自殺志願
 7.

 弟が夏休みの間、俺はちゃんとしっかり生きていた。
というより弟に生かされているという気がしていた。

 もう夏休みに入って3週間になる。
午前10時半。快晴。気温は朝から28度。
今日は仕事が休みで弟と遊園地へやって来た。弟がどうしても行きたいと言うからだ。
男2人で遊園地。全く、華がないな。

 「お兄ちゃん、いったいいつになったら入れるの?」
弟はうんざりした声でそう言った。
遊園地へやってきたのはいいけど、駐車場へ入るのにもう40分も待たされている。要するに一種の渋滞だ。
開園時間の10時に合わせてやってきたのにこの時間でもう車がいっぱいだなんて。
少し前方に目をやってみても、ほとんど車が動く様子はない。
弟はポンコツ軽自動車の窓から空を見上げてつぶやいた。
「観覧車があんなに近くにあるのに……」
「しかたがないさ。気長に待とうぜ」

 やっと車を駐車場へ入れて園内へ入ったのはそれから約1時間後だった。
弟は待ち切れないといった様子ですぐに駆け出し、ジェットコースターに乗ろう、と言った。
ふぅん。大人になったじゃないか。
昔は怖がりで、メリーゴーランドと観覧車くらいにしか乗れなかったくせに。
まぁ、それだけ時が流れたという事か。

 車の数に比例して園内は人が溢れていた。
夏休み中という事で家族連れが圧倒的に多い。
乗り物に乗るのも簡単にはいかない。俺たちはジェットコースターに乗る人たちの列の最後尾に並んだ。
弟は自分たちが何番目に乗れるかを必死になって数えている。
「1回に20人乗れるから、6回目か7回目くらいには乗れるかな?」
遊園地なんて久しぶりだ。
子供の頃はよく連れて来てもらった記憶があるけど、あれはもう随分前の事だ。

 俺はジェットコースターに乗る人たちをずっと観察していた。
順番に次々別な人が乗っているはずなのに、皆やる事は同じだった。
わざと両手を上げ、バンザイして乗るヤツ。
一回転する所で必ず悲鳴を上げるヤツ。
終わった後にすぐもう1回乗ろう、と言ってまた列に並ぶヤツ。
ジェットコースターの真っ白なボディは太陽が反射して光っていた。
あれに乗っている最中は太陽と同じ速さで走っているんだな。
だったらそのスピードで空まで飛んで行けたらいいのに。

 前方の方で子供の泣き声が聞こえてきた。俺たちが並んでいる5〜6人前だ。
見ると小学校1〜2年くらいの男の子がお母さんにしがみついて泣いていた。
自分の乗る順番が近づいてきて怖くなったに違いない。
彼のすぐ隣にはお姉ちゃんがいた。お姉ちゃんは彼より2つか3つくらい年上だろう。
お姉ちゃんの方は全く平気な様子で、怖がるどころかワクワクしているように見えた。

 もうすぐ乗れるという所まで来た時、男の子は更に激しく泣き出した。
お母さんとお姉ちゃんがいくらなだめても全く効果がない。
お母さんはとうとう諦めたようでお姉ちゃんだけを残し、泣きじゃくる男の子の手を引いて列を離れた。
するとさっきまでワクワクしていたはずのお姉ちゃんが急に不安げな顔になり、お母さんに向かってこう叫んだ。
「ママ、一緒に乗らないの?」
「ママは見てるから、あんた1人で乗りなさい」
彼女のお母さんはそう答えた。
ほんの数秒前まで泣いていた弟の方はお母さんの手に守られ、もうすっかり泣き止んでいる。
お姉ちゃんは唇を噛み締め、2人に背を向けた。

 それを見ていた弟は呆れた様子でこう言った。
「こんなのが怖いなんて、ガキだな」
これは聞き捨てならない。
「お前だって同じだよ」
「何が?」
「お兄ちゃんと一緒に乗るって言い張ってジェットコースターの列に並ぶけど、いつも直前になってピーピー泣き出すんだよな」
「そんな事ないよ」
「いつもそうだった。泣き出すか、トイレに行きたいって言い出すか、いつもどっちかだった」
「ウソだ」
「都合の悪い事は忘れやがって」
「今そんな事言わないで」
「いいさ。兄貴は我慢しなくちゃいけない運命なんだ。生まれた時から決まってるんだよ」
弟はうつむいて黙ってしまった。
次の瞬間、自分の発言に疑問符が浮かんだ。
俺は今誰の話をしていたんだろう。
ジェットコースターが怖くて泣いていたのは本当に弘行だっただろうか?
それともあれは……

 再び前方に目をやると、1人ぼっちになってしまったお姉ちゃんが泣いていた。
でも、弟のように派手に声を上げて泣いているのとは違う。彼女はお母さんと弟に背を向けて、2人に気づかれないようにそっと涙を拭っていた。
胸に小さなリボンのついた真っ赤なワンピース。きっと今日ここへ来るのを楽しみにして1番お気に入りの洋服を着てきたに違いない。
そんな彼女に涙は似合わない。

 俺たちの乗る順番がやってきた。真っ赤なワンピースの彼女も一緒に乗る事になったようだ。
前から順番に2人ずつ席に着く。だけど彼女は1人だ。隣に座る人は誰もいない。
俺は弟の背中を押した。
「お前、あの子と一緒に乗ってやれ」
「え? だって……」
弟は戸惑いの表情を見せた。俺はもう一度弟の背中を押した。
「早く行け。俺は1人で平気だから」
俺は恐る恐る彼女に近づく弟を後方からじっと見つめていた。
あいつはバカに緊張して隣、いいですか? などと敬語を使って彼女に話し掛けている。
俺は口許が緩むのを抑え切れなかった。

 園内の乗り物すべてを制覇するのに夕方までかかってしまった。
6時を過ぎた頃には2人とももうクタクタだった。
乗り物に乗っている時間よりも並んでいた時間のほうが遥かに長い。照りつける太陽の下で何時間も立っていた計算だ。
「お兄ちゃん、お腹すいた。喉も渇いた」
弟はつぶやくような声でそう言った。
同感だ。とにかく冷房の効いた場所でゆっくりしたい。

 まいった。
6時はちょうど夕食時で、園内のレストランはどこもいっぱいだった。
俺たちはしかたなくお城の形をした1番大きな洋食レストランへ行き、席が空くのを待つ事にした。
待っている間は2人とも無言だった。
腹が減っては戦はできない。そして、言葉も出ない。

 1時間後。やっとの思いで席へ通され、メシにありつく事ができた。
俺たちは食べ始めてもやはり無言だった。
周りの皆は楽しそうに会話を交わしながら食事を楽しんでいる。
食べ終わった後、大人の話に飽きた子供たちはお子様ランチに付いていたオマケのおもちゃを手にしてホール中を元気に走り回っている。
時々白いタイルの床の上で転んでしまい、泣き出す子供なんかもいる。
なのに、俺たちのテーブルだけが無言。会話は全くない。
男2人が向かい合い、テーブルの上に並んだ数々の料理をただひたすら口へ運んでいる。
それはとても遊園地のレストランにはそぐわない光景だった。
それにしても、散々待たされた後のメシは最高にうまい。
本当においしい時、人はおいしいなんて言葉を口にしないものだ。

 食事が済むとやっと落ち着いた。
たばこに火をつけて一服する。メシの後のたばこ、これがまた最高にうまい。
俺はたばこをふかしながら何も考えずに周りを見つめた。
ガヤガヤと店内に響き渡る子供たちの声が心地いい。
子供の声が聞こえるというのはなんとなく平和な感じがして妙に落ち着いた。
弟も腹が膨れて元気になったようだ。
今日ここへ連れて来てやってよかった。
もうずっとこんな時間を持たずに生きてきた。それはちょっと反省すべき点だ。
弟は食後に頼んだコーラを勢いよくストローで吸い上げ、あっという間に飲み干してしまった。
これでお腹も膨れたし、喉も潤ったはずだ。
その証拠に、その時の弟はこの3週間で1番いい顔をしていた。
「今日は楽しかったね、お兄ちゃん」
「ああ」
「また連れて来てくれる?」
弟がそう言った時、俺の後ろでガチャーンという大きな音が鳴り響いた。
振り返るとウエートレスがお盆に乗せた料理をひっくり返してしまい、慌てて床に散乱した皿や米粒を拾い上げるところだった。
その向こうには席が空くのを首を長くして待っている人たちが見えた。
俺はテーブルの上の伝票を持って立ち上がった。
「弘行、そろそろ行くぞ」
弟は何か言いたげな目で俺を見つめていた。
俺はその視線に気づかないフリをしてさっさとレジへ向かった。

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