自殺志願
 5.

 俺にはもう1人弟がいた。3つ年下の義明だ。
義明とは、とても仲が良かったとは言えない。いつも喧嘩ばかりしていた。
最後の喧嘩は、俺が8歳で、弟が5歳の時だった。
喧嘩を売ったのは俺の方だ。
弟が俺のアイスクリームを勝手に食べた事に腹を立てたのが原因だった。
8歳の俺は自分の感情で生きていた。
母さんは俺と弟にちゃんと1つずつアイスクリームを買っておいてくれたのに、それを食べられてしまったんだから、自分が怒るのは正しい事だと信じて疑わなかった。

 弟はその時、テレビのすぐ前に座って真剣にアニメを見ていた。
5月の少し涼しい朝の事だった。
弟は白地に紺色の縦じまのシャツを着て、カーキ色のズボンをはいていた。よそ行きの格好だ。
俺もよそ行きの洋服に着替えていた。
その日は日曜日で、父さんは床屋へ出かけていた。
俺たちは父さんが帰って来たら3人で出かける事になっていたんだ。
いったいどこへ出かけるはずだったのか。それは全く記憶がない。

 母さんは最初から留守番の予定だった。その時母さんのお腹には弘行がいて、臨月が近かったから出かけるのを控えたんだと思う。

 俺は怒りを露にし、ドンドンとわざとらしく大きな音をたててフローリングの床を歩き、後ろから近づいて思い切り弟を突き飛ばした。
弟はテレビを乗せてある台に顔をぶつけて床に倒れ、大きな声を上げて泣き出した。
それでも俺は容赦せず、泣いている弟を何度も何度もたたいた。
激しい泣き声に驚いた母さんがやってきて弟を抱きしめるまで、俺は弟をたたき続けた。
俺はアイスクリームを返せ、と弟に言った。
母さんはまた買ってあげるから許してやりなさい、と俺に言った。
弟はこうなると手がつけられない。
母さんは大きなお腹をかばいながらもずっと弟を抱きしめていた。
母さんが着ていたブルーのマタニティドレスは弟の涙でグシャグシャになり、弟が着ていたよそ行きのシャツも同じようにグシャグシャになっていた。

 そこへ真っ黒な髪を綺麗に整えた父さんが帰って来た。
弟は母さんの手を離れ、今度は父さんにしがみ付いて泣き始めた。
父さんはまるで状況が分からず、困った顔をしながらも弟を抱き上げ、必死で慰めようとしていた。
もうすぐ泣き止む所だったのに。俺はそう思って口を尖らせ、タイミング悪く帰って来た父さんを睨みつけ、泣きわめいている弟に対してますます腹を立てていた。
父さんの大きな2つの目は弟だけに向けられていた。
俺は床に腰掛けたまま背の高い父さんに抱かれる弟を冷めた目で見つめた。
父さんの着ている白いワイシャツはすぐに弟の涙でグシャグシャになった。
それでも父さんは全然そんな事は気にせずにただ弟をなだめる事に集中していた。
俺は絶対に悪くない。悪いのは弟の方だ。
なのにどうして弟は父さんの腕に抱かれていて、俺は冷たいフローリングの床に座らされているんだろう。
俺がお兄ちゃんだから? いつもお兄ちゃんは我慢しなくちゃいけないの?
弟は何をしても許されるの?

 俺はその光景に耐えられず、自分の部屋へ行ってテレビゲームを始めた。
その時、遠くの方で弟の泣き声が途絶えた。
弟は俺に仕返しをするつもりでいつもそうやって大袈裟に泣き、俺がいなくなるとそのパフォーマンスをやめてすぐに自分のした事なんか忘れてしまうんだ。

 やがて母さんが弟を連れて俺の部屋へやってきた。
母さんは皆出かける用意ができたから、お前も父さんと一緒に行きなさい、と言った。
さっきまで着ていたブルーのマタニティドレスはもう綺麗な黄色のドレスに変わっていた。
弟が着ていた縦じまのシャツもグレーのトレーナーに変わっていた。
おもしろくない。悪いのは弟の方なのに、誰も弟を責めたりしない。弟は弟で、絶対に俺に謝ろうとしない。
しかも弟はもう何もなかったかのようにニコニコしていた。そしてゲームのコントローラーを持つ俺の手を小さな手で掴み、一緒に行こう、と言う。
俺はその手を振りほどき、弟と母さんを無視してただゲームに夢中になっているフリをした。
それでもしばらく2人は俺を説得しようと試みた。でも、俺は意地を張って2人を無視し続けた。
俺の頭の中は怒りでいっぱいで、周りの物が目に入らないほど熱くなっていた。
あれが最後だって分かっていたらもっと違う態度をとったはずなのに、俺はつまらない意地を張ってただテレビに写るゲームの画面を見る事しかしなかった。
その時の母さんの顔も、弟の顔も、全然記憶にないのはそのせいだ。

 やがて2人は俺を連れ出す事を諦め、部屋を出て行った。
俺はドアから出て行く弟にチラッと目をやった。
その時弟はとても悲しそうな目をしていた。少し胸が痛かった。
テレビの画面に弟の目がチラついてちっとも集中する事ができない。
俺は癇癪を起こし、コントローラーを床にたたき付けた。
それでもまだ足りずに今度は学習机の上に置いてあった鉛筆立てを手にとって思い切り壁に投げつけた。
中に入っていた鉛筆やマジックは見事に飛び散り、俺の足元やベッドの下にまでコロコロと音をたてて転がっていった。
プラスティック制の鉛筆立ては真っ二つに割れて床に落ちていた。

 父さんと義明との想い出はそこで途絶えた。
その後父さんの車で出かけた2人は1時間後にトラックと正面衝突し、あっけなく死んでしまったからだ。

 母さんがどれほどショックを受けていたかは計り知れない。
俺自身もものすごいショックを受けていて、とても母さんを気遣う余裕はなかった。
ちゃんと仲直りすればよかった。弟にちゃんと許してやる、と言えばよかった。
俺はずっとその事ばかりを考えていた。
そしてその思いは今もずっと続いている。

 人はいつ死ぬか分からない。俺は8歳の時にその事を知った。
それまでの8年間の人生の中で、死について考える事は皆無だった。
父さんも母さんも自分も弟も、ずっと生き続けるものだと思っていた。
喧嘩したって明日仲直りすればいいと思っていた。
俺が義明に最後に言った言葉。それは"アイスクリームを返せ"だった。
父さんに言った言葉。それは"義明が一緒なら俺は行かない"だった。
そんなのってない。あんまりだ。
俺は2人が帰って来たら、何もなかったかのように笑顔で接するつもりだった。
だけどそれはもう二度と叶わない。
でもその事をはっきりと自覚したのはそれからだいぶ後だった。
8歳の俺には人が死ぬという事がどういう事なのかちゃんと分かっていなかったんだ。

 もう厳しく叱りつけてくれる父さんはいない。
本気で喧嘩の相手をしてくれる義明もいない。
日に日にその事が体に染み渡っていった。
母さんと2人の暮らしはあまりに静かで、あまりに淋しすぎた。

 母さんと2人切りになってからも、母さんは俺を"お兄ちゃん"と呼び続けていた。
俺はもう"お兄ちゃん"ではない。
そう呼ばれるたびにその思いが頭をよぎり、何度も口に出しそうになった。
俺は1人っ子だった頃、兄弟ができる事を強く望んでいた。
俺は自ら"お兄ちゃん"になる事を望み、"お兄ちゃん"と呼ばれる事で傷ついた。

 弘行が生まれたのは2人が死んでから1ヶ月後の事だった。
俺は再び"お兄ちゃん"になった。
弟が生まれた時は嬉しかった。それは義明の時も弘行の時も同じだった。
弘行は父さんの顔を知らない。もちろん、義明の顔も知らない。
弘行から父さんともう1人の兄貴を奪ったのは自分だ。俺はそう思っていた。
自分が生きている事さえ罪だと感じていた。
あの時本当は俺も一緒に行くはずだった。
それなのに、つまらない意地を貫き通した俺だけが生き残ったなんて……許しがたい罪だった。
俺を助けてくれたのは弟の義明だった。
皮肉にも、弟が俺のアイスクリームを勝手に食べた事で俺は救われたんだ。
弟が犯した小さな罪の代償が死だなんて、俺にはとても耐えられない。
しかも弟は俺を助ける事でちゃんと俺に借りを返して旅立っていった。
残された俺に借りを返す手段は残されていない。それは弟の俺に対する仕返しなのかもしれない。

 弘行が生まれた時、心に誓った事がある。
兄弟喧嘩をした時いつでも勝ちは弟に譲ってやろう、という事だ。
人はいつ死ぬか分からない。俺はその事を痛感していた。
だから、後悔のないように皆に優しくしなくちゃいけない。そう思っていたんだ。
だけどそれはちっとも守られてはいない。
その後、父さんの役割を請け負った母さんは俺に対して急に厳しくなった。
俺はそんな母さんにずっと反抗的な態度で接してきた。
でも、弟に対しては優しい兄貴でいる事をできる限り心がけた。
そりゃあ喧嘩はしょっちゅうしたけど、今までずっと勝ちは弘行に譲ってきた。

 弘行は義明とそっくりだった。
俺はいつも2人を重ねて見ていた。弘行が義明の年を追い越した時は、なんだか変な気分だった。

 俺は父さんと義明が死んだ日から、自分がいつ死んでもいいように母さんに手紙を書くようになった。
もしも母さんに最後に言った言葉があまりに辛辣なものになったとしても、やがて俺の手紙を見つけた母さんはその手紙によって俺が本当は母さんに感謝していた事や反抗的な態度を取る自分に苛立ちを覚えていた事を理解してくれるだろうと思ったからだ。
そして、弘行が生まれてからは手紙が2通に増えた。
弘行がまだ話せないうちから弟に宛てて手紙を書いた。
もしも弟が赤ん坊のうちに俺が死んでしまっても、やがて字が読めるようになった弟は俺がどんな思いで自分を見つめていたかを理解してくれるだろうと思っていた。

 だけど、もう父さんと義明に思いを打ち明ける機会は永遠に失われた。
どうしてもそれがしたいなら、自ら命を絶つしかない。俺はいつからかそう考えるようになった。
俺が弟に対して感じている罪の意識から解放されるためには他に方法がないように思われた。
俺は最初、自分がいつ死んでもいいように家族に手紙を書くようになった。
だけどそれはいつからか自分がいつ命を絶ってもいいように、と気持ちが変わっていった。
いったいいつ頃からだろう。
いつでも死ねる準備をしておくと、自分が死んでも構わないと思うようになった。
俺は死ぬのが怖いとは思っていなかった。
だって、人はいつか必ず死ぬ。死は誰にでも必ず訪れるものなんだ。
父さんや義明にだって死が訪れた。
大事な人に宛てた遺言を書き終えて眠りに就く瞬間、俺は本気で死にたくなる。
死ぬ準備が整った後。その後は死が待っているだけなんだ。

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