エレベーターボーイ
 3.

 エレベーターボーイとして初仕事を終えた日。 僕はその日、機嫌よく鼻歌を歌いながら家路についた。
その日は金曜日だったけど、珍しいエレベーターボーイ見たさに女性客がいっぱい来店してくれた。
首にカメラをぶら下げたプレスの人たちがお客さんを呼んでくれたところもある。 通りかかった人たちはカメラが集まる場所に興味を示して店へ入って来てくれたんだ。
僕はその日1日で何度携帯電話のカメラを向けられた事だろう。
「制服が素敵ね」と話す女性の声を何度背後で耳にしただろう。
帰り道。夕焼け空がいつもより何倍も綺麗に見えた。
風に揺れる木々の葉も、道端に咲いている白い花も、いつもよりずっと素敵に見えた。

 「ただいまー」
家へ帰ると僕は元気よくそう言って茶の間へ乗り込んだ。
父さんは柔らかなソファに腰掛け、苦々しい顔つきでテレビのニュースを見ていた。
テーブルの上には半分以上飲みほされている瓶ビールが1本と、空になった小さなビールグラスが置いてあった。
僕は父さんの目線を追ってベランダの手前に置かれた大型テレビを見つめた。 すると横長のテレビ画面の中に、照れくさそうに微笑む制服姿の僕が映った。
「父さん、これ僕だよ」
「そんな事は分かってる!」
父さんの鋭い声が僕の浮かれ気分を遮断した。
父さんは空になったビールグラスの中へ琥珀色の液体をなみなみと注ぎ、それをぐっと一気飲みした。
まだ夕方6時だというのに、父さんの顔は赤かった。 半分くらい白くなっている髪の下の頭皮までもが赤くなっていた。
「優作、ちょっと座れ!」
その時の父さんは恐らく誰の目から見ても不機嫌だった。 でも父さんは僕といる時は大体いつも不機嫌だ。
眉間の皺はトレードマーク。
眼光鋭い目つきは隣に腰掛けた僕を睨みつけ、愛情の感じられない言葉が容赦なく口をついて出る。
「お前、明日面接へ行け。採用は決まっているから、一応形だけの面接だ」
父さんはすでに酒臭かった。
僕は父さんの手から乱暴に白い大型封筒を押し付けられた。 上から中身を覗くと、会社案内と書かれたパンフレットがちらっと見えた。

 父さんは僕が中山デパートへ就職する事を嫌った。 内定が出た時も、ちっとも喜んでくれなかった。
僕が就職した後、いったい何度こんな事を繰り返したか分からない。
父さんはお堅いお役所勤めで、頭もカチカチに硬い。
父さんは僕にも堅い仕事に就く事を望んでいた。デパート勤務だって堅いといえば堅いけれど、中山デパートは壁にヒビが入って閑古鳥が住むポンコツデパートだ。
父さんは、そんな所へ勤める僕を恥じているようだった。 だからしょっちゅうこうして会計事務所やら不動産会社へのコネ入社を勧めてきた。
「エレベーターボーイなんて、みっともない。客寄せパンダみたいなもんだ。父さん恥ずかしくて職場へ行けないよ」
そう言って俯き、唇を噛み締めている父さん。 白いワイシャツに包まれた肩が、微かに震えていた。
僕はとても悲しくて、すぐに茶の間を飛び出した。

 階段を駆け上がり、自分の部屋へ飛び込んで斜めがけにしていた青いショルダーバッグを床の上におろす。
僕は畳の上に座り込み、両手で丸いクッションを抱えた。
僕を包み込んでくれるのは柔らかなクッションとオレンジ色の夕日だけだ。
しばらくそうして座り込んでいると、ズボンのポケットの中で携帯が震えた。
クッションを抱えたまま携帯の液晶画面を見つめると、福岡へ転勤した兄ちゃんからの電話だという事が分かった。
「もしもし」
電話の向こうには、ざわめきをBGMにした兄ちゃんの大きな声が聞こえた。
「ユウ? 今日の夕刊見たぞ。お前、あの制服似合うじゃないか」
後で分かった事だけど、エレベーターボーイを置く事は今のデパート業界では斬新とされ、地方紙にまで小さな記事が載ったようだった。
「兄ちゃん、見てくれたんだね」
「お前の事が書いてある記事、ハサミで切って手帳にしまっておいたよ」
僕は耳に携帯を当てたまま、膝の上に抱えているクッションに顔を埋めた。僕はいつもこうして1人で泣く。
「ユウ?」
「何……?」
たった一言そう言うのが、僕には精一杯。
兄ちゃんの優しい言葉よりも父さんのきつい言葉が僕の心を支配していた。
きっとその時兄ちゃんは、僕が泣いている事に気付いたはずだ。
「ユウ、半年勤めたら有給が取れるだろう?」
「うん」
「こっちへ遊びに来いよ。九州は初めてだろう? 飛行機代くらい出してやるからさ」

 兄ちゃんは優しくて、頭が良くて、一流企業に勤めている。 兄ちゃんは父さんの理想の息子だった。
今年の3月、兄ちゃんは転勤で福岡へ行った。
そして僕は中山デパートへ就職した。
家に父さんと2人きりになった僕は、こうしてクッションを抱える事が多くなった。

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