5.
確かに僕は新しい一歩を踏み出した。
由紀ちゃんとはたびたび電話で話をしたし、時には畑中さんの作った試作品を持って彼女に会いに行く事もあった。
そして僕は試食後に彼女が言った感想をすべてノートに書きとめ、畑中さんに報告するようにしていた。少しでも役に立てばと思ってした事だった。
恐怖の実験室に畑中さんと2人。
僕らはその時2人して丸イスに座り、我が社のヒット商品 "激辛チキンカレー"を食べていた。
畑中さんは辛いのが苦手らしく、汗をかいて水ばかり飲んでいる。
それでなくてもその日は暑かった。
「裕太くんの彼女ってかわいい人なの?」
いきなりそう言われて戸惑った。僕らは別にステディな関係ではなかったからだ。
僕はご飯とカレーをスプーンでまぜ合わせながらその言葉を軽く否定した。
「僕らはただの友達だよ」
すると畑中さんはノートの最後から2ページ目を開いて僕に見せてくれた。
「これ、彼女の字でしょう? ハートマークがいっぱい書いてあるわよ」
そんな事は知らなかった。
確かにそのページには彼女の字で10回くらい"裕太"と書いてあり、その文字がピンクのハートマークで囲まれていた。
思わず赤面した。いったいいつの間に……
畑中さんは実験室の窓を開け、更にうちわで顔を扇ぎながらこうつぶやいた。
「若いっていいわねぇ」
「畑中さんだって若いよ」
「よく言うわよ。裕太くんが生まれた時、私はもう小学生だったんだから」
彼女は笑いながら白衣を脱いでイスにかけた。
窓からさわやかな風が入ってきて薄手のカーテンが静かに揺れていた。
「ねぇ、裕太くんはどうしてバイト先にここを選んだの?」
そんな事を聞かれるのは初めてだった。
僕はすぐに返事ができなかった。
彼女はグラスに入った水をグイッと飲み干し、またうちわで自分の顔を扇ぎ始めた。
「私はね、皆の笑顔が見たかったの。だからここで働く事にしたのよ」
「笑顔?」
「そう。おいしい物を食べてる時に怒った顔をしてる人はいないものよ。いつか自分の作った物で皆を幸せにしてあげたいと思った。だからこの仕事をしてるの」
「すごい。僕は何も考えてなかった」
「ここへバイトに来る人たちって、皆食べる事が好きで来てるみたい。順一くんもそうだし。でも、裕太くんはご飯もお菓子もあまり食べないでしょう? だから皆とはちょっと違うなって思って聞いてみたの」
もう考えまいとしてるのに、僕はその時また彼の事を考えていた。
バナナパフェを食べてる彼の幸せそうな顔。僕はそんな彼を見ているのが好きだった。
ここへバイトに来た理由。それは畑中さんにはとても言えなかった。
僕はいつも、何をする時でも彼の事が頭にあった。
彼は甘党だ。バナナパフェ以外にもバナナアイスやチョコレートなんかもよく食べていた。
僕は試食品を配る時、いつも人々の中に彼の姿を探した。
僕がここでバイトをする理由は、彼だった。
もしかしたら彼が通りかかるかもしれない。いつか彼にバッタリ会うかもしれない。
そんな淡い期待を抱いてもう2年以上たつ。
こんな不純な動機を仕事熱心な畑中さんに言えるはずがない。
君から電話が来なくなってもう随分時が過ぎてしまった。
君はもう僕の事なんか忘れちゃったの?
それとも僕にもう君の事なんか忘れてしまえという事なの?
それなら、今がいい時期なのかもしれない。
僕はここの所気持ちが安定していた。
大輔とはあの事があって以来疎遠になっていた。おかげでユウウツな合コンに誘われる事もなくなった。
それに、由紀ちゃんがいる。
彼女はいい人だ。彼女がその気なら付き合ってみるのも悪くはない。
過去を清算するなら今だ。きっと今がその時なんだ。
7月。花火大会の夜。
僕は由紀ちゃんと花火を見に行く約束で待ち合わせをしていた。
駅で待ち合わせると人がいっぱいだと思ってデパートの入口で待ち合わせをしたというのに、行ってみるとそこにも人がいっぱいだった。
素晴らしい花火日和だ。
外の気温は暑すぎず、寒すぎず、ちょうどいい気温で雨の心配もなさそうだ。
街はさすがに賑わっていた。ゆかたを着た人も随分見かける。
腕時計に目をやるともう時計の針は7時を10分過ぎていた。
待ち合わせの時間は7時だ。
彼女はいつも時間にルーズな人だった。僕は気長に待つ事にした。
僕は柱に寄りかかり、目の前を通り過ぎて行く人たちをじっと観察した。
皆とても楽しそうだ。ほとんどの人が花火の見える方角へ向かって歩いて行く。
家族連れも多い。綿アメを持っている子供もたくさん見かけた。
僕は無数に通り過ぎて行く人たちの中に彼の姿を探していた。
僕の決心は口ばっかりだ。いつももうこんな事はよそうと思うのに、これから由紀ちゃんと会うという今でさえ彼の事を考えている。
いつもいつもそんな事ばかり考えているわけじゃないはずなのに、気づけばいつも彼の影を追い求めている。
時々彼によく似た人を見かけるとその人を凝視している自分がいる。
もうこんなクセはいい加減やめなくちゃいけない。
僕は深呼吸して夏の空を見上げた。少し雲はあるけど、時折星も見える。
僕がやっている事はこの大きな空の中でたった1つの星を探し出すようなものなのだろうか。
「ごめん! 遅くなっちゃった!」
その声に振り返ると紺色のゆかたに身を包んだ由紀ちゃんがそこにいた。
彼女は畑中さんのように髪を頭の上で束ねてた。
20分の遅刻だ。
でも彼女なりに急いで来たようだ。だって、息が乱れてる。
「ごめんね。怒ってる? 花火に間に合うかな?」
泣きそうな顔でそんなふうに言われるととても怒る気にはなれない。
「大丈夫。間に合うよ。行こう」
彼女は安心したように微笑んだ。
しばらく歩いて行くと更に人が増えてきた。
道路は通行止めになり、歩行者天国にはまるでお祭りのようにたくさんの屋台が出ていた。
金魚すくいをやっている人も数人見かけた。
花火が始まる少し前にはなんとかいい位置をキープする事ができて僕らはとりあえずほっとしていた。
彼女が持って来てくれた敷物を広げて座る。すると5分もしないうちに周りは人でいっぱいになった。
由紀ちゃんはいつもと雰囲気が違ってた。
それはゆかたのせいなのか、髪型のせいなのか、それとも両方か。
こんな時は何か言った方がいいに決まってる。でも、なんて言っていいのか分からない。
「ねぇ、ゆかた似合う?」
彼女は胸をはってそう言った。僕はこういう時、彼女との相性の良さを感じた。
彼女は僕が困った時、いつも助け船を出してくれる。
「うん。似合うよ」
だから、僕はこう答えるだけでいい。
「ほら、始まった!」
彼女の声で空を見上げるとドーンという音がして大きな花火が打ち上げられた。
とても綺麗だ。
僕はしばらく花火に見とれていた。
そしてそのうちまた彼の事を考えている自分に気がついた。
打ち上げ花火はほんの一瞬だけ輝き、そしてあっという間に散っていく。
なんて儚いんだろう。僕の恋によく似ている。
いや、僕の恋は輝く事なく散っていったという方が正しい。
もしかして散っていったのは彼の方なんだろうか。
彼は最後の日、本当は僕に別れを告げるつもりで家へ来たんだろうか。
分からない事だらけだ。
彼には謎が多すぎる。だから今でもこんなに悩むんだ。
花火の音があまりに大きすぎて僕には彼女の声が届かなかったようだ。
僕は彼女にシャツの袖を引っ張られ、やっと彼女が何か言っている事に気づいた。
「ねぇ、裕太くん……」
「何? どうしたの?」
「裕太くんは優しいね」
その時連続花火が打ち上げられ、彼女の笑顔が暗闇の中に照らし出された。
唇が光っているのがとても印象的だった。
「由紀が待ち合わせに遅れても絶対に怒らないんだね」
その時僕は花火があまりに綺麗で気が緩んでいた。
この後僕は彼女の前で大失態を演じてしまう。
「女の子が遅れてくるのは出かける前に洋服を選んだり、靴を選んだり、念入りに化粧をしたりするからだよね?」
「うん。そうだよ」
「それは男にとっては喜ばしい事なんだよ。僕と会うために一生懸命オシャレをしてくれて、そのせいで遅れてくるんだから、女の子に待たされても絶対に怒っちゃいけないって昔ママが……」
うわっ。やっちまった。
いい加減人前でママって言うのはやめようと努力してたのに、よりによってこんな時に口走るなんて。
案の定、彼女に笑われた。
最悪だ。僕の新しい恋は始まる前に花火と共に散っていった。
その後の僕はいつも以上に無口だった。
たまに調子よく喋るとこれだ。だったら黙っていた方がずっとマシだと思った。
花火が終わったのは8時45分。
僕らがその後行った居酒屋は花火帰りの客で賑わっていた。ただタイミングよく帰る人たちがいてすぐにカウンター席へと案内された。
座った途端、周りで楽しそうに笑っている人たちが遠くなっていくのを感じた。
僕の周りだけどうしてこんなに静かなんだろう。
「裕太くんどうしたの? おとなしいね」
彼女は何もなかったかのように僕の顔を覗き込んだ。
周りを見回すと、皆楽しそうにお喋りしながら食事をしている。
この中で落ち込んでいるのは僕1人だという気がした。
なんだか突然蒸し暑くなってきた。急に不快指数が高まったような気がする。
彼女は次々と運ばれてくる料理を取り皿に分けて全部僕の目の前へ並べていった。
彼女はきっといい奥さんになる。
「花火、綺麗だったね」
「うん」
「由紀とどっちが綺麗?」
「え?」
彼女はまたいつもと同じように笑った。そして僕も一緒になって笑った。
そのうちに自分のしでかした失態の事などすぐに忘れてしまった。
彼女は居酒屋でも必ず最後にデザートを食べる。その時もオレンジシャーベットを食べていた。
それは僕には考えられない事だった。
「今日ね、本当はまた合コンに誘われてたの」
シャーベットを頬張りながら彼女がそんな告白をした。
僕は悪気なく、こんな返事をした。
「本当? 行かなくてよかったの?」
「行かないよ。どうせまた人数合わせだもん」
「そうか」
「別に私じゃなくたって、誰だっていいんだもん」
彼女が急に不機嫌になった。僕の方を見ようともしない。
僕は自分の無神経さに腹が立った。僕だって同じ思いをしてたのに、行かなくてよかったの? なんてとんでもない発言だ。
彼女はやがて大きな目を僕に向けて、はっきりとした口調で問い掛けた。
「裕太くんは私が合コンに行っても平気なの?」
その言葉は彼女の僕に対する意思表示だった。
僕は、何も答えられなかった。
ただ自分に対してどうしようもなく腹が立っていた。彼女がその気なら付き合ってみるのも悪くはないだって?
自分の過去を振り切るために? それは彼女に対してあまりに失礼すぎる。
僕は自分に問い掛けた。
裕太、お前は本当に彼女と付き合いたいと思ってるのか?
答えは自分自身が1番よく分かっていた。
彼女じゃなくたっていい。他の人でも構わない。
ただ僕は過去を清算して前へ進むために簡単な道を選ぼうとしただけだ。
お前じゃなきゃダメだ。自分はそう言われる事を望んでるくせに、相手に対してそう言えないようではどうしようもない。
気づくと彼女の手が止まっていた。シャーベットはもうすでに溶け始めている。
彼女の手を止めてしまったのは僕だ。僕の無神経さが彼女を傷つけてしまったんだ。
このまま黙っているのはまずい。時には言葉も重要だ。
「由紀ちゃん、もう合コンになんか行くなよ」
別に彼女にいい顔をしようと思ってそう言ったわけではない。それは本当に素直にそう思って口から出た言葉だった。
彼女は僕を見ずに、ほとんど液体になりかけているシャーベットをスプーンですくって口に入れた。
その時は沈黙もさほど気にはならなかった。
「もう行かないよ。裕太くんがそう言うならもう行かない」
彼女は笑顔を取り戻していた。
僕は彼女が好きだ。でも、それは恋とは違う。
その夜僕ははっきりとその事を認識した。