水のある風景
 4.

 大学2年の夏、良ちゃんが僕に向き合って座り、ある事を打ち明けた。
彼の目は真剣そのものだった。
「チャンスがきたんだ。僕、夏休みに海外へ写真を撮りに行く」
え? 本当に? すごいね良ちゃん。
「実はさ、知り合いになったフリーのカメラマンに一緒に行かないかって誘われたんだ」
そうなの? それは良ちゃんの腕がいいからなんだよね?
「すごいのが撮れたら一発で有名になれるかもしれないだろ?」
どういう事? すごいのって、どんなの?
「中東の方へ行こうと思ってる。あの辺りは今内戦が勃発してるんだ」
ちょっと待って。そんな危険な所へ行くつもりなの?
「今のままじゃプロになれるかどうか分からないし」
ダメ。ダメだよ良ちゃん。どうしてそんなに焦ってるの?
「お前は連れて行けないけど、待っててくれるだろ?」
嫌だ。そんな所へ行かないで。心配で心配でたまらないよ。
「もう決めたんだ。そんなに心配いらないよ。ちゃんと無事に帰ってくるから」
そんな保証がどこにあるの? 嫌だ。僕は絶対に反対だよ。良ちゃん、どうかしてるよ。
今まで僕はずっと良ちゃんの味方だった。でも、今回だけは違う。

 動けないのがもどかしい。
僕が人間だったら、良ちゃんを縛りつけてでも絶対に行かせないのに。

 良ちゃんはまたウソをついた。彼はママにシンガポールへ行くと言ったんだ。
厳密に言うとウソではないのかもしれない。彼は最初はシンガポールへ飛び、そこから他へ移動するつもりなんだ。
僕は何度もママに訴えた。
ママ、良ちゃんはウソをついてるんだ。お願いだから彼を行かせないで。

 心の叫びは虚しかった。彼は少しずつ準備を進め、あっという間に出発前日になってしまった。
僕は彼に対して怒っていた。本当は僕が行くなと言ってる事を分かっているくせに、ずっと聞こえないフリをしていたからだ。
どうして?
親友の僕がこんなに言ってるのに、どうしても行くの?
僕はもう分からない。良ちゃんの気持ちが分からない。

 その日の夜、彼はすっかり準備を整え僕に向き合って座った。
良ちゃんが僕にあらたまった話をする時はいつもこうだった。
「機嫌直せよ。まだ怒ってるのか?」
当たり前だろ! 良ちゃんのバカ!
「ちゃんと帰って来る。約束するよ。だから、そんなに怒らないで」
そのセリフはもう聞き飽きたよ。
「昔、小さい頃パパが話してくれた事があったんだ。パパの夢はカメラマンになる事だったんだって」
初耳だ。確かにパパはよく写真を撮っていたけれど。
「パパにもチャンスがあったんだって。親に内緒で大きいスタジオの就職試験に応募して、何百人もの中から10人までしぼられて、その10人にパパも入ってたんだって」
そうなんだ。全然知らなかったよ。
「だけど面接の日が商社の就職試験の日と重なって、親の手前商社を蹴るわけにはいかなかったから、しかたなくその日は商社の方へ行ったんだって」
そう……
「スタジオの方には当日どうしても都合が悪いからって無理言って別な日に面接してもらったみたいなんだけど、他の会社を受けてるの?って言われた時にはもうダメだな、って分かったらしい。 結局パパは商社からもスタジオからも内定をもらえなかったんだ」
だから?だから行くっていうの?
「パパが言ってた。すごく後悔してるって。自分のやりたい事を優先させるべきだったって。そして僕には好きな事をやれって、そう言ってくれたんだ」
分かるよ。分かる。だけど……
「チャンスなんてそうそう巡ってくるものじゃないだろ? だから、僕は行くよ」

 僕は彼の決心が揺るぎない事を悟った。
良ちゃんの目を見ればそれが分かる。
良ちゃんは自分でそう決めたんだね? もう僕が何を言ってもダメなんだね?
分かったよ。納得はできないけど、良ちゃんがそこまで言うならしかたがない。
僕は、ちゃんと待ってるから。
いつまでも良ちゃんの帰りを待ってるから。

 僕は出発の朝、部屋の中から良ちゃんを見送った。
良ちゃんはいつもと変わりがなかった。
朝起きて空色のカーテンを開け、一度大欠伸した後僕におはよう、と言う。
それから一旦部屋を出て顔を洗って戻って来た後、のんびりと出かける用意を始める。
ドライヤーで髪を整え、持ち物をチェックし、それから洋服を着替える。
Tシャツにジーパン。それに紺色のキャップをかぶり、左の肩に黒いカメラバッグを下げる。
ただその日いつもと違っていたのは大きなスーツケースを持っているというところだけだった。
良ちゃんは僕に特別な事は何も言わなかった。
いつものように行ってくるね、と一言言っただけだった。
良ちゃんは太陽の光を背負ってこの部屋を出て行った。

 僕はその途端不安になった。
昔お祭りの時に迷子になった時と同じ不安だ。
良ちゃんはまたこの部屋へ帰って来てくれるだろうか。
帰って来なかったらどうしよう。
昨日まではいつも必ず良ちゃんがこの部屋へ帰って来てくれるという確信があった。
だから1人でいる時間も平気だった。
でも帰って来るかどうか分からない人を待つのはつらい。
今までだって良ちゃんが外の世界で何をしているのかすべてを知っていたわけではない。
僕が知っているのはこの部屋にいる時の彼だけだった。
でも、ここへ帰って来た時の彼の顔を見ればだいたいの事は分かった。
機嫌がいい時、悪い時。
でも、今日からはそれすら知る事ができなくなるんだ。
毎日良ちゃんはどこでどうやって生きているのか。僕はその事ばかり考えるに違いない。
僕はこの部屋で1人彼の身を案ずる事しかできないんだ。
なんて無力な僕。
僕はこの時、生まれて初めて挫折感を味わった。

 その日から僕は太陽と疎遠になった。
僕の居場所に太陽の光は届かない。
それに、良ちゃんの太陽のような笑顔も見られない……

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