3.
「お兄ちゃん!」
その声でハッと我に返った。
渾身の力を込めてブレーキを踏む。
車は前後に大きく揺れ、なんとか交差点の手前ギリギリで止まってくれた。
心臓がドキドキしていた。
俺はいったい何を考えているんだ。もう少しで弟を道連れにする所だった。
弟は不安そうな目で俺を見つめていた。当然だ。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ……ごめん、怖かったろ?」
「ううん」
「ごめん。ちょっと考え事してたんだ」
後続車がけたたましくクラクションを鳴らしている。何故だろう。
「青だよ、お兄ちゃん」
本当だ。信号はもう青に変わっていた。
今度はゆっくりと慎重にアクセルを踏み込む。
その時、背中をひとすじの汗が流れ落ちていった。
大粒の雨の中、車を走らせる。
ワイパーの単調な動きが眠気を誘う。
とにかく今は弟と2人、無事に家までたどり着きたい。
俺はしっかりと前を見つめて車の運転に集中した。
実家の20メートル手前で車を止める。
20メートル。これが今の俺と母さんの距離だ。
「着いたぞ、弘行」
助手席の弟は浮かない顔をしていた。
さっきとは違って今度は本当に沈んでいるように見えた。
「お兄ちゃん、家へ寄って行かないの?」
弟は俺の目を見ずにそう言った。きっと俺の答えは分かっていたはずだった。
俺も真似して正面を見据えたまま返事をする。
「1人で平気だろ?」
その時、急にある思いが頭をよぎって胸が苦しくなった。
弟と話すのもこれが最後になるかもしれない。
何か気の利いた事を言いたい。なのに、思いと裏腹に不器用な言葉ばかりが口をついて出る。
弟は精一杯自分の思いを伝えようとこんなにも必死なのに。
「お兄ちゃんがいないとつまんないんだ。ゲームの対戦相手もいないしさ」
「ゲームのために寄って行けっていうのか?」
「そうじゃないけど……」
「だったらなんだ?」
「お兄ちゃん、もう家へ帰って来ないつもりなの?」
「そう言ったろ?」
自分が恥ずかしかった。8つも年下の弟をこんなふうにやり込めるなんて。
本当は最後に言いたい事が山ほどあるのに。
「俺、帰る」
弟は突然そう言って車を降りると雨の中20メートルを全速力で走りぬけ、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
1人取り残された俺はしばらく車を出す気にもなれず、ただフロントガラスに流れ落ちていく雨粒を見つめていた。
気が滅入る。
俺は実家の見えない場所へ行きたくて車を発進させた。
しばらく走って行くとやがて幻想的な光が見えてきた。
俺は雨の夜に車の中から見る街の明かりが好きだった。繁華街へ近づけば近づくほどネオンが多くなってくる。
雨のフィルターの向こうに輝くネオンはとても綺麗だった。
いつまでも見ていたいと思うほど綺麗だった。
1人暮らしのアパートへ着いた時は疲れ切っていて、もう何もする気が起きなかった。
当然死ぬ気にもなれない。
雨のせいか部屋中が湿気っている。ますます気が滅入る。
床の上には読み終えた雑誌や食べ終わったお菓子の箱が散らばっていて足の踏み場もない。
灰皿にはたばこの吸殻が山のように積もっている。
2つのゴミ袋には何日も前のゴミが溢れ出している。
俺は少しだけ窓を開けようとしてカーテンに触れた。カーテンは湿気を吸って重くなっていた。
ほんの少しだけ窓を開け、シャツの胸ポケットからたばこを取り出し、一服する。
だけど灰皿は山盛りの吸殻で埋め尽くされている。
俺はしかたなくゴミ袋の中をあさり、ビールの空き缶を取り出して灰皿代わりにした。
火のついたたばこを右手に持ったままベッドへ横たわる。
ふとんも枕も湿気っている。気分は最悪だ。
最後に見た弟の泣きそうな顔を思い出す。
かわいそうな事をした。
今日は死ぬべき日ではない。俺はそう思った。
最後に生きた1日がこんな最悪な日になるのはどうしても嫌だ。
それに、最後の晩餐がラーメンというのもちょっと淋しすぎる。
まぁいいさ。死ぬのは今日じゃなくてもいい。
俺はほんの少しだけ頭を動かし、わずかに開けた窓の隙間から夜の空を見上げた。
明日も雨だろうか。
眠い。できればこのまま永遠に眠ってしまいたい。