それから後も僕は平凡に、幸せに暮らしていた。
大学へ通い、バイト先へ通い、時には友達と酒を飲んだり、でもユウウツな合コンには参加せず、時々由紀ちゃんと会う。
ただ、もう夜中に電話が鳴る事はなくなっていた。
それでも僕は毎晩枕の下に携帯を忍ばせて眠っていた。
目の前に置かれた皿の上に乗っかっている長方形の物体。触ると冷たい。今日はどうやらモナカのようだ。
僕は恐る恐るそれを手にとって口に入れた。
すると、いつもとは違う感覚が口に広がった。とても懐かしい味がする。
バナナの味だ。本当に懐かしい。これはまさしくバナナアイスの味だ。
畑中さんの目が輝いた。
僕は彼女に向かって右手の親指を突き出した。
「本当? おいしい?」
「うん。これ最高」
畑中さんは興奮気味に飛び上がって喜んだ。
「おいしい? 本当に? 本当にそう思ってる?」
「うん。これ、なんて名前なの?」
「"バナナモナカ"よ。チョコモナカはよくあるけど、バナナ味ってあんまり聞かないでしょう? 分かる? アイスクリームの中に本物のバナナがちゃんと入ってるのよ」
「うん。分かるよ」
「モナカと一緒に食べてみた感じはどう?」
「最高」
「よかった! これ、次の会議で発案するわ。商品化されたらピーアールの方よろしくね!」
「うん。任しといて」
畑中さん、ごめん。僕の言う事はあてにならないかもしれない。
僕の頭の中はいつだって彼の事でいっぱいなんだ。
僕はいつも試食品を配る時、人々の中に彼の姿を探した。
バナナアイスは彼の大好物なんだ。
だから本当は口の中が甘くて死にそうだけど、僕はあなたにウソをついた。
もしもこれが商品化されて、それで彼に再会できた時はきっとあなたに感謝する。
これは僕にはちょっと甘すぎるけど、彼ならきっと大好きになる。
僕はこれからもずっと彼の影を追い求めるだろう。
そう。多分、未来永劫に……
電話が鳴ってる。
最後の電話から113日ぶりだ。もうとっくに季節も変わってしまっている。
僕は急いで枕の下から携帯を取り出してみる。
"非通知" 真っ暗な部屋の中で光を放つ携帯の液晶画面にその文字が表示されていた。
胸の鼓動が高鳴る。金縛りに遭ったように動く事ができない。
その日に限って電話はいつまでも鳴り続けた。
僕の心をもてあそぶかのようにいつまでも鳴り続けた。
もう疲れた。
ひどいよ。あんまりだ。僕はもうクタクタだ。
どれだけ君の電話を待ち続けた事か。
君には分かってるのか?
来るか来ないか分からない電話を待つ事がどれほどつらいか、君には分かってるのか?
何十回鳴らしたってムダだよ。
絶対電話になんか出ない。出てやらない。
君のおかげで友人と喧嘩になった事もある。寝不足になった夜も数え切れない。
いったいどうしてくれるんだ? どう責任をとってくれるっていうんだよ。
僕は怒ってるんだ。もう君の事なんか知らないよ。
二度と君に振り回されるのはごめんだ。
僕は携帯を放り出し、ふとんをかぶってきつく目を閉じた。
それでも電話は鳴り止まない。
今夜に限って鳴り止まない。
僕は定期的に鳴り続ける呼び出し音を何回数えた事だろう。
だけどちっとも鳴り止む気配がない。
このまま永遠に鳴り続けるかのようだ。
今日の君はいったいどうしたの? いったい何があったの?
君らしくないな。いつもの君はこんなふうじゃないはずだ。
何かつらい事があったの? 僕に話を聞いてほしいの? 僕に助けを求めてるの?
もしかして君は決心したの? 僕が電話に出るまで諦めないつもりなの?
君は僕の事がなんでも分かるんだね。
君と違って僕の決心はいつも口ばっかりだ。君を放っておく事なんかできやしない。
静かな暗闇の中で呼び出し音はまだ鳴り続けている。
その音だけが部屋の空気を支配していた。
他のものが入り込む余地なんかこれっぽっちもありはしない。
僕はその時、ただ一度だけ彼がこの部屋へやってきた時の事を思い出していた。
あの時の彼のしぐさは全部覚えている。
彼の手の動き。時々目を細めるクセ。笑顔。それに僕を真っ直ぐに見つめるあの目。
彼が座った場所。彼が触れた場所。
あの日の空気の匂い。暖かい風。
正直言うと僕は当初何も言わずに去って行った彼を恨んでいた。
いつも心の中で納得のいく説明を求めてた。
僕はあの頃、彼との友情はずっと続くものだと信じて疑わなかった。
だから彼の事をゆっくり知ろうとしている自分がいた。時間はたっぷりあると信じ切っていたからだ。
僕は今でも彼の声が思い出せない。
彼を見つめるだけで精一杯で、声を記憶する余裕などなかったんだ。
彼が突然家へやってきた日、あの日が最後だと分かっていたら僕はきっと彼の声を記憶しようと努力をしたはずだ。
なのに彼は僕にそうするチャンスを与えてはくれなかった。
どうしても思い出せない。
彼は最後になんと言った? そして僕は? 僕は最後に彼になんと言った?
彼はどんな声で「バナナパフェ2つ」と言った?
彼の声が聞きたい。
もう1人の僕は待ちくたびれてもう彼から解放されたいと叫んでいる。
でも、本当の僕はそうじゃない。
彼の声が聞きたい。
彼がどんな声で「裕太」と言ったか思い出したい。
彼は最初から最後まで僕を悩ませた。
僕を悩ませるのはいつだって彼以外にはありえない。
僕はベッドに起き上がり、鳴り止まない携帯を左手に持った。
君は僕が電話に出る事を知っている。
君は僕の事がなんでも分かるんだね。
呼び出し音が鳴り止んだ。
僕の心に静寂が戻った。部屋の中にも静寂が戻った。
静かな時を取り戻すには、ほんの少し親指に力を入れるだけでよかった。
ゆっくりと左の耳に電話をあてる。
電話の向こうには静寂が流れていた。
君が何も言わない事はなんとなく分かっていたような気がする。
僕が次にどうするか。君になんと言うか。もしかして、君にはもう分かっているの?
僕は静寂の中でずっと口にしていなかったその名前を呼んだ。
他に言葉が見つからなかったんだ。
「和也……?」
電話の向こうで君が息を呑むのが分かった。
その後すぐに電話は切れた。
その瞬間、希望が確信へと変わった。
僕を悩ませるのはいつだって君以外にはありえない。
僕はこの瞬間からまたいつ来るか分からない君の電話を待ち続けるんだ。
そしてその間、僕の心には君が住み続ける。
それはきっと気が遠くなるほど長い時間になるだろう。
それでも僕は君の電話を待たずにはいられない。
君の声が聞けるまで、僕の夜は終わらない。
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