5.
5月4日、朝10時。天候晴れ。
僕は里奈を迎えに行く途中、慎重に車を走らせていた。
外の景色を見る余裕もない。信号と標識を見るだけで精一杯だ。
この日のために頼み込んで部長のベンツを借りてきていたんだ。
万が一車に傷をつけたりなんかしたら、もうアウトだ。そんな事になったら僕は本当に破産してしまう。
里奈のマンションの前へ着くと、彼女はもう外へ出て待っていた。
たった1泊だというのに大きなスーツケースを引き摺っている。そしてもちろん僕がプレゼントした洋服と靴とバッグを身につけている。
僕が目の前に車を止めても彼女は全く気づかない。
今まで何度かこうして彼女を迎えに来た事はあったけれど、その時はいつも会社の白いバンで来ていたんだ。
僕は一つ息をついてから車を降りた。僕の姿に気づいた彼女が黒塗りのベンツを確認し、目を丸くしている。
「ちょっと! この車どうしたの?」
僕はそれには答えずさっさと彼女のスーツケースを持ち上げ、トランクの中へしまい込んだ。
彼女は立派すぎる車をただじっと見つめていた。
「お嬢さん、乗りなよ」
助手席のドアを開けてやると彼女は戸惑いながらも車に乗り込んだ。
これでやっと出発だ。
彼女はハンドルを握る僕の横顔をじっと見つめていた。
その視線が気になってしかたがない。
「なんだよ? どうした?」
「別に。なんでもない」
「言いたい事があるんだろ? 言えよ」
「そのスーツ、素敵だね」
そう言われて僕は一瞬自分の着ているスーツに目線を落とした。
それはこの日のために社員割引を利用して仕立ててもらったごく一般的なグレーのスーツだった。
それでも僕にかなり気合が入っている事を彼女は分かってくれただろうか。
里奈は最近店に来た客の事をおもしろおかしく話して聞かせてくれた。
そして外の景色を見る余裕のない僕にいろいろと実況解説してくれた。
青い空に飛行機雲が浮かんでいる事。公園で子供たちが鬼ごっこをして遊んでいる事。パチンコ屋の前に人が大勢並んでいる事。
僕は楽しそうに話す彼女の声を聞いてほっとしていた。
彼女が直前になって「やっぱり行かない」と言い出すような気がしてハラハラしていたんだ。
でも、もう車は故郷へ向かって走り出した。
今夜が楽しみだ。
12時になった頃、僕らはドライブの途中で見つけたレストランへ立ち寄った。
駐車場が広く、和食を中心としたメニューを出している大きなレストランだった。
彼女は壁際の席に座った途端、僕の後ろで中学生くらいの女の子が食べている大盛りカレーを指さした。
直径30センチくらいある大きな皿にはご飯が山盛りで、その上には溢れんばかりのカレールーがかけられている。
それをせっせと食べ続ける女の子は随分華奢で、僕はかなり驚いていた。
「修くんもあれにしたら?」
彼女は冗談めかしてそう言った。
彼女はダイエット中という事で豆腐サラダを注文するに止まった。
僕の方はスタミナをつけようと、カツ丼を注文した。
店内は遠出をする人たちでいっぱいだった。駐車場ではキャンピングカーも何台か見かけた。
皆楽しみを目の前にしてはしゃいでいるようだ。
里奈も周りの皆と同じようにはしゃいでいた。
「このバッグ、ママに褒められちゃった」
彼女はそう言って僕が買ってあげた黒いバッグを大事そうに膝の上に置き、嬉しそうに微笑んだ。
僕には正直言ってそのバッグにどれほどの価値があるのか分からなかった。
でも、彼女が喜んでくれたならそれでいいと思っていた。
僕はただ目の前で微笑む彼女に見とれていた。
彼女は気づいているだろうか。自分がそこにいる誰よりも美しいという事を。
僕らの周りにはたくさんの人たちがいた。
カップル、家族連れ、女同士、男同士。本当に様々な組み合わせの人たちがいた。
その人たちの誰もが彼女に一目置いているのが分かる。
特に男たちが彼女に向ける視線は熱い。
彼女はその顔に、その背中に、その手に、その足元に、痛いくらいの視線を感じていたはずだ。
なのに彼女の目は迷う事なく僕だけを見つめている。
このまま時が止まってしまえばいい。
先の事なんか何も心配せず、過去の事なんかすっかり忘れて25歳のまま彼女とずっとこうしていたい。
再び車を走らせ午後2時を過ぎた頃、彼女の様子に異変が表れた。
心配していた事が現実になってしまうんだろうか。
「修くん、お願い。車を止めて」
そう言う彼女の顔は青白かった。僕は車を道路の脇に寄せ、停車した。
里奈は「頭が痛い」と言ってこめかみに手をあてた。
やっぱり無理だったんだろうか。
彼女を僕の友達に会わせる事は彼女にとって想像以上に大きな負担がかかる事だったんだろうか。
「ごめん修くん。ちょっと車を降りてもいい?」
「ああ、うん。大丈夫?」
「少し酔ったみたい」
「そうか。何か冷たい飲み物を買ってくるよ」
僕はすぐ近くの商店の前に並んだ自動販売機の方へと走り、スポーツドリンクを買った。
彼女は外へ出て車のドアに寄りかかり、空を見上げていた。
その時の彼女は表現しようのないほど悲しげに見えた。
今彼女がどれほど不安を感じているか。それは想像するに余りある。
苦しい。僕は彼女を連れてきた事を後悔しかけていた。
僕はゆっくりと彼女に近づき、スポーツドリンクを手渡した。
「ありがとう」
彼女はちょっと無理をして微笑み、僕の手からペットボトルを受け取った。
強い風に吹かれて彼女の髪が揺れた。
手櫛で髪を整える彼女の横顔はとても綺麗だった。
この横顔がいつも僕の心を惹きつけてやまない。
ますます風が強くなってきた。
道端の長く伸びた雑草が風をまともに受けて横倒しになっている。
もういい。帰ろう。それを見ていて僕はそう思った。
「里奈、帰ろうか」
僕はその時、彼女の強さを見た。
「うん! もう大丈夫。早く帰ろう、修くん」
彼女はいつもの笑顔でそう言った。とてもすっきりした顔だった。
「しばらく帰ってないんでしょう? 皆修くんの事待ってるよ」
そう言って彼女は僕より先に車へ乗り込んだ。
また一つ、彼女は乗り越えたんだ。僕にはそれが分かる。
強い。彼女はなんて強い人なんだろう。
僕は先に里奈のために予約した駅前のホテルへと向かった。
チェックインを済ませ、彼女の荷物を部屋へと運び入れる。
それからまたすぐに2人で車に乗り込み、僕の家へと向かった。
午後4時。帯広郊外の住宅地。
懐かしい我が家が見えてきた。
白い壁。芝生の上には犬小屋。その向こうはガレージ。
そこは紛れもなく僕の家だった。
もう何年も帰っていないのにちっとも変わっていない僕の家だった。
僕は家の前に車を止めた。
青いペンキで塗られた犬小屋の中から鎖でつながれた柴犬のルルが顔を出した。
ルルは尻尾を振りながら盛んに吠えている。
もうずっと会っていないのに、ちゃんと僕の事を覚えていてくれたようだ。
「犬、かわいいね」
里奈が車の中からルルを見て微笑んだ。
「紹介するよ、来て」
僕が外へ出ると彼女も同時に車を降りた。
僕が近づくとルルは思い切り大地を蹴って飛びついてきた。
気づいた時にはもう遅く、スーツにベットリ真っ黒な土がついてしまっていた。
「ルル! これ今日初めて着たんだぞ」
そう言いながらしゃがんで頭をなでてやるとルルは喜んで僕の膝に頭をこすりつけた。
里奈は3歩後ろから僕らのご対面を見つめていた。
僕は振り返って彼女を手招きした。
「里奈、おいでよ。噛んだりしないから」
「うん」
僕の隣に里奈がしゃがみ込むとルルは彼女に興味を示し、クンクンと匂いを嗅ぎまわっていた。
「おいで」
里奈が両手を差し出してそう言うとルルは彼女の手に前脚を乗せて立ち上がった。尻尾は
激しく振られている。
「こいつ、里奈の事が気に入ったみたいだ」
「かわいい。人懐っこいんだね」
僕はほっとしていた。彼女がいつも通りの笑顔を見せていてくれたからだ。
突然ベランダの戸が開いた。
家の中から姿を見せたのは今年21歳になる妹の沙矢香だった。
妹と会うのは5年ぶりだ。僕が大学生だった頃東京で会って以来の再会だった。
妹はしばらく見ないうちに女らしくなっていた。昔は髪を短く刈り上げて服装もボーイッシュな感じだったのに、今では髪を肩まで伸ばして赤いチェックのワンピースを身につけている。
「沙矢香、元気か? 久しぶりだな」
僕はルルの頭をなでながら顔だけを妹に向けていた。
しかし妹は僕の方なんか見てはいなかった。妹は今立ち上がったばかりの里奈だけを見つめている。
「こんにちは」
里奈がそう言うと妹が家の中へ引っ込んだ。
「ママ大変! 修くんがすごく綺麗な女の人を連れて来てる!」
家の中で妹が大きな声を出しているのが聞こえてきた。
それを聞いた里奈は恥ずかしそうにルルとじゃれ合う僕を見下ろしていた。
母さんはしばらく見ないうちに随分太っていた。
でも、それ以外は昔とほとんど変わりがない。
短い髪にパーマをかけ、水色のエプロンをしている。僕の記憶の中の母さんはいつもこうしたエプロン姿だった。
「さぁさぁ、入って。よく来てくれたわね」
僕らが玄関へ回ると母さんは青い色のスリッパを2つ並べて僕と里奈を家の中へ迎え入れようとした。
母さんに悪気はない。それは分かっているけれど、僕はちょっと淋しかった。
なんだか、青いスリッパがちょっと切ない。
僕はもうこの家ではお客さんなんだろうか。
僕は今まで家の中でスリッパを履いた事なんか一度もなかった。スリッパはいつだってお客さん用だったんだ。
僕は靴を脱ぐのをためらった。スリッパを履くのもためらった。
青いスリッパを履いて茶の間へ一歩足を踏み入れる。
そこは僕の記憶とは随分異なっていた。
ベランダを背にして置かれていた革張りのソファはグリーンの布地の物に変わっていた。白いテーブルも僕の記憶にない物だ。
テレビも新しく買い替えたようで、以前の物よりずっと画面が大きい。
でも、茶の間とキッチンを仕切っている黒いサイドボードは昔のままだった。
その中にはウイスキーのボトルがたくさん並べられ、それに混じって親父が会社の釣り大会で優勝した時のトロフィーや、妹の沙矢香が作文コンクールで佳作を取った時のトロフィーなどが飾られていた。
サイドボードの上には小さめの四角い水槽が置かれ、水の中を2匹の金魚がスイスイと泳ぎ回っている。
僕は昔お祭りに出かけて行くと必ず金魚すくいをした。
でも、この2匹はきっと僕がすくった金魚ではないのだろう。
僕が様々な思いを巡らせて立ち尽くしていると、突然母さんに腰をつつかれた。
小柄な母さんが僕を肘でつつくとちょうど腰の位置に当たる。
妹の沙矢香は何か言いたげに僕を見つめていた。
気づけば里奈はまだ茶の間の入口付近で遠慮がちに突っ立っていた。
僕は彼女を手招きし、2人に紹介した。
「里奈だよ。札幌で仲良くしてもらってるんだ」
「こんにちは」
里奈が2人に向かって小さく会釈すると、母さんは彼女を見上げて感嘆の声を上げた。
「驚いたね! こんなモデルさんみたいな人が来るなんて思ってもみなかったよ」
「里奈、座んなよ」
僕は母さんの言葉を無視して彼女にソファを勧めた。
僕が隣に座ると彼女は安心したようにほっと息をついた。
沙矢香が日本茶の入った湯呑みを4つ持ってきて白いテーブルの上に置いた。
母さんと妹の分はいつも愛用している安っぽい湯呑みだったけれど、僕と里奈には茶托を付けて来客用の物を出してくれた。
やっぱり僕はお客さん扱いだ。
母さんと沙矢香はソファに腰掛ける僕らと向かい合う形で床の上に腰を下ろした。
母さんのお尻に敷かれた座布団はもう古くなって白いカバーが破れかけていた。
僕らはソファで、母さんと妹は座布団。悲しいくらい切ない。
「ねぇ、里奈さんは何してる人? 修くんとはもう長いの?」
始まった。妹は人一倍好奇心が強い。昔から僕の付き合う女に興味津々なんだ。
「親父は?」
僕はなんとか話を逸らそうとした。あまり彼女の事を詮索してもらいたくない。
「パパは仕事。夜になったら帰って来るよ。ねぇ、里奈さんは何してる人?」
「沙矢香、失礼だぞ」
すると今度はターゲットが僕に向いてしまった。
「修くん、あのベンツどうしたの? 宝くじにでも当った?」
「バカ言うな。あれは借り物だよ」
その時里奈は意味深な笑みを浮かべて僕を見つめ、話に参加した。
「修くん、最近羽振りがいいよね」
「そうなの? ちょっと、白状しなさいよ。宝くじに当ったなら洋服くらい買ってよね」
僕は母さんにそう言われてドキドキしていた。
もしも里奈に洋服を買ってあげた事がばれたらタダじゃすまないはずだ。
「そうだよ! 修くん、洋服屋のくせに私にもママにもTシャツ一つ贈ってくれた事ないよね」
沙矢香がそう言った時、僕の上着のポケットの中で携帯電話が震えた。
助かった。僕はこれ見よがしに携帯電話を手に持って立ち上がり、茶の間のドアから廊下へと避難した。
「逃げた!」
ドアの向こうから沙矢香の声が飛んできた。
僕は切ないけれど、いい気分だった。
慣れないスリッパを履いていても、女3人から攻撃されそうになっても、なんとなくいい気分だった。
家というのはそういう場所なんだ。
これ以上リラックスできる場所は世界中探したってどこにもない。
今日帰って来て初めてそういう事が分かった。
僕はしばらく家の空気を忘れていた。大学へ進学して以来一度も家へ帰る事をしなかった
せいだ。
こうして黙って迎えてもらえる事は当り前なんかじゃない。それはすごく幸せな事なんだ。
僕にその事を気づかせてくれたのは里奈だった。
帰れるのに帰らなかった僕。帰りたいのに帰れない里奈。
数年ぶりに帰っても黙って迎えてくれる家族。里奈には今そういう人たちがいない。
彼女と2人床に座布団を敷いて座り、安っぽい湯呑みでお茶を飲みながら母さんや妹と同じ目線で話をするようになりたい。
里奈を早く家族の一員にしたい。
僕は家へ帰ってますますその思いが強くなっていた。
ただ一方ではこの後の事が気になって皆の話に入り込む事ができずにいた。
この後が勝負だ。そうさ。勝負はこれからなんだ。