エレベーターボーイ
 5.

 エレベーターのドアの上には地下2階から最上階までを表す数字が横に並んでいて、各フロアを通過するたびにその数字が点滅する。
お客さんは僕に行きたいフロアを告げた後、大抵黙ってドアの上の数字が点滅して移動するのを見ている。 そして目的のフロアが近づいた事を知ると後方にいたお客さんは前の方へ移動し、ドアが開くのを待っている。
「3階でございます」
「どうもありがとう」
ドアが開くと、上品な花柄のスーツを着たご婦人が3階のフロアへ降り立った。 僕は「ありがとう」と言われると、とても嬉しくなる。
次は8階まで止まらない。
僕は6階を通り過ぎた頃、催し物のご案内をしようと思っていた。 でもちょうどその時僕の背中に落ち着いた女性の声が飛んできた。 こういう時は、お客さんとの会話が優先される。 お客さんに背中を向けたままで会話する事が許されるのは、エレベーターボーイの特権かもしれない。
「ここの屋上は閉鎖されてるのねぇ」
「はい。さようでございます」
「昔は子供の遊び場になっていたのに。娘が小さい頃、よく連れて行ったものよ」
「そうですか。ありがとうございます」
僕は、自分の目線と同じ高さにある "R" のボタンを見つめた。それは屋上階を表すボタンだ。 試しに押してみたけど、案の定反応はなかった。 通過するフロアのボタンを押しても、そのボタンに光が灯る事などあるはずはない。
僕は今までこのボタンを一度も押した事がなかった。 屋上階は入社当時から当然のように閉鎖されていて、開かずの扉になっていたんだ。 ドアの上に並ぶ数字を見上げても、最上階を表す "10" という数字までしか光が灯る事はない。 1番右に "R" という表示は一応あるけれど、その表示が点滅する所はもちろん見た事がない。
「随分昔にここの屋上から飛び降り自殺した女の人がいたわね。 それ以来ずっと閉鎖されているみたいだけど、もう屋上を開放するご予定はないの?」
僕は乗り物酔いをする体質なんかじゃないのに、その時エレベーター特有のふっと浮き上がる感覚がちょっと気持ち悪いと感じた。
そんな事は初耳だった。屋上の閉鎖にそんな訳があったなんて、全然知らなかった。
「申し訳ございません。そういう予定は、聞いておりません」
僕は斜め後ろをちらっと見ながらそんなふうに返事をした。
僕に声をかけたのは、薄紫色の涼しげな着物を着た60代くらいのご婦人だった。
「残念ね。屋上から見る景色は素晴らしいのに」
「お客様のご要望は、上の者に申し伝えておきます」
エレベーターが止まるガクンという衝撃があり、その後すぐに8階でドアが開いた。 着物を着た小柄なご婦人は「ありがとう」と言ってフロアの奥へ消えていった。

 僕は1号機の中で1人きりになると、目の前に並ぶボタンを見つめて1つため息をついた。 エレベーターの中は落ち着いた照明が薄っすらと僕を照らしているだけで、なんだか家にいる時よりほっとする。
「ごめんなさい。7階へ行きたかったのに言い忘れちゃったわ」
僕は四角い箱の中に突然響いたその声を聞いて死ぬほど驚き、思わず体を180度回転させて後ろを振り返った。
勢いよく動いたためにずれてしまった頭の上の帽子をそっと右手で押さえながら。
もう誰も乗っていないと思い込んでいたのに、僕の正面に若い女の子が立っていた。 彼女は四角い箱の角に寄りかかり、輝くような笑顔を僕に向けていた。
「し、失礼しました。最上階へ着いた後、7階へご案内いたします」
僕は彼女の目を見てそう言った後、再び180度体を回転させてボタンと見つめ合った。 今度はため息ではなく、7階のボタンを押しながら1つ小さく深呼吸した。
僕の後ろに立っている女の子は、すごく綺麗だった。彼女は恐らく僕と同じくらいの年だと思われる。 輝くような笑顔と真っ直ぐな黒髪と淡いピンク色のワンピースが眩しくて、当分彼女の姿を忘れられそうにない。
「優作くんっていうんだね」
1号機が最上階へ着く直前に、また彼女から声を掛けられた。
僕は胸の名札に目を落とした。"小笠原優作" 彼女は名札に刻まれたその文字を見てそう言ったに違いない。
「優作くん、私の初恋の人にそっくり」
信じられないような言葉が僕の背中に浴びせられた。
エレベーターが壊れて停止してしまえばいい。僕はその時、初めてそう思った。
だけどデパートのエレベーターがそう簡単に壊れるはずはなく、あっという間に最上階である10階に着いてしまった。
スーッとドアが開き、明るい光が1号機の中へ差し込んでくる。
幸いその時、最上階でエレベーターを待っているお客さんは1人もいなかった。 僕は誰も来ないうちに早くドアを閉じようと思い、"閉" のボタンを静かに連打した。 こうして僕は7階へ着くまでの短い間、彼女と2人きりでいる事に成功した。

 でもすぐにまたエレベーターが止まるガクンという衝撃を感じ、7階に着いて1号機のドアがあっさりと開いてしまった。
名残惜しい。でも、お客さんとエレベーターボーイは刹那な関係なのだ。
だけど、だけど、だけど、たまにはそうじゃない事だってある。僕にそれを教えてくれたのは、輝く笑顔の彼女だった。
「私、小雪っていうの。良かったら電話して」
彼女はドアを出る直前に小さなメモ紙を僕の左手に握らせた。
僕はドアが完全に閉じるその瞬間までずっと彼女の後ろ姿を見つめていた。 フワッとしたピンク色のワンピースの裾が踊り、彼女の長い髪もピンク色の背中の上で揺れていた。

 ドアが完全に閉じた。
振り返って、今度こそ1人きりである事をしっかりと確認する。 今度こそ白い壁に囲まれた四角い箱の中には僕以外に誰もいなかった。
僕は急いで二つ折りにされたメモ紙を広げてみた。 そこには "090" で始まる携帯の電話番号がブルーの文字で綴られていた。

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