終わらない夜に
 4.

 次の朝にはもう決めていた。
この次は絶対に電話に出よう。
一度だけ電話に出れば済む事だ。そうすれば僕の携帯に登録されていない誰かなのか、それとも単なるイタズラ電話なのか、そのくらいの事ははっきりするはずだ。
とにかく、あの電話が彼と全く関わりのないものだという事をはっきりさせたい。
それができればきっと前へ進める。

 そう決めてから、何日電話を待ち続けたか知れない。
いつだってそうだった。僕が待てば電話は来ないんだ。
大学へ通い、バイト先へ通い、時には友人たちと酒を飲んだり、ユウウツな合コンへ出席したり。
そんな平凡な日々を過ごしている間、僕の夜は静寂に包まれていた。

 最後の電話から42日目。その日は女子大生との合コンだった。
僕は少しはその雰囲気に慣れつつあった。
ニ次会へ参加するようになったのは僕にとって大きな進歩だった。
「ニ次会へ来る人! 携帯電話を預かります。飲んでる最中はメール禁止ね!」
一次会が終わった途端にそう言って皆の携帯電話を集めたのは大輔だった。

 その日は男が8人と女の子が6人、ニ次会へ参加する事になった。
大輔が二次会にセッティングしたのは12階建てビルの最上階にあるちょっとオシャレな飲み屋だった。
僕らには他の客からは死角になる窓際のボックス席が用意されていた。
女の子が好きそうな店だ。大輔はさすがに心得ている。
ガラスの床の下には水が流れているのが見える。
真っ赤なイスはフカフカで座り心地がいい。テーブルの上にはアロマキャンドルが置かれていて、オレンジのいい香りが漂っていた。
しかも窓から見える景色が抜群だ。
その日の空は雲がなく、かなり視界が良かった。そこから見る景色は他に邪魔をする建物が何もなく、遥か遠くの方まで街を見渡す事ができる。
手前の方にはタワーが見え、遠くの方にはライトアップされた橋が見え、その上を流れて行く車の動きもかすかに感じ取る事ができた。
そこから見る景色はまるで色とりどりの宝石を散りばめた絨毯のようだった。
女の子は窓から見る景色にうっとりしていた。
大輔はこの店に二次会をセッティングしたのは自分だという事を女の子たちにアピールしていた。
僕はその時、この店高いんじゃないのかな、などと財布の中身を心配していた。

 僕は相変わらず話すのが苦手だったけど、お喋りの好きな女の子は黙って話を聞く僕に好意的だった。
僕はただ黙って話に耳を傾けていればいい。
また、質問好きな女の子と話すのも結構楽だという事に気がついた。
ただ聞かれた事に答えていればいいからだ。
「裕太くんってどんなバイトしてるの?」
ニ次会の飲み屋で僕に質問したのはちょっと派手な女の子だった。
彼女は僕の隣に座ってた。
茶色の長い髪。鋭く伸びた爪。少し厚めの化粧。胸が大きく開いたTシャツ。そしてミニスカート。
ちょっと僕とは合わない感じだ。でも、話すといい人だった。
地味でサエない僕の相手をしてくれるなんて、いい人にきまっている。
「お菓子を食べるバイトだよ」
僕がそう答えると彼女の大きな目が輝いた。
「お菓子を食べるバイトなんてあるの? いいなぁ。今度募集したら教えてね」
「あんまりおいしくないのも食べなきゃいけないよ」
ごめんね、畑中さん。
「羨ましい。私、お菓子大好きなの」
「どんなのが好き?」
「なんでも。甘い物が大好きなの」
「試作品を持って来てあげればよかったな」
「そんなのあるの? 食べたいな」
「いっぱいあるよ。ほとんどが商品化されないけど」
彼女は僕をじっと見つめてこう言った。
「そんなバイトしてても太らないんだね。ますます羨ましい」
確かに僕は細身で、はっきり言ってひ弱な印象だったと思う。
それをこんな言い方をしてくれるなんて、やっぱり彼女はいい人だ。
「肉体労働も多いんだよ」
「休みの日は何してるの?」
「ぼーっとしてるかな」
「遊びに行ったりしないの?」
「バイトばっかりしてるから」
「偉いね。お金貯めてるの?」
「いや。貧乏だよ」
「私も!」

 そう言って彼女が笑った時だった。
電話が鳴った。僕はすぐに自分の電話だと気がついた。
反射的に腕時計を見ると、ちょうど12時を回ったところだった。
僕は少し離れた席にいる大輔にこう言った。
「僕の携帯貸して。鳴ってるみたいだから」
大輔は随分酔っていた。
彼はテーブルの上に積み上げられたたくさんの携帯の中から僕のを探そうとしていた。
「犬のストラップがついてるやつだよ。取って」
僕はそう言って手を出した。すると大輔が僕の携帯を手にとって液晶画面に目をやった。
もう一度言う。大輔は随分酔っていた。

 彼はにやりと笑い、大きな声で叫んだ。
「非通知だぜ。裕太、やばいぞ。出ない方がいいんじゃないのか?」
僕はその言葉を聞いて慌てた。42日ぶり。42日ぶりにやっと来た。
「大輔、早く」
僕は身を乗り出して彼に手を出した。
とその時、大輔がいきなりその電話に出てしまったんだ。僕は言葉を失った。
「どなたか知りませんが、裕太くんはただいま合コン中で電話に出られません。悪しからず」
大輔はそれだけ言うと大爆笑し、その後で僕に携帯を投げて寄越した。
耳にあててみたけどもう遅かった。電話はもうつながっていなかったんだ。
僕は理性を失った。その表現が正しいと思う。もしかして僕も少しは酔っていたのかもしれない。

 僕が最初にした事は、立ち上がって大輔に近づき、彼の座っているイスを蹴りつける事だった。
大輔は不意を衝かれて床に倒れ落ちた。
一緒にいた女の子たちが悲鳴を上げる。
彼女たちは隅の方へ避難し、友達同士手をつないで僕らの様子を見守っていた。
僕はもうなにがなんだか分からなくなった。
とにかく、気がつくと大輔を殴っていた。僕も彼に殴り返された。
彼はずっと僕に何かを言い続けていたけれど、僕の耳には何も聞こえて来なかった。
僕の体はその時、何も感じなくなっていた。
僕が振り上げた拳は確かに大輔の顔を捉えたはずなのに、自分の拳が何かに触れた手応えさえ感じなかった。僕は確かに殴り返されたはずなのに、全く痛みも感じなかった。
耳は聞く事を拒否していた。
口は話す事を拒否していた。
僕はその時、すべてを拒否していた。この世のすべてが受け入れがたいものだと感じていた。
その時の僕にとってはあの電話が1番大事だったんだ。
大学へ通ったり、バイトをしたり、合コンに参加したりするのはあの電話を待つ間のヒマつぶしでしかなかった。
僕にとっては合コンの最中に電話が鳴ったのではなく、電話が鳴った時合コンの最中だったという認識が正しかった。
大学へ通う間に電話を待つのではなく、電話を待つ間に大学へ通っていたというのが正しかった。
大輔のした事は僕の42日間を踏みにじる事だったんだ。
それは言葉では言い表せない屈辱だった。

 気がつくと僕は他の友人に押さえられていた。そしてそれは大輔も同じだった。
皆きっと驚いたに違いない。
僕が人前で感情を露にしたのはほとんどそれが初めてだったから。
大輔は皆になだめられ、肩までずり落ちたTシャツを整えながら再びイスに腰掛けた。
女の子たちは呆気に取られて固まっていた。
その時僕を助けてくれたのは、さっきまで話をしていたちょっと派手めの彼女だった。
彼女は僕の腕を取ると、そこにいた皆に向かって笑顔でこう言った。
「私たちはそろそろ消えまーす。皆、あと楽しんでね」
僕は何も言えなかった。だけど彼女が僕の耳元で早く行こう、と言ってくれたのはちゃんと聞こえた。

 「大丈夫? 冷やした方がいいよ」
店を出てしばらく歩くとコンビニがあった。
僕らはその店の前に座って休む事にした。
彼女はトイレへ行ってハンカチを水に濡らしてきた後、それを僕に手渡した。
僕はその時まで殴られた事も忘れていた。僕には時間が必要だった。頭に血が上っていたんだ。
左の頬が熱い。僕は彼女のハンカチを頬に当てた。
彼女はコンビニでトイレを借りたついでにウーロン茶を買ってきてくれていた。とても気がつく人だと思った。
「飲んで。酔いが覚めるよ」
彼女の手からペットボトルを受け取った時、突然自己嫌悪に陥った。
さっきの修羅場が頭の中で蘇える。
僕が蹴ったイスは壊れなかっただろうか。 グラスや灰皿は全部床にひっくり返って割れていた。あれは弁償しろと言われるだろうか。
それより、まず彼女に対して申し訳なくてたまらなかった。
もうやってしまった事はしかたがない。とにかく、謝るしかない。
僕は隣に座っている彼女の方に体を向けて謝った。
「ごめん。迷惑かけちゃったね。友達にも謝っておいて」
すると彼女は首を振った。
「裕太くんは悪くない。大輔って人、飲みすぎだよ。友達が胸触られて怒ってた。だから、皆いい気味だと思ってるよ」
彼女は僕の手からハンカチを受け取り、それを折り返して僕の頬に当ててくれた。
「女の子は皆大輔みたいなヤツが好きなんだと思ってた」
「そんなの、人によるよ。皆じゃないよ」
「優しいんだね」
「そう? 普通だよ」
僕はその時初めて彼女の顔をまともに見た。いくら合コンに慣れたといってもまだ女の子の目を見て話すのは苦手だったんだ。
彼女はとてもかわいい人だった。特に優しい目は僕を安心させてくれた。
ふっくらした頬には笑うとエクボが出る。
こういう人が側にいてくれたなら、過去を振り切る事ができるだろうか。

 ほんのり涼しい風が吹いて彼女の長い髪が揺れた。
シャンプーのいい香りがした。
僕は彼女に名前を聞けずにいた。その気がないから話してる最中にも名前を聞いていなかったんだ。
今更聞くのも申し訳ない。でも、ここまでしてもらったのに、名前くらいは知っておきたい。
その時、僕の気持ちを量ったように彼女が僕に自分の携帯を見せてこう言った。
「裕太くんの携帯、新しいやつだね。見て、由紀のは古くてさぁ……」
由紀。由紀っていうんだ。助かった。
「由紀ちゃん、さっきはありがとう。今もだけど」
彼女はそれを聞いて大爆笑した。
「何それ? 変なの」
「いや……外へ連れ出してくれて、介抱してくれて、ウーロン茶まで買ってくれて」
「いいよ。私も帰りたかったから。合コンなんてつまんない。私はどうせ人数合わせだし」
意外だった。彼女は率先してああいった集まりに参加するタイプの人かと思ってた。
「そうなんだ。僕も人数合わせだよ」
彼女はちょっと笑って、僕にまた質問をした。
「さっきの、大事な電話だったの?」
思い出した。そうだ。電話。42日ぶりに電話が来たのに……
「分からない。非通知だから」
そう言うのが精一杯だった。でも、それは事実だった。

 僕らはそれから少し休んだ後タクシー乗り場まで一緒に歩いた。
僕は彼女を送って行くつもりだったけど、彼女が1人で平気だと言うのでそれ以上しつこくするのはやめた。
彼女はタクシーに乗る直前、僕にこう言った。
「今度一緒に遊ぼうよ」
「あ、うん。いいよ」
「お菓子屋さんでバイトしてるんだよね? 今度、お菓子を食べさせて」
お菓子屋さんか。僕は思わず笑ってしまった。
僕は彼女と電話番号を交換した。それは僕にとっては画期的な事だった。
やっと新しい一歩を踏み出せるような気がする。きっと、そんな気がする。

   TOP  NOVELS  LONG STORIES  COVER  BACK  NEXT