エレベーターボーイ
 8.

 9月16日。小雪さんとの初デートの日。
僕はこの日のためにカタブツな父さんに頼み込んで車を借りた。
父さんの車はオヤジくさい乗用車だったけど、小雪さんがドライブへ行きたいと言うのでどうしても車が必要だったんだ。
彼女が僕に初めて電話をくれたのは、2日前の事だった。
仕事を終えて家へ帰る途中。日が沈むちょっと前の事。
家まであと歩いて3分という時。家の近くの本屋の前を通りかかった時に、ズボンのポケットの中で携帯が震えた。
「こんにちは。小雪です」
ずっと彼女からの電話を待っていた。でもそんな気持ちを隠すように、ごく普通に返事をした僕。
「こんにちは」
「16日の日、ヒマだったら会いたいんだけど、どうかなぁ?」
"どうかなぁ?" という言い方には妙な強引さがなく、とても心地いい響きだった。
「うん。会おうよ」
僕はでこぼこな道を弾むように歩きながら、弾むような声でそう答えた。
子供の頃よくやったように、自分の影を飛び越えようと時々ジャンプしながら。 彼女の声を聞き逃すまいとして耳にしっかり携帯を当てながら。
「小雪さん、どこ行きたい?」
「ドライブ!」
僕は免許は持っているけど車は持っていない。 でも彼女がそう言うならなんとか父さんの車を借りて望みを叶えてあげたいと思った。

 夕方6時に仕事を終えた後。どんよりした空の下。
車の多い繁華街を抜けるまで、いったいどれだけ時間がかかっただろう。
僕は彼女に会うために父さんの車をゆっくりと走らせていた。
あまり運転に慣れていないため、時々他の車にクラクションを鳴らされながら。
前へ身を乗り出し、とにかく事故らないように、信号と標識だけは見逃さないようにと、最善の注意を図りながら。
小雪さんは中山デパートからはちょっと離れたレンタルビデオ屋を待ち合わせの場所に指定した。
僕は彼女の事を何も知らなかったけど、もしかしてその近くに彼女の家か職場があるのかもしれないと漠然と思っていた。
ビデオ屋のガラス張りの店内からは、眩しい光が外へ注がれていた。
入口横の駐車場に車を止めて彼女はどこにいるのかとキョロキョロしていたら、突然助手席側の窓を叩くコンコンという音がした。 その音に反応して目を向けると、窓の外には小雪さんの輝くような笑顔があった。
本当に来てくれたんだ。僕はその事だけで大満足だった。

 その後ドライブスルーでハンバーガーを購入し、僕らはそれを車の中で頬張った。 小雪さんは白いワンピースをケチャップで汚してちょっとショックを受けていたようだ。 でもすぐに立ち直り、僕らはそれから当てもなく車を走らせながら2人きりの時間を過ごした。 外が真っ暗になっても、日付が変わりそうな時間になっても。
車の中は密室。エレベーターの中よりずっと彼女との距離が近い。
小雪さんは特に行き先をリクエストする事もなく、ただグルグルと町中を走り続ける僕に文句を言う事もなかった。
翌日は雨の予報が出ていて、夜空には雲がいっぱい浮かんでいた。 でも僕の心は晴れ晴れとしていた。
交差点に差しかかり信号待ちで車を止めると、隣で微笑む小雪さんをただじっと見つめた。 彼女も大きな目を見開いて真っ直ぐに僕だけを見つめてくれていた。
「優作くんは、今いくつ?」
彼女の小さな口から "優作くん" という言葉が出た。たったそれだけの事で、すごくドキドキしてしまう。
「来月で、19になるよ」
僕はさりげなく誕生日が近い事をアピールした。
「じゃあ、私の方がちょっとだけお姉さんだね。私は5月に19になったの」
5月。彼女の誕生日は5月。来年の彼女の誕生日まで、僕らは一緒にいられるだろうか。
「ねぇ、犬が乗ってるよ。すごく大きい犬!」
突然彼女がそう言いながら前の車を指さした。 たしかに、前の車の助手席から大きな白い犬が顔を出していた。
やがて前の車が動き出したのを見て、僕も車を発進させようとアクセルを踏み込んだ。 スムーズに車を出さないと、後ろの車からクラクションを鳴らされてしまう。
次の瞬間。クラッチを上げようとして足に神経が集中していた時、僕は左の頬に温かいものを感じた。
突然頬に触れた小雪さんの柔らかな唇。
足に集中していた神経が一気に分散し、車は横断歩道の手前でエンストした。
夜の交差点に、けたたましいクラクションが鳴り響いた。

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