3.
僕と里奈はそれ以来頻繁に会うようになった。
最初は僕が彼女の店へ行く事から始めた。
でも、札幌の街に雪が積もり始めた頃にはそういうやり方はしなくなっていた。
僕が平日休みの時彼女も店を休んで少し遠出をしたり、彼女が休みの夜に2人だけで食事に出かけたり、僕らの関係はとても穏やかに続いていた。
4月。札幌にも春がやって来た。
僕は広いオフィスでデスクに着き、パソコンを立ち上げて黙々とデスクワークに励んでいた。
縦に長いオフィスにはデスクがずらりと並んでいる。
でも社員の半分以上は姿が見えない。僕の周りにもほとんど人がいない。
日当たりのいいオフィスにはパソコンのキーボードを打つ音がBGMとして流れている。
コピーの音、ファックスの音、電話の鳴る音、それらが時々加わる程度で、午後のオフィスはとても静かな空間だった。
2時間もパソコン画面を見つめているとさすがに目が疲れてくる。
僕は静かに立ち上がり、休憩を取るためにオフィスを出て喫煙所へ向かった。
喫煙所は給湯室のすぐ横にある。
そこにはコーヒーとたばこの自動販売機があり、丸テーブルとパイプイス4つが置かれていた。
少し前にも誰かがここで休憩を取っていたらしい。
テーブルの上の灰皿にはたばこの吸殻が2〜3本入っていた。なんとなくまだ空気中にたばこの煙が残っているような気がする。
僕は上着のポケットから百円玉を取り出し、コーヒーを買った。
それからイスには座らず窓を開けて顔を出し、春の風を味わった。
ビルの10階から見る景色はさぞ綺麗だろう、と思いきや、そこから見えるのはすぐ隣のビルのオフィスだった。
そこでは10人くらいの社員が大きなテーブルに集まり、なにやらミーティングを行っているようだった。
僕は彼らから目を逸らし、紙コップに入った熱いコーヒーを一口飲んだ。
「吉田さん!」
僕を呼ぶ声に振り向くと、そこにはベージュのパンツスーツを着た女子社員が立っていた。
高卒で今年入社したばかりの子だ。素早く胸の名札に目をやる。そこには"田中夏美"という文字が刻まれていた。
「田中さんも休憩?」
「はい。ちょっとだけ」
「コーヒー飲む? おごるよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
彼女は僕の目を見てにっこり微笑んだ。まだあどけない、10代の女の子の笑顔だった。
かわいい子だ。たった100円のコーヒーでこんな笑顔を見せてくれるなんて。
僕らは向かい合ってイスに腰をおろした。
彼女は長い髪の両サイドを耳にかけ、右手で紙コップを持ってもう一度微笑んだ。
「いただきます」
「熱いよ。気を付けて」
僕の忠告は一拍遅れてしまったらしい。
彼女はコーヒーをほんの少し口に含んだだけですぐに紙コップをテーブルの上に置き、困惑した顔を見せた。
「本当だ。すごく熱いんですね」
「このコーヒー、飲むの初めて?」
「はい」
「そうか。まだ入社したばかりだもんなぁ」
「はい。でも、勉強になりました」
「僕も最初はやけどしたよ」
「そうなんですか?」
「うん」
僕はこんな時、いつも里奈を裏切っているような気がして自己嫌悪に陥る。
女子社員と向かい合ってたわいのない話をするだけ。
ただそれだけなのに、僕にとってはその行為さえ彼女に対する裏切りのように思われた。
ふと紙コップを持つ彼女の手に目が止まった。
右手の薬指には赤い石のついた指輪がはめられている。
僕は最近ジュエリーショップの前を通りかかると足を止める癖がついていた。
結婚を意識した女は里奈が初めてだった。だけど、彼女と結婚するには乗り越えなければいけない壁がある。
田中夏美が窓の外へ目を向けた。
隣のビルのオフィスではまだ社員たちがミーティングを行っていた。
「あそこ、広告代理店ですよね」
「本当? よく知ってるね」
「友達の彼氏が働いてたんです。その人エステサロンや美容外科の仕事を担当してたから、安くならないか聞いてもらった事があるんですよ」
美容外科。女の子は誰しもそういったものに興味があるんだろうか。
僕はそれとなく彼女に聞いてみた。
「美容整形って、結構費用がかかるのかな?」
彼女はちょうどいい熱さになったコーヒーをぐいっと飲み干し、少し考えながら答えた。
「そうですね……二重まぶたにするだけでも10万くらいするのかな」
「そんなに!?」
「綺麗になるためにはそのくらい当然ですよ」
彼女は本当に当然だという顔でそう言った。
「でも、田中さんは直すところなんかないだろ?」
今度は彼女がムキになって訴えた。
「いっぱいありますよ! 目をもっと大きくしたいし、鼻だって高くしたいし、小顔になりたいし。お金があれば全部直したいわ」
僕はそう言ってため息をつく彼女の顔をまじまじと見つめた。
女ってのはよく分からない。
彼女はどう見ても美人の部類だ。目は大きいし、鼻は高いし、顔だって小さい。
十分整った顔立ちなのに、それでもまだ直したいところがあるというのか。
彼女はカラになった紙コップをゴミ箱へ投げ入れた後、こうつぶやいた。
「でも、やるとしたら会社を辞める時かなぁ」
「え? どうして?」
「だって、ある日突然顔が変わって別人のようになるんですよ。同じ会社にはいられませんよ」
「そういうものかな」
「男の人でもそうですよ。転勤をきっかけにカツラをかぶるってよく言うじゃないですか。あれと同じですよ」
説得力あるなぁ……
男に置き換えるとそういう事になるのか。
短い休憩を終えてオフィスへ戻る。相変わらず静かなオフィスだ。
僕は再び自分のデスクに着き、パソコン画面を見ながらキーボードを打ち始めた。
田中夏美も恐らくもうデスクに着いているだろう。彼女とは席が離れているから確認する事はできない。
しばらくするとパソコン画面の中に"メールが届いています"というメッセージが現れた。
メールボックスを開くと一通のメールが確認できた。題名は"里奈です"というものだった。
僕はすぐにそのメールを開いてみた。
修くんへ
こんにちは。お仕事忙しいですか?
里奈は今お洗濯を終えて一息ついたところです。
修くん、ゴールデンウィークの予定はどうなってるの?
里奈は5月3日から5日までお休みだよ。
もしよかったら、どこか遊びに行かない?
無理だったらいいんだけど、考えておいてね。
じゃあ、お仕事がんばってください。またね。
「もてる男はつらいねぇ!」
そう言って突然僕の背中をたたいたのは部長だった。
心臓が止まるかと思った。ずっと姿が見えないと思っていたのに、いったいいつの間にこんな近くまで来ていたんだろう。
「部長、びっくりさせないでくださいよ」
部長はニヤリと笑って僕のパソコンを覗き込んだ。僕は慌ててメール文書を閉じた。
「お前、里奈ちゃんとそういう仲だったのか。隅におけないねぇ」
静かなオフィスに部長のどでかい声が響き渡った。全く、心臓に悪い。
「違いますよ」
「隠す事ないだろ?」
「隠す事なんか、何もありません」
部長は使われていない隣のデスクの上に腰掛け、僕を見下ろして急に小声になり、こんな言葉を囁いた。
「あまり深入りするなよ。男に媚を売るのはあの子たちの仕事なんだ。営業活動と同じさ」
「分かってます。僕は彼女とはなんでもありません」
部長の迫力ある大きな目が僕を見下ろしていた。
僕の言う事なんかちっとも信じていないような目で僕を見下ろしていた。
部長が立ち去った後はまたオフィスの中に静寂が戻った。
僕は気を取り直して無心にキーボードを打ち続けていた。
するとまた"メールが届いています"というメッセージが現れた。
今度は前後左右を見回し、周りに誰もいない事を確認してからメールボックスを開いた。
するとメールが一通確認できた。題名は"クラス会のお知らせ"というものだった。
僕はもう一度周りを見回し、それからそのメールを開いてみた。
僕が里奈との結婚を意識したのにはきっかけがあった。
2週間前に彼女が口にした言葉がそれだった。
「里奈はもう両親とは会えないの。勘当されてるから」
薄暗いバーのカウンターで酒を飲みながら、彼女は笑顔でそう言った。
それがウソじゃない事はすぐに分かった。
僕はあんなに悲しい笑顔を見た事がない。
里奈はきっとうまく笑顔を作ったつもりでいたのだろう。
だけど、彼女の目はちっとも笑っていなかった。
笑うどころか、泣き出しそうな顔にさえ見えた。
僕はその時、自分が彼女の家族になってあげたいと強く思った。
それは僕の一方的な思いかもしれないけれど、本気でそう思ったんだ。