6.
クラス会は午後7時開始だ。
僕らはタクシーを呼んで6時半には家を出た。外はほんの少し薄暗くなっていた。
母さんと沙矢香は僕らが車に乗って走り去るまで見送ってくれた。
残念ながら、親父は僕らが家を出るまで帰って来る事はなかった。
タクシーの中で里奈はいつもの手鏡を取り出して簡単に化粧を直していた。
車の中には柑橘系のいい香りが漂っていた。彼女の香りだ。
彼女の緊張感が伝わってくる。僕も同じように緊張していた。
中学のクラス会はこれまでにも2回行われていたけれど、僕は2回とも参加していなかった。
初めて参加するクラス会に彼女を連れて行くなんて、僕自身想像もしていなかった事だ。
僕は流れ行く外の景色に目をやった。
まだ夜になり切っていない中で必死に光を放つネオンが少しずつ見えてきた。
"居酒屋 一条"は古めかしいビルの3階に入っているわりと大きな店だった。
店の前へ立った時、里奈の緊張はピークに達していた。
ガラス戸の向こうにはすでにビールジョッキを片手に談笑している客の姿が見える。
「里奈、大丈夫か? 緊張してる?」
彼女の顔は引きつっていた。本当は逃げ出したいはずだ。でも、ここさえ乗り切ればきっとうまくいく。
「修くん、里奈の格好変じゃない?」
僕は彼女の姿を上から下までじっくりと観察した。
スーツの着こなしはバッチリだし、いつもと変わらず眩しいほど綺麗だった。
「里奈はいつも通りだよ。僕がずっと側にいるから、平気だね?」
彼女が小さくうなづいた。
大丈夫さ。きっとうまくいく。
僕は自分にそう言い聞かせ、勢いよくガラス戸を引いた。
すぐに従業員の女の子を見つけてこう告げる。
「原田で予約してるんだけど」
僕らは店の奥に位置する和室へと案内された。
里奈はいつものようにカンカンカンと小気味いい足音を響かせて、僕の後をついてきた。
さぁ、クラス会の始まりだ。
靴を脱ぎながらほんの少し襖を開けて中の様子を伺ってみる。
もうそこには10人ほどが集まってお喋りを始めていた。
畳の擦り切れた部屋に女たちの笑い声が響き渡っている。
テーブルの上にはすでにいくつものビールジョッキが置かれていた。
皆もう飲み始めているらしい。全く、気の早い連中だ。
全部女ばかりかと思ったら、僕はその中にたった1人だけ男の姿を見つけた。
中学の頃1番仲のよかった隆志だ。彼は幹事として早めにここへ来ていたのかもしれない。
皆が僕に注目した。隆志はいち早く掘りごたつを抜け出して僕を迎えに来てくれた。
彼は部屋の内側から勢いよく襖を開け、昔と変わらない笑顔を見せてこう言った。
「修くん、久しぶりだな!」
「隆志、全然変わってないな」
彼は本当に昔のまま。中学生のままでそこにいた。
真っ黒な髪、するどい目つき、がっしりした体つき、それにかん高い声。
「待ってたんだぞ。早く入れよ」
「ああ、うん」
隆志が僕の後ろの彼女に気づいた。
2人の目が合った。心臓が張り裂けそうな瞬間だ。とうとうこの時がやってきた。
隆志は彼女から目を逸らし、早口で僕に問い掛けた。
「修くんの奥さん?」
「いや、そうじゃない。隆志、彼女は……」
僕が言葉を続けようとした時、里奈がそれを遮るように隆志に向かって挨拶をした。いつものようにハスキーな声で。
「こんばんは。里奈です。修くんとはお友達なの」
一瞬口ごもった僕がいけなかったんだろうか。里奈は僕が何を言おうとしているか気づいていたんだろうか。
とにかく彼女がそう言った瞬間、終わったと思った。
僕の決意も、ボーナス2回分のプレゼントも、とにかく今までの苦労がその一言ですべて水の泡となってしまった。
本当にあっさりとすべてが終わってしまった。
僕がその時どれほどショックを受けていたか、そこにいる連中には分かるはずもない。
僕にはもうなす術がなかった。
僕は頭が真っ白になり、呆然とその場に立ち尽くす事しかできなかった。
いったいどうやって掘りごたつへたどり着いたのか自分でもよく分からない。
出だしから何もかも最悪だった。
僕が里奈を連れて部屋へ上がると女たちは急に静まり返った。里奈は居心地悪そうに僕の隣にいた。
その後女たちは里奈を無視して盛んに僕に話しかけてきた。
彼女たちは誰1人里奈に声をかけようとはしなかった。
でも、僕には分かっている。彼女たちはあまりに綺麗な里奈に嫉妬しているだけだ。
女たちは皆それぞれオシャレをしていたけれど、里奈にかなう者は1人もいなかった。
その事が女たちを里奈から遠ざけているのは明らかだ。
でもそれは僕らにとってそれほど問題ではなかった。
里奈にもきっとそれは分かっていたはずだ。
とにかく、僕らはもう来てしまった。クラス会は始まってしまったんだ。
こうなった以上、とりあえず皆に付き合うしかない。
本当は思い切りテーブルをひっくり返して帰りたいところだ。でも、僕はもう中学生ではない。僕はもう立派な大人だ。
ここはちゃんとした大人の振る舞いをしなければならない。
僕は自分にそう言い聞かせていないと本当にテーブルをひっくり返しそうだった。
「修くん、どうした? 元気ないな」
向かい側に座っている隆志が心配そうに僕の様子を伺っている。
僕は今どんな顔をしているんだろう。
いけない。こんなんじゃいけない。僕は気を取り直して笑顔をつくった。
「全部で何人来るんだ?」
僕はどうでもいい質問を隆志にぶつけてみた。そんな事、本当にもうどうでもいい事だった。
しかし、この一言が裏目に出るとは夢にも思わなかった。
「参加は18人だな。出欠の返事が来てないヤツも5人くらいいる」
「そうか」
「あとさ、諏訪由香里だけ連絡先が分からなかったんだ。あいつの家、引越したみたいでさぁ……」
隆志のかん高い声が畳の擦り切れた部屋に響き渡った。
僕は動揺した。心臓がバクバクいってるのが分かる。
「クラス会に誘いたくてもどこへ行ったか分からないんだよ」
里奈はその時、黙ってただ僕の隣にいた。表情一つ変えずに、黙って僕の隣にいた。
そして他の女たちはその話に加わった。
「諏訪さんなんか誘っても来ないよ」
「あの人暗かったし、クラスに友達なんかいなかったじゃない」
「そうだよね。放っておけばいいんじゃない?」
「私、あの人の顔なんかもう忘れちゃった」
「あの人がいなくたって誰も気にしないよ」
女たちは口々にそう言って笑った。
テーブルの上には空いたビールジョッキがいくつも並べられていた。皆もうすでに酔っているんだ。
僕はそう思って彼女たちの発言を水に流そうとした。だけど、とても我慢ができなかった。
素晴らしい洋服を着て顔は綺麗に化粧をしていても、なんて醜いヤツらなんだ。
畳は擦り切れ、壁は薄汚れている。どうして僕がこんな所でこんなヤツらと酒を飲まなくちゃいけないんだ!
「お前ら……」
僕が女たちに対して爆発しかけた時、いさめてくれたのは里奈だった。
「そんな怖い顔しないで。修くん、楽しもうよ」
里奈は笑顔でそう言った。いつもと変わらない笑顔でそう言った。
僕はその時、彼女を失ってしまいそうな不安に押しつぶされそうだった。
そこへ更に追討ちをかけるような出来事が起こった。
僕が熱くなっていたその時、閉ざされていた襖が突然開いて髪の薄い男と綺麗な女が姿を現した。
僕は息を呑んだ。
髪の薄い男は僕らの担任だった中橋先生だ。彼は明らかに年を取っていた。
以前より髪が薄くなったからそんな印象を与えてしまうんだろうか。
よく見るとそれ以外は昔とそう変わらない。
金縁のメガネも、その奥の優しい目も、細い体も、全部昔のままだ。
そして彼の隣にいる女。それは国語の教師だった金本先生だ。
2人の姿を見た途端、皆が歓喜の声を上げた。誰彼となく立ち上がって2人に近づき、自分の側に座るようにと勧めている。
僕は一歩も動かず冷めた目で金本先生を見つめていた。
昔は足首が細く、ウエストは引き締まり、アゴが尖っていたけれど、今は以前より少しふっくらした印象だ。
顔は丸くなり、腹部には脂肪がつき、ウエストのくびれはもうほとんど存在しない。
黒いゆったりしたワンピースを着ているのはそれを隠すためなのかもしれないが、あまり効果的とはいえないようだ。
だけど、男子生徒たちを虜にした茶色い瞳とかわいらしい笑顔は健在だ。
軽くパーマのかかった長い髪も昔のままだった。
金本先生は僕から1番遠い所へ座った。
だけど、数え切れないくらい目が合った。もうここから逃げ出したい。
その時僕を助けてくれたのは里奈だった。彼女は僕の腕を軽く揺すってこう言った。
「修くん、里奈ホテルに大事な忘れ物しちゃった。取りに行ってもいい?」
「え?」
里奈と目が合った瞬間、彼女の気持ちがすぐに分かった。
僕らは言葉を交わさなくたって、いつだって分かり合えた。
「どうしても今行かなくちゃいけないのか? 後でもいいだろ?」
隆志は本気で彼女を引き止めてくれた。隆志、どうもありがとう。
僕は彼に申し訳ないと思いつつ里奈を促がしていち早く立ち上がった。
「里奈を送ってくる」
急いで靴を履き、足早に店を出る。
後ろを追いかけてくるカンカンカンという足音もテンポが早い。
僕はさっさと外へ出て歩道を足早に歩いた。早くあの店から遠ざかりたい。僕の頭にはその事以外に何もなかった。
もうとにかくあそこにいたくなかった。少し頭を冷やしたい。
「修くん待って! 歩くの早いよ」
そう言われて振り返ると、里奈が歩道の上に立ち止まって息を弾ませていた。5メートルほど後ろだ。
すれ違った男たちが彼女の姿を見て口笛を鳴らしている。
僕は自分本位だった事を反省し、彼女の元へ引き返した。
「里奈、ごめん。側にいるって約束したのに、ごめん」
彼女はきっと僕の顔色が冴えない事に気づいていた。でも、決してその事に触れようとはしなかった。
「ごめんね、修くん。忘れ物したなんて、ウソなの」
ふいに彼女がそう言った。僕はもちろん首を振った。そんな事は言われなくても分かっていた。
「里奈は人見知りだから、皆の輪に入れそうもない。だから……ごめんね」
「僕の方こそごめん。嫌な思いをさせたね」
「ううん」
僕は腕時計に目をやった。まだ早い。8時前だ。
「どうする? 2人で飲み直そうか?」
今度は彼女が首を振る番だった。
「里奈はホテルへ帰る」
僕にはとても彼女を引き止められなかった。彼女は緊張が続いて相当疲れていたはずだ。
「ここからホテルまで歩いて20分くらいだけど、タクシーに乗ろうか?」
「ううん。少し歩きたい」
「そうか、じゃあそうしよう」
歩きたかったのは、本当は僕の方だった。彼女は僕の気持ちを読んでいたに違いない。
僕は今度はちゃんと歩幅を合わせて彼女の隣を歩いた。
外はもう真っ暗だった。
もうすぐ僕らの大切な1日が終わってしまう。そう思うとひどく悲しかった。
里奈は周りを見ながらゆっくりと歩いた。そうか。彼女もやっぱり歩きたかったんだ。
僕も彼女の目線を追いかけた。しばらく見ないうちに故郷の景色はだいぶ変わっていた。
美容室の隣は弁当屋だったはずなのに今はそば屋になっている。
そば屋の隣はコンビニだけど、たしか以前はそうじゃなかった。
ラーメン屋は相変わらず同じ場所にあった。いい加減薄汚れたのれんが懐かしい。
里奈は今、何を考えているだろう。僕にはもうそれを聞く元気はない。
ラーメン屋の前を通り過ぎた時、僕は彼女に言っておきたかった事を口にした。
もう僕は冷静さを取り戻していた。
これだけは、これだけはちゃんと言っておきたい。
「里奈、悪かったな。あの女たち、酔ってたんだ。里奈にあんなつまらない話を聞かせるなんて。
普段は人の悪口を言うようなヤツらじゃないんだよ」
彼女は何も言わず、ただ口許で微笑んだだけだった。
「僕は、諏訪さんに会いたかった」
彼女の足が一瞬止まりかけた。でもすぐにまた今まで通り歩き出した。
「彼女はいい人だった。皆が言うような人なんかじゃない」
彼女が急に早足になった。僕の前を歩こうとする彼女がどんな表情をしているのか読み取る事ができない。
「里奈、歩くの早いよ」
彼女は立ち止まり、ゆっくりと僕を振り返った。いつもの笑顔だった。
僕は再び彼女と並んで歩き始めた。
2人とももう周りの景色を見る事はしなかった。
「さっき、先生が来ただろ?2人」
「うん」
「女の先生、見た?」
「あの人、修くんの事ずっと見てたね」
彼女は僕の目を見なかった。僕も彼女の目を見なかった。
きっと彼女はちゃんと話を聞いてくれる。それが分かったから、僕は話し始めた。
たとえそれが独り言になったとしても構わない。とにかく、僕は話したかったんだ。