終わらない夜に
 3.

 目の前に置かれた皿の上に乗っかっている一口サイズの黄色くて丸い物体。
僕は恐る恐るそれを手にとって口に入れた。
今日のはそれほど甘くはない。でも、とてもおいしいとは言えない。
「どう?」
畑中さんが真剣な目で僕に問い掛けた。
僕は正直な気持ちを伝える以外に方法がない。
「甘すぎないのはいいです。でも、あまり……」
「あまりおいしくはない?」
「ごめん、畑中さん」
彼女がうなだれた。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
僕は彼女に申し出た。
「ねぇ畑中さん、今度から順一に試食してもらったら? 彼は甘い物が好きだし、これだって順一ならおいしいって言うかもしれないよ」
彼女は白衣の胸ポケットからボールペンを取り出して首を振った。
「ダメ。あの人、なんでもおいしいって言うんだもん」
「順一にとってはおいしいんだよ」
「裕太くんにとっておいしくないと意味がないのよ。だから、これからもお願いね」
僕はやっぱり人付き合いが苦手だ。
高圧的なものの言い方をされると口をつぐんでしまうし、穏やかな言い方をされてもやはり口をつぐんでしまう。

 畑中さんは一生懸命に仕事をする人だ。
彼女は開発研究員になって3年だと言っていたけれど、今まで自分の作った物が商品化された事は一度もないらしい。
それでもめげずにいつもいつも試作品を考えては作り出していく。
彼女はとても前向きな人だ。いつも前だけを見ている。
長い髪をきちんと頭の上で束ねて背筋がピンと伸びている彼女の後ろ姿。
僕は毎日毎日その姿を見つめてきた。
そんな人を見ていると自分がとてもダメな人間のような気がしてくるのは気のせいだろうか。
今の僕はとても前向きとはいえない。だけど、後ろを振り返る勇気もない。
僕はずっとこのまま過去をひきずって生きていかなければならないのだろうか。

 5月のある夜。
僕は「クレープハウス」へやってきた。
ここへ来るのはもう何度目か分からない。17歳の頃は彼と2人でよく来ていた。
でも、1人で店内へ入るのは今日が初めてだった。
彼が突然僕の前から姿を消した後、僕はいつか彼がやってくるんじゃないかと思い、しばらくここへ通って来ていた。でも、1人で店内へ入る事はしなかった。 ただ店の前でウロウロしていただけだ。
僕は甘い物が苦手だ。彼がいなければこの店へ入る意味などない。

 店内は昔と全然変わっていなかった。
テーブルの位置も、レジの位置も、すべてがあの頃のままだった。
僕はいつもの席へ座った。僕と彼がいつも向かい合っていた場所だ。
そこへ座るとなんだかとてもほっとした。
僕の体はまだこの店のイスの感触をちゃんと覚えていた。
彼とここへ来るのはいつも放課後だった。夜来てみると少しだけ雰囲気が違う。
高校生なんかはほとんどいない。その代わりに仕事帰りのOLが目立つ。

 僕が何故ここへやってきたのか。
それは、畑中さんの背中を見続けてきた僕の自分に対する答えを見つけるためだった。
僕は過去に捕われていた。
そしてそのために一歩も前へ進み出せずにいた。
前へ進む事が難しいなら、過去を清算するしかない。そこから始めないと、僕は一生立ち止まったままのような気がする。
「バナナパフェをください」
ウエートレスにそう言った時、初めて気づいた事がある。
過去に僕がここへ来てオーダーをした事は一度もなかったという事だ。
いつも彼が「バナナパフェ2つ」と言ってくれていた。
1人でここへ来て初めて気がついた。ここへ来なければきっと一生気づかなかったかもしれない。

 あの頃の僕はとても自然体だった。
話すのが苦手だから、ただ黙って彼の話に耳を傾けていた。
それでよかったんだ。僕は自分の役割を心得ていた。
僕は聞き役で、彼が話す役。僕らはそれでバランスが保たれていた。
でもそれは誰とでもうまくいくわけではない。その事が分かったのはもっとずっと後の事だった。
大輔の話を聞いていてもつまらないし、他の人に関しても僕はそう感じていた。
ただ、自分が喋れないから黙って人の話を義務のように聞いているだけ。ただそれだけだった。
彼と2人でいる時のように自分がオープンになれる相手は他に見当たらなかった。
でもそれは自分が相手に対して心を開こうという努力を怠っているからなのだろうか。自分でもよく分からない。

 店内を見回すとあの頃の記憶が一気に蘇えってきて胸が苦しくなる。
入口や窓際やレジの横に置かれているぬいぐるみたち。
彼らはずっと僕らを見守っていてくれたんだろうか。
ウエートレスの制服も変わっていない。薄いピンク色のブラウスとスカート。
やたらと視界がいいのは、僕の前に彼がいないせいだ。
ここは時間が止まったように昔と何も変わらないのに、そこに彼だけがいなかった。

 僕の目の前に「バナナパフェ」が置かれた。
昔のままだ。アイスクリームたっぷり。そして、バナナもたっぷり。
スプーンでアイスクリームを一口すくって食べてみる。
甘い。よくこんな甘い物を食べていたものだ。畑中さんの作るデザートなんかよりずっと甘い。
そこでまた気がついた。
僕はあの頃ほとんど乗っかっているバナナを食べた記憶がない。
いつも彼にあげてしまっていたからだ。
そう。彼にとってはアイスクリームよりもバナナこそが重要だったんだ。
輪切りにされたバナナを1つ食べてみる。
ごく普通のバナナの味だ。別に特別な物なんかじゃない。
ただ、バナナを口に入れた瞬間に僕の知っている彼の記憶がすべて心の中のスクリーンに映し出された。
彼の手の動き。時々目を細めるクセ。笑顔。それに僕を真っ直ぐに見つめるあの目。
不思議と僕の中の彼との思い出は全部映像の中に収まる物ばかりで、彼が何を話したか、そしてそれに僕がどう答えたかという事は全く思い出せなかった。
僕にとって言葉はそれほど重要ではなかったんだ。
僕は彼の話を聞いているフリをしながら本当はただ彼を見つめていたかっただけなんだ。
ここへ来るまで、何も気づかなかった。
彼の話はもしかしたらとても退屈なものだったのかもしれない。
大輔の話が僕にとって退屈なのと同じように。
でも、彼といた時の僕は自然体だった。大輔や他の皆といる時とはまるで違ってた。

 答えはあっさりと出た。
話が合う、合わない。そんな事は関係ない。
僕は彼じゃなければダメだ。そういう事だ。
だけどここに、僕の目の前に彼がいない以上、自分で思いを清算する以外に方法がない。
本当はそんな事、とっくに分かっていた。
ここへ来るのはこれで最後にしよう。
それでどうなるものではないかもしれない。だけど、それを決めた事で僕はほんの少し前に歩き出せるような気がする。
いや、いつかはそうしなければならないんだ。

 電話が鳴った。
僕はもう慌てたりはしない。
目を閉じたまま呼び出し音を聞き流す。
今日は4回鳴って切れた。
気にせずもう一度眠る努力をする。
すぐに眠れない事は分かっている。だけど、努力をしてみない事には始まらない。
電話の向こうには彼がいる。僕はずっとそんな気がしてた。
だけどそれは僕の希望的観測であって、本当は彼とこの電話は全く関係ないのかもしれない。
そう考えるのは難しい。でも、そう思う努力をしてみない事には何も始まらない。
だいたい夜中に"非通知"で電話をかけてくるなんて、ろくなもんじゃない。
そうでも思わないと、前へ進めない。
それが分かっているのに僕はもう後悔しかけている。
今ならすぐに電話を取る事ができた。
すぐに君の電話を取るべきだった。でないと、気になって眠れやしない。

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