4.
俺は今日も薄暗いロッカーで制服に着替えようとしている。
外は雨。
昨夜からずっと降り続いている雨。
まいるな。雨の日の宅配ピザ屋は大忙しなんだ。
雨の中外へ出るのは誰しもおっくうなものらしい。
俺もそうだからよく分かる。
あと1日。あと1日だけがんばろう。
「おはようございます」
とりあえず元気を取り繕って皆に挨拶をする。
皆も元気な挨拶を返してくれるかと思いきや、どこからかこんな声が飛んできた。
「高梨くん配達行って」
やっぱりだ。いきなりかよ。予想はしてたけど、どうやら配達係の人手が足りないらしい。
それにしてもお前ら、人に会ったら元気に挨拶しましょう、って親に教わらなかったのか!
「行って来まーす」
俺もダサいな。心の声と口に出す言葉がまるで違うじゃないか。
雨の中、車をぶっ飛ばす。
うちの店は迅速なのが売りだ。
雨の日は大通りを走るものじゃない。外を歩きたくない連中が皆タクシーに乗るせいで朝から渋滞しているんだ。
裏道なら俺に任せろ。公園通りを真っ直ぐ走りぬけ、駄菓子屋の手前で右折。
その後3本目の道を左折。もう見えてきた。角から5件目の赤い屋根。
あそこがお客様のお家ってわけさ。
雨の中車を降りて白いドアの前に立ち、インターホンを押す。
中から出てきたのは女子高の制服を着たロングヘアーの美人だった。
綺麗な黒髪だ。ちょっと切れ長な目が大人の女を感じさせる。
彼女は子供のような笑顔を俺に向けた。
この大人になり切っていないアンバランスな感じがとても魅力的だと思った。
「すごい! 随分早いのね」
当たり前さ。うちの店は迅速なのが売りだ。お褒めのお言葉ありがとう。
しかもお出迎えがこんな美人とは、今日はなんてツイてるんだろう。
ピザの入った箱を手渡すと彼女はピンク色の財布から千円札を2枚取り出して俺に渡した。
俺は下を向いて集金袋の中から釣銭をかき集めようとしていた。
「お兄さん、名前は?」
「高梨です」
「ふぅん。分かった。ありがとう」
俺は彼女に釣銭を手渡し、帰ろうとした。
だけどその時ふとある事が気になって彼女の姿を上から下までじっと眺めた。
彼女は俺の視線に気づき、再び子供のような笑顔を見せた。
「なぁに? どうしたの?」
「いや……ヤボな事を聞くようだけど、今日学校は?」
彼女はそんな事か、といった様子でこう答えた。
「今日から夏休み」
「ああ、そうなんだ」
「私はバカだから補習授業に行って来たの。で、お腹をすかせて帰って来て、これからピザを食べようってわけ。どう? 疑問は解決した?」
「うん。ありがとう」
「お兄さん、おもしろいね。また来て」
「ピザを注文してくれたらね」
その日は結局1日中配達に回ってた。
忙しいのは雨のせいだけでなく夏休みに入ったという事も要因だったに違いない。
6時上がりのはずが夕方から更に忙しくなり、結局9時まで働き詰めだった。
ロッカールームで汗まみれになったポロシャツを脱ぎ捨てる。
"高梨"と書かれたグレーのロッカー。
今日はここに花が飾られるかと思っていたのに、薄汚いロッカーの中に入っているのは汗まみれのポロシャツと雨に濡れたスニーカーだけだった。
疲れた。早く帰って眠りたい。
ウトウトしながらもなんとか車を走らせてアパートの前の駐車場へたどり着いた時、すでに雨はやんでいた。
ポンコツ軽自動車のエンジンを切り、外へ出る。やたらと蒸し暑くてうんざりする。
雨に濡れた階段を一段一段上り、ジーパンのポケットから部屋の鍵を取り出す。
その時、自分の部屋の前に何か黒い物体がある事に気づいた。
なんだ、あれは?
俺は足音を忍ばせてゆっくりとドアに近づいた。
そこには弟の弘行がうずくまっていた。
上から下まで真っ黒な洋服を着ていたから、黒い塊に見えたんだ。俺は胸を撫で下ろした。
「弘行、お前どうしたんだ?」
弟が黙ったままゆっくりと立ち上がった。その足元にはやたらとでかいかばんが置かれていた。
小さな俺の城に明かりが灯る。
俺は大きく膨らんだ2つのゴミ袋をキッチンの隅へ追いやり、床の上に散乱している雑誌やお菓子の箱を足で蹴りつけ、ようやく人1人座れるだけのスペースを確保した。
「弘行、座れ。散らかってるけど気にするな」
「……うん」
俺は湿気った部屋に風を入れようと窓を開けた。
弟は狭いスペースに黙って座り込んだ。
母さんはきっちりした性格で、毎日家中をピカピカに掃除するような人だった。
そういう母親の元で育つと子供は何もできなくなる。
自分で何かしようとしても要領の悪さを見かねた母親がすぐに手を出してしまうからだ。
本人はそれで自分の手際の良さに満足するのかもしれないが、そんな事ばかりが続くとこっちはいつまでたっても要領がつかめないままになってしまう。
俺はベッドへ腰掛け、たばこに火をつけた。
灰皿はもちろんビールの空き缶だった。
たばこをふかしながら弟をじっと観察する。弟の顔を見れば大体の事は想像がつく。
弟はきっとかなり前から俺を待っていた。待ちくたびれたような顔をしているからすぐに分かる。
先に電話をして来なかったのは昨夜気まずい感じで別れたせいだ。
先に電話をして冷たくあしらわれたら行き場を失ってしまう。それは避けたかったに違いない。
でかいかばんを持って来たという事は、しばらく家には帰りたくないという事だろう。
さて、何があったんだろう。そろそろ聞いてやろうか。
「弘行、どうしたんだ? 話してみろよ」
弟は俺の目を見なかった。昨夜の事で俺がどう思っているのかが心配なんだ。
こいつは俺が帰れ、というのを死ぬほど恐れている。
「警察に捕まった事、母さんにバレちゃった」
これは俺にも予想外だった。
「どうしてだ? 俺は言ってないぞ」
「一緒に捕まった田中の母さんがうちの母さんに言っちゃったんだよ」
そういうわけか。了解。
「そりゃ災難だったな」
「サイアクさ」
サイアクか。俺も最悪だよ。
「母さんに家を追い出されたのか?」
「ううん。田中がすぐに教えてくれたから、母さんが仕事から帰って来る前に家を出て来たんだ」
なるほど。了解。
俺はたばこの火をもみ消し、押入れの中からバスタオルを取り出して弟に投げてやった。
「風呂に入ってこい。外は暑かっただろ?」
弟はその時初めて俺の目を見た。だが、まだ安心し切ってはいない。
「その後は掃除だ。片付けないとお前の寝る場所がないからな」
それを聞いて弟はやっと安堵したように微笑んだ。
シャワーの音が聞こえてきた。
10時か。実家に電話をしなければならない。
ユウウツだ。だけど、しかたがない。
俺は念のためにテレビの音量を少し上げてから電話をかけた。
冷静に話をする自信がなかったからだ。
母さんは1回目の呼び出し音が鳴り終わる前に電話を取った。これは予想通りだ。
さっさと用件を言ってしまおう。
「母さん? 俺。弘行をしばらくこっちへ泊めるから」
すると予想通りヒステリックな声が電話の向こうから聞こえてきた。
「お兄ちゃんなの? どうしてもっと早く電話して来ないのよ!」
「ごめん。仕事で遅くなったんだ」
「弘行を出してちょうだい」
「もう寝てる。切るよ」
「あんた、あの子が補導された事知ってたんでしょう?」
「だったら何?」
「どうして言ってくれなかったの?」
「自分で考えろよ」
「何よ! その言い方」
「ああいう時は普通親が迎えに行くもんだろ? 弘行がどうして俺を寄越したのか考えてみろって言ってるんだよ」
「何が言いたいの?」
「もういい。切るぞ!」
相変わらずだ。俺が家を出た時もこうだった。
母さんとはいつだってちゃんとした話し合いになんかならない。
それにしても、俺のすぐカッとなる性格は母さん譲りだな。
最悪だ。
母さんにひどい言い方をしてしまった。
どうしてもっとうまく言えないんだろう。
母さんが今日急に死んでしまったらどうしよう。
最後に母さんと交わした会話がこんなものになってしまったら、俺はきっと壊れてしまう。
そんな事になったら二度も同じ後悔をする事になる。
あの日から俺はいつもいつもこんな事ばかり考えて生きてきたような気がする。
その日は俺も弟も疲れ切っていた。
掃除は明日にして今日はもう寝よう。そう言った時、弟は黙ってうなづいた。
とにかく床面積をなんとか広げてふとんを敷く。
弟がふとんに入ると俺も電気を消してすぐにベッドへ倒れ込んだ。
湿気った枕に顔をうずめて目を閉じる。すぐに意識が遠くなる。
「お兄ちゃん、もう寝た?」
俺は薄れゆく意識の中でその声を聞いた。
目を開けてみる。目を開けても閉じても真っ暗闇な事に変わりはなかった。
「いや、起きてるよ」
寝返りを打ってそう答える。もう自分の目が開いているのか閉じているのか分からなくなってしまった。
「母さんなんて言ってた?」
「お前聞いてたのか?」
「聞こえるよ。お兄ちゃんの声大きいんだもん」
「別に何も言ってなかったよ。ただお前をしばらくこっちへ泊めるからって言っておいただけだ」
「ここにいてもいいの?」
「他に行く所があるのか?」
「ないよ。お兄ちゃんだけが頼りだよ」
その一言は俺の心に重くのしかかった。
俺がいなくなってもこいつはちゃんとやっていけるだろうか。
それからしばらく俺たちは暗闇の中で会話を交わした。
お互い顔が見えないからこそ話しやすかったのかもしれない。
「弘行、お前こづかい幾らもらってる?」
「1000円」
「俺の時から値上がりナシか」
「物価は上がってるのに、全然足りないよ」
「だからパチンコで増やそうと思ったのか?」
「そう。でも、うまくいかなかった」
「お前の気持ち分かるよ」
「そう言ってくれると思ってた」
「俺が中学1年の時はこづかい500円だったんだぞ。万引きで捕まってから1000円に値上がりしたんだ。感謝しろよ」
「お兄ちゃん、万引きで捕まったの?」
「中学の頃流行ってたおもちゃがあってさ、1500円だったんだ。それを持ってないと皆の仲間に入れてもらえなくてな」
「その気持ち分かるよ」
「そう言ってくれると思ってたよ」
弟が小さく笑うのが分かった。
俺はその後すぐに眠ってしまったから、弟の次の言葉は記憶がない。