかった。
茶のジャケットを着た背中に抱きつきたいけれど、僕はその思いをぐっと堪えてドアの横に立っていた。
「続きはメシを食ってからにするか」
翼は身をひるがえして僕に微笑みかけた。面倒くさそうに外したネクタイは、床の上にあっさりと放り投げられた。
僕は前に一度だけこっそり彼のジャケットを羽織ってみた事がある。
当たり前だけど、そのサイズは僕には大きすぎた。2つの拳は袖の奥に消え、ジャケットの裾は両膝を覆い隠してしまった。
床の上に転がる藍色のネクタイが、僕には一瞬ヘビのように見えた。丸くなったそれを眺めていると、翼がゆっくりと近づいてきた。
「もうすぐ夏休みだな。お前、遊びに行きたい所はあるのか? どこでも好きな所へ連れて行ってやるぞ」
彼はミキと同じように僕の頭を撫で、彼女と同じ言葉を口にした。 僕はいつもこういう時に、2人の心がしっかり繋がっている事を知るのだった。
「まぁいいや。俺が帰ってくるまでに行く所を考えておけよ」
頭の上に感じる力強い指の気配が、僕をすごく安心させた。 翼は僕が答えに詰まる事を知っていて、きっとそんなふうに言葉を続けたんだ。
優しげな目をじっと見上げると、また甘えたい気持ちが心の奥から込み上げてきた。 それでも僕は、絶対に自分から行動を起こしたりはしなかった。

 彼は何も言わなくても僕をそっと抱き締めてくれる。 一緒にいる時間が少なくても、その一瞬で離れていた僕たちの距離が埋まる。
広い胸に顔を埋めて目を閉じると、彼の温もりを頬に感じた。 こんな時の翼はいつもいい匂いがして、僕はすごくほっとする。
「俺がいない間、ミキの事を頼んだぞ」
お決まりのセリフが、右の耳に小さく囁かれた。翼の息は、少しだけくすぐったかった。
それは暑い夏の夜の1ページだった。
翼は家を空ける前に、いつも必ずこの儀式を行うのだった。

次回へつづく


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