月が見ていた  第2部
 1.

 夏の朝は明るくなるのが早い。まだ午前5時だというのに、もう外は十分に明るかった。
マンションの前には最近になって小さな花壇が作られた。 そこに植えられている白い花は、朝になった事を知って大きく花びらを広げようとしていた。
空は青くて、雲の姿はほとんど見えなかった。
道路を走る車はまだ少ない。歩道を歩く人も滅多に通りかからない。 だからこそ、翼が帰ってきたら僕はきっとすぐその姿に気付くだろう。
ミキは今頃3人分の朝食を作り始めている。
フワフワのオムレツと、こんがり焼けたトーストと、トマトがいっぱい入った野菜サラダ。
早く皆で温かい朝食を食べたい。
僕は空を見上げてぼんやりとそんな事を考えていた。

 なんとなく気配を感じて左の方を向くと、遠くの方から歩いてくる人の影が見えた。
僕は何度か瞬きを繰り返してその人の姿に目のピントを合わせた。
グレーのスーツを着て颯爽と歩くその人は、絶対に翼に間違いなかった。
「朝刊が届く頃には帰ってくるから」
昨日の夜、彼はそう言って短い出張に出かけた。
翼は必ず約束を守る人だった。そして今日もちゃんと僕との約束を守ってくれた。
今僕は右手に朝刊を持っている。翼を迎えにマンションの外へ出てきた時、ちょうど新聞配達のおじさんと鉢合わせをしたからだ。
歩道を歩く彼の姿が見る見るうちに大きくなってきた。ひょろっと背の高い翼は、どんどん僕に近づいていた。

 今でもまだ信じられない。僕が翼と出会えた事は奇跡だったとしか思えない。
もしも彼にめぐり会えなかったら、僕は今頃どうしていたんだろう。
「今まで黙っていたけれど、お前にはお兄ちゃんがいるの。もしもママが死んだら、お兄ちゃんの所へ行きなさい」
5年前のある日、僕はママに突然そう言われた。あれはたしかママが死ぬ2日くらい前の事だった。
彼女はあの時入院先の病室で白いベッドに横になっていた。
ママの顔は青白くて、頬はすっかりこけていて、曇った目は虚ろだった。
彼女はあの時もう自分が死ぬ事を分かっていたに違いなかった。
外は小雨が降っていて、病室の窓ガラスは濡れていた。そして廊下はやけに静まり返っていた。
ママは僕に遺言を残した後、口からいっぱい血を吐いた。すると枕もシーツも真っ赤な血の色で染まった。
あまりにも驚いて大きく息を呑むと、血の匂いが僕の鼻を刺激した。


 「リク!」
僕たちの距離が10メートルに縮まった時、翼がそう言って僕に大きく手を振った。 僕が小さく手を振り返すと、彼は白い歯を見せてにっこり微笑んだ。
弱く温かな風が吹いて、彼の長い髪が小さく揺れていた。
翼の髪は柔らかくてサラサラだ。僕はその事をよく知っていた。
彼は大きく振った手を胸元へ持っていった。それは首を締め付ける紺色のネクタイを緩めるために違いなかった。
僕たちの距離がどんどん縮まって、翼の足音が耳に入るとすごくほっとした。 彼が目の前にやってくると、僕は嬉しくてたまらなくなった。
「迎えにきてくれたのか? お前、早起きだな」
ネクタイを緩めた後、翼の手が今度は僕の頭を撫でた。 僕はすごくチビだから、こんな時はいつも彼の顔を見上げていた。
「今日は朝から暑いな。少し歩いただけで汗をかいたぞ」
翼の手が僕の頭を離れてグレーのジャケットの襟を掴んだ。
彼は本当に暑かったらしく、襟をパタパタさせてわずかな風を首筋に浴びせようとしていた。
その時黄色のスポーツカーが道路を猛スピードで走り抜けていった。花壇の白い花は、ほとんど満開になっていた。
ジャケットの襟を掴む翼の手が次にどこへいくのか。僕はちゃんとその答えを知っていた。
「腹減った。早く帰ってメシ食おうぜ」
思った通りだった。
彼の大きな手はジャケットの襟を離れ、僕を軽々と抱き上げた。
すると視界が突然変わった。
花壇の花はずっとずっと低い所に見えた。そして青い空はほんの少しだけ自分に近づいたような気がした。
翼の肩に手を回した時、彼の優しい目が真っ直ぐ前に見えた。彼にしっかり抱きつくと、僕たちの頬が軽くぶつかり合った。
その瞬間に小さく息を吸うと、微かな血の匂いが僕の鼻を刺激した。

   TOP  NOVELS  LONG STORIES  COVER  BACK  NEXT