10.
夢を見た。
俺は真っ白な部屋で白衣を着た先生と何かを話している。
分かった。今日は退院する日だ。
先生は最後に俺に何を言ったんだろう。夢の中ではそこまで分からない。
やがて俺は先生と一緒に真っ白な部屋を出て長く薄暗い廊下を歩いていった。
正面に病院の裏口が見えてくる。
その時、強い光を感じた。どうやら外は晴れているらしい。
しばらくずっと建物の中へこもっていたから外へ一歩踏み出した時には太陽に目がくらむかもしれない。
ほんの少しだけ足がすくむ。
ここを出てしまえばまた現実と直面する事になるんだ。
両親は俺が帰った事でがっかりするかもしれない。
俺の知らないところで先生に長期入院を哀願したような人たちだ。あの人たちとこの先うまくやっていけるだろうか。
そして俺は?
この夏起こった事をすべて闇に葬り、何もなかったような顔で学校へ通い、普通の人たちと共に授業を受け、時には友達と語り合い、今まで通り生きていく。
俺にそんな事ができるんだろうか。
不安でたまらない。
両親の言うように俺は一生ここで暮らした方がいいんじゃないだろうか。
多分この先誰も俺を理解しようとする人はいない。
それが分かっているからここを出るのが怖くてたまらない。
自分1人で現実と戦い、太陽の下で生きていく。そんな事が本当にできるだろうか。
"先生、もう少しここにいさせて"
その一言が言いたくてたまらないのに何も言う事ができない。
だって、これは夢だから。
俺はいつだって夢をコントロールする事ができなかった。
それができればもう少しマシな生き方ができたのに、いつもいつもこうだった。
本当に言いたい事は言えないし、思ったように動く事もできない。
体が重い。何かに押さえつけられているように重くて身動きができない。
先生は俺を見送るため、一緒に外へ出て来てくれた。
思った通りだ。太陽が眩しい。
外はとても暑くてすぐに汗が吹き出してくる。
外の景色はあの真っ白な部屋と何一つ変わりがなかった。
木や車の輪郭だけははっきりと分かるけど、すべてが真っ白で色がない。
ただ、しばらくすると空が青いっていう事だけはよく分かった。青い空には白い雲が浮かんでいた。
先生が俺の背中を押した。
俺はゆっくりと歩き出す。
本当は"行きたくない"と言ってしまいたい。これが夢じゃなかったらそう言ってしまうかもしれない。
裏口の門が近づいてくる。
俺は一度だけ病院を振り返った。するとそこにはちゃんと先生がいて、俺に両手を振ってくれた。
これ以上ここにいると未練が残る。もう振り返るのはよそう。
俺は前だけを見て歩いた。靴の底には時々小さな石ころを踏む感触がはっきりと伝わってくる。
俺は歩いている。
現実に向かってちゃんとしっかり歩いている。
裏門まであと10歩。
そこまで来た時、急に足が動かなくなった。
眩惑が解消されて突然視界に色鮮やかな景色が映し出された。
門の色はベージュだったんだ。さっきまでは分からなかった。
俺が踏みしめている大地はちゃんと土の色をしていた。
木の葉は緑で、たんぽぽの花は黄色だった。
だけど、やっとカラーになった映像の中でただ1ヵ所だけ真っ白な部分がある。
あれはなんだろう。
俺は目を凝らしてその真っ白いものを見据えた。
あれは天使だ。白く目に映るものは天使の羽だ。
彼女は長く伸びた髪をけだるそうにかき上げた。ほんの少し風が吹いて白いワンピースのすそが揺れている。
彼女の細い腕は真っ黒に日焼けしていた。
どこかでセミが鳴いている。夢では聞こえないはずのセミの声が今はちゃんと聞こえている。
俺は何かを言おうとしたけど、セミの声にかき消されてしまいそうな気がしてやめた。
彼女が俺に気づく。
すると彼女は白い歯を見せて笑った。
彼女が俺に向かって何かを叫んでいる。だけど、セミの声しか聞こえない。
亜矢ちゃん、君は今なんて言ったの?
また君に会えるなんて思ってもみなかった。
この夢はちゃんと現実とつながっているんだろうか。
君はもう一度俺と向き合ってくれるんだろうか。
とても不安だ。不安で、怖くてたまらない。
もしも君に二度と会えないのならもう目が覚めなくたって構わない。
夢の中でいい。ずっと君と一緒にいたい。
もしもその願いが叶うなら、ずっとずっと夢を見ていたい。
決して覚めない夢を見ていたい。