6.
翌朝9時。弟はまだ起き上がろうとはしない。
俺は仕事へ行く用意で忙しかった。外は晴れている。今日も暑くなりそうだ。
寝ている弟の足を蹴飛ばして一言声をかける。
「弘行、俺仕事に行くからな。金を置いていくから適当にメシ食えよ。合鍵はテレビの上だ。出かける時は必ず鍵をかけてから行け。分かったな?」
「うん……」
弟は気のない返事をして、ふとんに潜った。
外へ出る。快晴だ。日差しが強い。すでにかなり気温が上がっている。
ポンコツ軽自動車の中はサウナ状態だった。だけど時間がない。
俺は我慢してサウナ風呂の中へ入った。すぐにエアコンのスイッチを入れる。それでもしばらくは涼しくならない。
また新しい1日が始まる。
また今日もピザ屋へ向かって車を走らせている。
俺はまだ生きていていいんだろうか。その答えは俺にも分からない。
とにかくあと1日。あと1日だけがんばってみよう。
信号待ちで車を止め、なにげなく右隣の黒い乗用車に目をやる。
運転しているのはお父さん。助手席にはお母さん。
後部座席には小学生くらいの女の子が2人乗っている。
これから家族で海水浴へ行くらしい。後部座席の女の子たちはすでに首から浮き輪をぶら下げて大はしゃぎしている。
楽しそうだな。
俺はもう周りを見ないようにした。こんな天気のいい日に仕事へ向かう自分がひどく悲しく、みじめに感じられた。
そして、ある事に気がついた。
弟も夏休みなんだ。どこかへ連れて行ってやらなくちゃいけないだろうか。
でもその前にまず部屋を掃除しないと。
失敗した。今日の朝ゴミを出してくればよかった。
ああ、次から次へとやるべき事が頭に浮かぶ。
今日も年下の山崎にコキ使われるのか。早くこんな暮らしを放棄してしまいたい。
その日のピザ屋は昨日と打って変わってあまりにヒマすぎた。
電話も鳴らないし、客も来ない。開店休業状態だ。
天気がいいと人はどこかへ遊びに行きたくなるものだ。
俺もそうだからよく分かる。
まいったな。ヒマすぎるってのも考えものだ。こういう日は時間のたつのが遅すぎる。
しかたなくモップを使ってホールの床掃除をしてみる。なんだか複雑な気分だった。
アパートへ帰ったら掃除をしなくちゃいけないのに、ここでも掃除かよ。
母さん、手際よく掃除するにはいったいどうすればいいんだ。教えてくれ。
夕方5時きっかりにタイムカードを押して店を出る。
今日は1日長かった。やっとやっと解放された気分だ。
そして1日中カンカン照りの太陽の下に置き去りにされていたポンコツ軽自動車へと乗り込む。
「暑い……」
思わずそんな言葉が口をついて出る。
俺はサウナ状態の車へ乗り込み、いつものように国道へ出た。
ところがまたいつもの渋滞だ。今日は特にイライラする。
車の中は涼しくならないし、太陽は照りつけるし、前の車のカップルはイチャイチャしてるし。
俺は弟がどうしているか心配だった。だけど、どうしようもない。
弟は携帯電話も持っていないし、俺の方から連絡するすべはない。
まぁ、またパチンコ屋へ行っているとも思えないけど。
やっと渋滞を抜けてアパートへたどり着いた時はもう7時近かった。
急いで階段を駆け上がり、ジーパンのポケットから鍵を取り出す。
部屋の鍵と車の鍵とクマのキーホルダーがぶつかり合ってカチャカチャという音がする。
その時、俺の部屋の窓からこぼれ落ちるかすかな明かりを見た。
俺は再び鍵をポケットの中へしまい、自分の部屋のインターホンを押した。
すぐに中からドアが開いて坊主頭の弟が顔を出す。
弟は白いランニングシャツに短パンという、いかにも夏らしい格好をしていた。
「お兄ちゃん、お帰り!」
「ただいま」
「ねぇねぇ見て。俺、部屋を片付けたんだよ」
俺は自分の部屋の変わり果てた姿を見て唖然とした。
ここは本当に俺の部屋か。隣と間違えたんじゃないだろうな。
俺の城は完璧に片付いていた。
ちゃんと床が全部見える。
ベッドは綺麗にメイキングされている。
たっぷり膨らんだ2つのゴミ袋もすでに処分されている。
いや、床の上に散乱していたゴミが全部なくなっているという事は、ゴミ袋は2つじゃ済まなかったという事になる。
すごい。まるで引っ越して来た時と同じ状態だ。これを弟が1人でやったというのか。
「ふとんも干したんだよ」
弟は誇らしげな顔でそう付け足した。
なんだか、すごく感動していた。
1人暮らしを始めてから4ヶ月。
この4ヶ月間は本当の孤独というものを味わったような気がしていた。
4人家族が一夜にして2人切りになった時よりもっとつらい孤独を味わったような気がしていた。
クタクタになって仕事から帰るともう何もする気が起きない。
部屋の中はどんどん汚れていったし、気持ちも荒んでいった。
実家にいた時はこんな苦労も知らずに過ごしてきた。
掃除も洗濯も食事の支度も母さんが完璧にやってくれていた。
なのに、感謝の気持ちなんかろくに伝える事もせずに生きてきた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
弟は呆然と立ち尽くす俺を見て不思議そうな顔をしていた。
この気持ちはきっと弟には分からない。
孤独を味わった俺にしか分からない。
「弘行、焼肉食いに行くか?」
「うん!」
育ち盛りの弟が笑顔でうなづいた。今日はたっぷりと好きなだけ食べさせてやりたい。
あともう少しだけがんばってみよう。
とりあえず、明日1日だけがんばってみよう。