変身
 4.

 それから4日後の日曜日。午前11時。
僕は喫茶店で里奈と待ち合わせをしていた。
もうここで何度彼女と会った事だろう。
そこはとあるオフィスビルの2階にある小さな喫茶店だった。
扉を開けて中へ入ると正面に小さなカウンターがある。
カウンターの中にいた店主は穏やかな微笑で僕を迎えてくれた。
店主はひげを生やした無口な男性だった。老けて見えるが、恐らく30代だろう。
彼はもうすっかり僕と里奈の顔を覚えていて、1杯分のコーヒー代しか取らずにいつも黙っておかわりを出してくれる。
店内にまだ里奈の姿はない。

 窓際の席に着き、コーヒーをすすりながらふと外へ目をやると白いワンピースを着た里奈の姿が見えた。
彼女は早足でこちらへ向かって歩いてくる。
それから約3分後。彼女が店へやってきた。
ひげの店主は黙って微笑み、彼女は彼に小さく会釈する。
店には僕と里奈の他に1人の客がいるだけだった。
平日の昼間はランチを食べる客でいつも満席になるらしいが、日曜日のこの時間は閑散としている。
里奈が僕の向かい側に座ると、すぐにひげの店主が温かいコーヒーの入った2つのコーヒーカップをお盆に乗せて僕らのテーブルへ持って来てくれた。
それから黙って僕の目の前のカラになったコーヒーカップを下げ、テーブルの隅に伝票を遠慮がちに置いた。
「いつもありがとう」
僕がそう言うとひげの店主は一瞬だけ微笑み、すぐにテーブルを離れた。

 里奈は小さなバッグの中から丸い手鏡を取り出し、しきりに自分のヘアスタイルをチェックしていた。
どうやらここへ来る前に美容室へ寄って来たようだ。しばらく伸ばしていた彼女の髪は肩の上あたりで切り落とされていた。
「髪を切ったんだね。春らしくていいよ」
僕が先にそう言うと里奈はほっとしたように微笑んで手鏡をバッグの中へしまい込んだ。
「修くん、これからどこ行く?」
修くん。彼女はいつから僕をそう呼ぶようになったんだろう。
僕をそう呼ぶのは家族とごく親しい友人に限られていた。
彼女はおいしそうにコーヒーを飲みながら僕の返事を待っていた。
僕はそれには答えず、財布の中から何重にも折られた1枚の紙を取り出して彼女に渡した。
「何?」
彼女はテーブルの上でそれを受け取り、丁寧に折り目を広げていった。
僕はそこに印刷された文書に目を通す彼女をじっと観察していた。

  - クラス会のお知らせ -
  皆様、元気でお過ごしでしょうか。
  このたび我が東中学3年C組(第38期生)のクラス会を開く事に
  なりましたので、お知らせいたします。
  日時  5月4日(日) 午後7時〜
  会場  居酒屋 一条(原田の名前で予約を入れておきます)
  つきましては、4月25日までに出席・欠席どちらかをお知らせ
  ください。
  よろしくお願いいたします。
  早いもので、僕たちも今年で26歳になります。
  結婚して子供がいる人も多い事でしょう。
  奥様、だんな様、お子様連れ、大歓迎。その時は参加人数も
  お知らせください。
  皆様のご参加をお待ちしております。
        東中学3年C組(第38期生)クラス会幹事 原田隆志

 里奈は幾度かその文書に目を通した。
目線が上から下へと動くのを何度繰り返した事だろう。
彼女はしばらくするとその紙をテーブルの上に置き、ちょっと残念そうな顔をした。
「修くん、クラス会なんだね。里奈のお休みと重なっちゃった。残念だけど、楽しんできて」
彼女はちょっと残念そうに、でもちょっとほっとしたように微笑んだ。
僕は2杯目のコーヒーを喉へ流し込み、考えていた事を口にした。
「里奈も一緒に行こうよ」
彼女の顔から微笑みが消えた。
「5月3日から休みなんだろ?」
「うん」
「だったら一緒に行けるよね?」
「……」
「僕の友達に里奈を紹介したいんだ」
「え?」
「一緒にクラス会に出てほしい」
彼女はその時、必死に断わる理由を探していた。僕にはそれが分かる。
「ダメだよ。だって、里奈は全然関係ないもん」
「そんな事ないよ」
「それに里奈は人見知りだし、皆とうまく話せない」
「僕が側にいるよ」
「だって、それに……」
里奈は思いつく断わりの理由を次から次へと並べ立てた。
でも、どれも説得力のないものばかりだった。
彼女はコーヒーを飲もうとしてやめたり、そうかと思えばやっぱり飲んだり、たばこの火をつけたと思ったらすぐに消したり、それでいてまたすぐに火をつけ直したり……とにかくひどくソワソワしていた。
こんなに慌てた彼女を見るのは初めてだ。

 僕は再びコーヒーを一口飲んで少し間を置いた。
どうしたら彼女は一緒に行くと言ってくれるだろうか。
里奈が断わるのに必死なら、僕は断わられないように必死だった。
「里奈、何も心配いらないよ」
「え?」
「何も心配するな。里奈にはホテルを予約しておいてあげるよ。僕は実家に泊まる。それに里奈には一切金を使わせない。僕が誘ってるんだから当然の事だよ」
彼女は珍しく大きな声で僕の言葉に反論した。
「里奈はそんな事言ってるんじゃないよ!」
小さな店の中に彼女の声が響き渡った。
カウンターの中で食器を片付けていたひげの店主が驚いて僕らのテーブルに目を向けた。
里奈は急に頬を赤らめ、下を向いてしまった。

 結論は出なかった。
僕らは気まずいまま喫茶店を出て会話もなくただブラブラと街を歩いた。
デパートの並ぶ辺りを歩くとショッピングを楽しむ人たちと随分すれ違った。
女は買い物が好きだ。連れの男は単なる荷物持ちにすぎない。
女の方は目を輝かせてウインドーの中を覗き込んでいるけれど、その後ろにたたずむ男は大抵両手に荷物を持たされてげっそりしている。

 里奈も例外ではなかった。
彼女はあるブランドショップのウインドーの前で立ち止まり、マネキンの着ているグレーのスーツに見とれていた。
襟はスタンドカラーで、ウエストが絞られたデザインだ。
少し長めのタイトスカートは長身な里奈にはちょうどいい長さに思われた。
僕はプライスカードに目をやった。高い。自社製品よりゼロが1つ多い。
彼女の横顔を見つめる。そして僕は決断した。
「里奈、これ買ってやるよ」
彼女はぽかんとした顔を僕に向けた。口許は「え?」と言っているけれど、声は出ていない。
「クラス会に着ていく洋服がないと困るしな。だから、買ってやるよ」
彼女はもう一度ウインドーの中のマネキンに目をやった。そして、プライスカードをしっかりと見つめた。
僕はその時頭の中で電卓を打っていた。
ボーナス払いにすればなんとかなる。ボーナスなんかなかったと思えばいいだけの事だ。
僕は自分にそう言い聞かせた。

 いつもの里奈ならここで首を振るところだ。
だけど彼女は少し考え、僕の目をみて真剣な口調でこう言った。
「洋服だけじゃダメ。靴とバッグも買ってくれなきゃダメ」
僕も真剣にそれに答えた。
「洋服と、靴と、バッグだな? それを買ってあげたらクラス会に来てくれる?」
彼女は黙ってうなづいた。
里奈はもう一度ウインドーの中を覗いた。
僕はウインドーに映る里奈だけを見つめていた。
僕らがその後すぐにそのショップへ入って行った事は言うまでもない。
僕のボーナス2回分は1日にして使い果たされた。

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