自殺志願
 9.

 俺はそっとベッドの脇に置いてあるタッチライトに手を伸ばした。
淡い光が部屋全体に注がれる。コンビニの光と違って薄いわずかな光だから、まぶしく感じる事はない。
その光はまるで俺の命の灯火のようだった。

 しばらく待ってみたが弟が起きる様子はない。
俺は弟が来てからずっと休んでいた手紙を書きたい気分だった。
ゆっくりと体をずらしてベッドの下へと手を伸ばす。
そしてそこにあるはずのフロッピーの入った靴の箱を手探りで見つけようとした。
しかし、なかなか見つからない。手に触れる物が何もない。
おかしいな……
俺は今度は床に這いつくばり、ベッドの下を覗き込んだ。
暗くて何も見えない。灰皿の横にあったライターを手に取り、火をつけてベッドの下を照らしてみる。
ところがベッドの下には何もなかった。靴の箱も、それ以外の物も、何一つ見当たらなかった。
「何してるの?」
突然背後から弟に声をかけられ、驚いた俺は手に持っていたライターを落っことしてしまった。
静かな部屋にライターの床に落ちる音が大きく響いた。
振り返ると、弟はふとんに入ったまま上半身を起こし、俺をじっと見つめていた。
動悸が激しい。まるでドロボウになった気分だ。
万引きした時、店主に見つかって腕をつかまれた瞬間の気持ちによく似ている。
薄明かりの中で音もなく床に這いつくばっている俺は弟の目にはひどく奇妙に映った事だろう。

 「お兄ちゃん、どうしたの?」
何故だか弟の声が震えていた。
俺はその場をうまく取り繕う事ができなかった。
「ひ、弘行……」
俺の声も震えていた。体中から汗が吹き出してくるのが分かる。
弟は黙って俺の次の言葉を待っているようだった。
俺は弟に気づかれないように2度深呼吸し、それから震えを押さえてできる限り穏やかな口調を心がけた。
「弘行、ベッドの下に靴の箱があったはずなんだけど、お前知らないか?」
俺はわざと電気をつけなかった。自分の顔が引きつっている事を悟ったからだ。
弟はしばらく間を置いた。
考えているというよりは、やはり声の震えを止めようとしているようなしぐさだった。
「靴の箱は、この前掃除した時に全部捨てちゃったよ」
弟の声はもう震えていなかった。だけど、それは蚊の鳴くような声だった。

 俺は思ってもみなかった展開にパニック状態になり、気づくと弟を怒鳴りつけていた。
「ここにあったやつも捨てたのか!」
「うん……」
「どうして勝手にそんな事するんだよ!」
「だって……」
「大事な物が入ってたんだぞ」
俺は呼吸が苦しくなり、今度は弟にも分かるように大きく深呼吸した。
血圧が上がって頭と顔が熱い。
床に座り込み、頭を抱えた。体の力が抜け、頭の中が真っ白になった。

 しばらくすると音のない世界に弟のすすり泣きが響き渡った。
その時俺はおかしな事を考えていた。
弟は大人になった。もう少し小さい時はもっと派手に声を上げて泣きじゃくったものだった。
それは自分の希望が叶えられるまでいつまでも続いた。
俺が折れるまで、時には母さんが折れるまで、弟はいつも涙を武器にした。
考えてみればもうずっと弟の涙を見ていなかったような気がする。
それはきっと俺が弟と距離を置いていたからだ。
その時の弟はジェットコースターが怖くて泣きじゃくる男の子ではなく、自分が泣いている事を気づかれまいとそっと涙を拭った女の子のようだった。
必死に涙を止めようとしながらそれがうまくいかずに泣き続ける弟を見ているのは俺にとって耐えがたい苦痛だった。

 俺は自分の気持ちの変化に気づいていた。
なんだかスッキリした。胸のつかえが取れた。
弟があのフロッピーを捨ててくれてほっとした。
自分の心の闇を全部取り除いてもらった気分だ。
そして同時に自分を悔やんだ。
弟に悪気がなかった事くらい考えれば分かるのに、どうしてあんな心ない言葉を口にしてしまったんだろう。
本当は怒るどころか感謝したいくらいなのに、素直にありがとうと言う事もできない。
子供の頃から弟を泣かせるたびにいつも同じ反省を繰り返してきた。
弟はちゃんと成長しているのに、俺はまるで進歩がない。

 本当は自分でも分かっていたはずだ。
手紙を書くのは俺の自己満足にすぎない。
もしも、万が一母さんや弘行が俺より先に死んでしまったら?
そうしたらあんな手紙なんか、なんの意味もなくなってしまう。
後悔しないためには、その場その場でちゃんと素直な思いを相手に伝えるべきなんだ。
たとえそれで喧嘩になったとしても、絶対にそうするべきなんだ。
パソコンの画面に向かっていくら"ありがとう"や"ごめんね"を綴ってみても、相手に伝わらなければ意味がない。

 「泣くなよ、弘行」
いつもこれだ。弟をなだめる言葉が見つからない。
それは今まで人とちゃんと向き合ってこなかったからだ。
俺はもう冷静さを取り戻していた。頭と顔の火照りもすでに消え去っている。
冷静になるとますます後悔の念が自分を苦しめた。
弟は再び声を震わせ、自分の思いを訴えた。
「俺、お兄ちゃんが喜んでくれると思って片付けたんだよ」
分かった。もう分かったよ弘行。
「急に家出して来て、迷惑かけてると思ったから……」
迷惑だなんて思ってない。この3週間はとても楽しかったよ。
だから、だから楽しかった日の事を手紙に書き残しておきたいと思ったんだよ。

 電気をつけなくて良かった。
明るい光の中で弟が泣くのを見たくはない。
「弘行ごめん。お兄ちゃんが悪かったよ」
「そんなに大事な物だったの?」
「ん?」
「箱の中には、そんなに大事な物が入ってたの?」
大事な物。
俺の大事な物ってなんだろう。
それはきっと、あんな小さな箱に入り切るような物ではないはずだ。
「俺に弁償できる物?」
「もう忘れた。でもきっと、それほど大事な物なんか入ってなかったような気がする」
弟はこぼれ落ちる涙を拭おうともせずに俺を見つめていた。
右手はふとんの上でぎゅっと握られていた。

 昔を思い出す。
俺はきつく握られた弟の人形のように小さな指に触れ、それを1本ずつ開いていくのが好きだった。
弟が生まれた時はすごく嬉しかった。
兄弟喧嘩をするのが夢だった。
だけどいつでも勝ちは弟に譲ってやろうと決めていた。その気持ちは今も変わっていない。
ここで意地を張ってもう後悔したくはない。
俺は弟に右手を差し出した。
「弘行、もう泣くなよ。俺が悪かった。仲直りしよう」
仲直りする時は右手で握手をするのが俺たちの儀式だった。
弟はしばらく頑なに拳を握り締めていたけど、やがて弱々しい右手を俺に差し出してくれた。
ブンブンと右手を2度振って手を離すと、弟はその手で初めて涙を拭った。

 タッチライトをつけたままベッドへ寝転がる。
自分が真っ暗闇に耐えられないような気がしたからだ。
心の中がからっぽだ。
ずっと前から準備していたものがすべて消えてなくなってしまった。
今までは死と向き合う事で自分の犯した罪が軽くなるような気がしていた。
今俺は天国へのパスポートを失ってしまった。

 弟に言われてドキッとした。あのフロッピーは俺にとって特別大事な物なんかじゃない。
俺はこれまで本気で死にたいと思った事なんか一度もなかったような気がしてきた。
特にこの3週間は生きている事が楽しいとさえ思っていた。
だけど弟を家へ帰すという事を意識した瞬間、また罪の意識が蘇えってきたんだ。
この3週間、弘行は俺の罪を忘れさせてくれた。
別に何かものすごく特別な事をしてもらったというわけではない。
ただ帰った時に迎えてくれる人がいて、一緒に食事をする人がいて、話し相手がいて。
ただそれだけの事だ。
2人で遠出をしたのは一度だけだったし、ただ毎日平凡な暮らしを送ってきただけだった。
俺はそんな平凡な幸せにも飢えていたのかもしれない。
でも、もうすぐまた1人になる。
また自分の罪と向き合っていく事になる。

 弟も鼻をかんだ後、黙ってふとんに潜り込んだ。それから両手を伸ばして大きく欠伸をした。
俺も欠伸が出てきた。でも、なんとなく気分がいい。体が心地いい疲労感に包まれている。
今日1日クタクタになるまで生きたせいだろうか。これはもうずっと忘れていた感覚だ。
今ならすぐに眠れそうだ。俺は薄明かりの中でゆっくりと目を閉じた。

 「お兄ちゃん、もう寝た?」
まただ。俺は薄れゆく意識の中でその声を聞いた。
「いや、起きてるよ」
少し間が空いた。弟はもう眠ってしまったんだろうか。
「俺たち本当に兄弟なのかな?」
弟は突然独り言のようにそうつぶやいた。
俺も真似して独り言のように返事をする。
「何言ってるんだ……」
「だって、お兄ちゃんは背が高いのに、俺はチビだしさ」
「母さんが浮気したとでも思ってるのか?」
「それはないよ。あんなおっかない女と付き合う勇気のあるヤツなんかいないさ」
よかった。弟はだんだんいつもの調子が出てきたようだ。
「お前、言いたい放題だな」
「本当にそう思うからさ」
「心配するな。俺も中学の頃はチビだったよ」
「ウソだ」
「本当だよ。ウソだと思うなら母さんに聞いてみろ」
「本当にそうなの?」
「ああ。お前もそのうちでかくなる。心配するな」
「絶対? 誓って言える?」
「ああ」
「じゃあ……じゃあさ、俺の背が伸びてお兄ちゃんに追いついたら黒いブルゾンちょうだい」
「何?」
「お兄ちゃんの黒いブルゾン。あれ、前から欲しかったんだ」

 弟の言っているブルゾンの事はすぐに分かった。去年の秋に3回払いで買った シンプルな皮のブルゾンだ。
そうか。あれがあった。あれは俺の持ち物の中ではかなり高価な部類に入る。
俺はちょっと考えた。でも、結局は折れた。
「分かった、お前にやるよ。今すぐ持っていけ」
「今もらってもブカブカで着られないよ。背が伸びたらちょうだい」
「そうか。じゃあ、その時がきたら譲ってやる」
「本当? じゃあ、ちゃんと約束して!」
弟はいきなりふとんを蹴って起き上がり、少し興奮気味に右手を差し出した。
なんなんだ。こいつはいつもこうだ。
さっきまで泣いてたと思ったら急に元気になりやがって。

 弟は俺を見下ろして右手を差し出している。
「早く! ちゃんと約束して」
昔からこうだった。
約束をする時は右手で握手をするのが俺たちの儀式だった。
俺はさっさと眠るために弟の右手を引き寄せ、しっかりと握った。思い切り力を入れて握ってやった。
弟の弱々しい手は思い切り握ると骨が折れそうだった。
「痛い! 痛いよ! お兄ちゃん」
俺はいくら弟が手を振りほどこうとしても決して離しはしなかった。
弟は歯を食いしばって手を引っ張り、必死に自分の右手を取り戻そうとしていたけど、チビで痩せっぽちで力がないためになかなか思うようにはいかなかった。

 そろそろ許してやるか、と思って手を離すと弟は勢い余って床にしりもちをついた。
そして右手首を振りながら苦痛な顔をしてそのまま座り込んでいる。
でも、まだ俺を睨みつける元気は残っているようだ。
「あのブルゾンは高かったんだぞ。このくらい当然だろ?」
その言葉に弟はふてくされて再びふとんに潜り込んだ。
俺はその様子を見届けてから枕に突っ伏してゆっくりと目を閉じた。

 なんか、乗せられた気がするなぁ。
こいつはちゃんと知ってるんだ。
泣かされた後はなんでも言う事を聞いてもらえるって事。
そして、俺の罪悪感を自分の武器にできるって事。
それにしても、弟はいつからこんな駆け引きができるようになったんだろう。

 「お兄ちゃん、もう寝た?」
またか。俺は薄れゆく意識の中でその声を聞いた。
激しい睡魔が襲いかかってきてもう目を開けている事は困難だった。
「いや、起きてるよ」
「俺、明日家に帰るよ」
「そうか」
「お兄ちゃんもたまには帰って来て」
「うん。考えとく」
「ねぇ、また泊まりに来てもいい?」
「他に行く所がないんだろ?」
「うん」
「また掃除しに来てくれ。頼むよ」
「1回1000円だよ」
「金取るのかよ……」
俺はその後すぐに眠ってしまったから、弟の次の言葉は記憶がない。

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