エレベーターボーイ
 6.

 僕は小雪さんに電話しようかどうしようか、三日三晩考えた。
エレベーターボーイになる前、研修でいくつか厳しく注意された事がある。 その1つが、お客さんと深い仲になってはいけないという事だった。
いったいどこからが深い仲なのかよく分からなかったけれど、マジメだけが取り得の僕はその言葉に縛られて彼女へ電話する事に二の足を踏んでいた。
本当はすぐにでも声が聞きたかった。
本当はすぐにでも会いたかった。

 小雪さんと初めて会ってから4日目の夜、仕事を終えて社員専用出口から外へ出ると「小笠原くーん」というハスキーな声が僕を追いかけてきた。
振り返ると、2号機のエレベーターボーイの中でも人気ナンバーワンの井上くんが石畳の歩道の上を駆け抜けてきた。
白いTシャツにボロボロのジーパンという姿の彼。 でも、長いまつ毛とツヤツヤな肌と長い足がその服装を小奇麗に見せるから不思議だ。
「真っ直ぐ帰るのか?」
井上くんは僕に追いつくと、そんな事を聞いてきた。
彼とは同期入社で、年も同じだった。僕が社内でタメ口で話せる人は彼くらいのものだった。
「うん。帰るよ」
僕は当然のごとくそう答える。 その日の僕らは遅番で、もう外はすっかり夜になっていた。 しかもなんとなく空気が湿っていて、今にも雨が降り出しそうな気配だった。こんな日はさっさと家へ帰って寝るに限る。
でもそれは僕の暮らしであって、井上くんの暮らしは僕とはちょっと違っているようだった。
「俺さぁ、今日客とデートなんだ。すごくかわいい子なんだぜ」
悪びれる様子もなくそう言う彼。
でも、考えてみれば私服に着替えて繁華街の人ごみに呑まれる僕たちは、もうエレベーターボーイではなくただの1人の人間だった。
「小笠原くんも客に誘われたりするんだろ?」
繁華街で信号待ちをしている時、陽気な声でそう言われた。
きっと彼は毎日いろんなお客さんから誘われているに違いなかった。 僕はたった1人だけ好意を寄せてくれた小雪さんの事で悩みに悩んでいるというのに。

 目の前の信号が青に変わり、僕らと共に周りの大勢の人たちが一斉に横断歩道を渡り始める。
前方に見える新しいデパートの明るい入口付近には人がいっぱいいた。 あの半分でもいいからうちの店へ来てくれたらいいのにな……と僕は思っていた。
井上くんは地下鉄の駅へ向かう僕とは反対方向へ行くようで、僕らはその後すぐに別れた。
駅へと続く地下道へ潜る直前。僕は石畳の上を歩く人たちをじっと観察した。
若い女の子は皆オシャレだ。 髪を頭の上でまとめたり、真っ赤な色に染めたり。
鮮やかな色のサマーニットを身に着けたり、ハラハラするくらい短いスカートを履いたり。
でも、どこを見回しても小雪さんのように上品な女の子はどこにもいなかった。
色が白くて、薄化粧で、それでも光り輝いていて、お嬢さんっぽいフワフワなワンピースを着ていた彼女。
小雪さんは、綺麗すぎる。僕にはとても似合わない。 あんなに綺麗な人が僕のように平凡な男を気に入ってくれるなんて、とても信じられない。
でも、また会いたいな。
そう思っているうちに僕の低い鼻に雨粒がポツリと当たり、僕は慌てて地下道へ潜り込んだ。

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