3.
その日は陽子さんの誕生日だった。
店長はよく来るお客さんの誕生日をさりげなく聞き出してカレンダーに書き込んでいるマメな人だった。
俺は前の日から店長に言われていた。
「明日は陽子ちゃんの誕生日だ。お前、なんでもいいからプレゼントを用意しとけよ。絶対だぞ!」
というわけで俺はその日の朝10時きっかりに目覚ましをかけ、買い物に出かける事にした。
何を買ってあげたら喜ぶのかなんて事はまるで考えもせず、とりあえず電車に乗って街へ出た。
昼間の街は平日だというのにやたらと人が多かった。
ハッピ姿でビラくばりをしている男から派手なチラシを受け取る。
なるほど。今日、大きな家電量販店がオープンしたらしい。
俺は風呂場の電球が切れそうになっていた事を思い出し、人の波に乗ってオープンしたてのその店へ向かった。
行くあてもないし、ちょっと寄ってみよう。そんな軽い気持ちだった。
来るんじゃなかった。そう思った時にはもう手遅れだった。
店の前には信じられないほどたくさんの人がいた。
引き返そうとしたが、人に押されてとても流れに逆らう事ができない。
俺は諦めてしかたなく入口の方へ向かって歩いた。
「押さないでください! 押さないでください!」
ハッピ姿の店員がスピーカーに向かって叫んでいる。
そんな事言われても無理というものだ。自分の意思とは裏腹に後ろからどんどん押されて転ばないようにするだけでやっとだったんだ。
店内へたどり着くまでどのくらい時間がかかっただろう。
恐らく入るだけで30分以上の時間を費やした。
しかし、店内は外よりまだひどかった。
これじゃ人を見に来たようなものだ。商品になんかとても近づけやしない。
オマケに店の中の照明がやたらと明るくて目がチカチカした。
照明を落としたバーで働いている俺にはとても耐えがたいほどの強い光だった。
あちらこちらで店員が「この商品、あと3つで売り切れですよ!」などとでかい声を張り上げている。
唖然として立ち止まっていると後ろから次々と人がぶつかってきた。
このままじゃ人に酔ってしまう。出口を探そう。出口はどこだ?
入るのに30分。出口を見つけるのに10分。出口へたどり着くのに20分。
結局何もしないで1時間も無駄にしてしまった。
ばかばかしい。
俺は外へ出て思いきり新鮮な空気を吸い込んだ。はぁ、生き返った。
入口の方へ歩くとまた人ごみにぶつかる。
そう思った俺は別な道から繁華街へ戻ろうと回れ右をした。
家電量販店の裏側を歩くと、店の名前がでかでかと入った白い配達用のトラックがズラリと並んでいた。
俺はそれを数えながらゆっくりと歩いた。
1台、2台、3台、4台。
5台目のトラックが見えてきた。俺は思わず立ち止まった。
トラックの側には運転手らしき作業服の男がいた。
彼は地面に落ちて角のへこんだダンボール箱を慌てて拾い上げるところだった。箱の中身は恐らくテレビか何かだろう。
「あれほど言ったのに何やってるんだよ!」
彼を怒鳴りつけているのは俺と変わらない年頃の若い男だった。
「すみません」
申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げている中年の男。俺はその男に見覚えがあった。
「どうするんだよ! 弁償できるのか?」
「は、はい。すみません」
「全く、使えねぇ野郎だな」
「すみません」
俺はその場を駆け出した。とても見ていられなかった。
あれは間違いなく親父だった。
もう3年も会っていないけれど、白髪が極端に増えていたけれど、あれは間違いなく親父だった。
どこをどう走ったのかまるで分からない。
気が付くとものすごくでかいビルの前まで来ていた。
俺は息をはずませながらその超高層ビルを見上げた。首が痛くなるほど背の高いビルだった。
視線を落とすとビルの前に1台の黒塗りの車が止まった。外車だ。
運転手が降りてきてゆっくりと後ろのドアを開ける。すると後部座席から紺色のスーツに身を包んだ初老の紳士が降りてきた。
彼がビルの入口へ向かって歩くと、その辺りにいた人たちが全員立ち止まって彼に頭を下げた。
俺は再び駆け出した。
とても恥ずかしかった。恥ずかしくてたまらなかった。
結局俺は何も買わずに帰りの電車に飛び乗った。
買ったものといえばアパートへ帰る途中に寄ったコンビニのバナナアイスだけだった。
アパートの鍵を開けて中へ入る。いつも通りの殺風景なワンルームだ。
そこには何もなかった。
フカフカのベッドも、大画面のテレビも、使い慣れた机も、何一つなかった。
壁に寄りかかって座る。座り心地のいいソファももうここにはない。
17歳の夏。あの時までは幸せだった。
欲しいものはなんでも手に入れる事ができた。
あの頃が夢のようだ。
物心ついた時から親父はすでに偉い人だった。俺は社長さんの息子だった。
生まれた時からでかい家に住んでいた。
中学生になった頃にはもう漠然と自分の将来を思い描いていた。
適当な大学を出て親父の後を継ぐ。迷う事なくそんなふうに思っていた。
17歳の、あの夏までは。
「うちの会社はもうだめだ。もうこの家へは二度と戻って来られない。だから、よく目に焼き付けておきなさい」
17歳の夏の夜、突然親父にそう言われた。
俺は信じられない思いがした。
その時まで、本当にその時まで親父は会社が傾いている事など微塵も感じさせなかったからだ。
親父はその日の朝もいつものようにバッチリとスーツをきめて外車に乗って、颯爽と家を出て行ったんだ。
その晩帰って来た親父がまさかそんな事を言うなんてとても想像がつかなかった。
俺は住み慣れた家の中を見て回った。台所から風呂場まで、全部見て回った。
フカフカのベッドで眠る最後の夜。
あの時ほど眠るのが怖かった夜はない。
眠ってしまえばあっという間に朝がやってくる。
朝が来るのが怖かった。怖くてたまらなかった。
朝なんか来なければいい。もうこのまま時が止まってしまえばいい。
だけど、時間は無情にも刻々と過ぎていく。
あの静かな部屋の中に響いていた目覚し時計の秒針の音。あの音はしばらく耳に残って忘れる事ができなかった。
空が白々としてきた。
この家で過ごす最後の朝がやってきた。
さぁ。今日は何をしよう。
そう思った時、特別な事は何も頭に浮かばなかった。
いつものように学校へ行き、友達と笑い、そして最後のバナナパフェを食べよう。
学校へ行く支度を始めると、母さんが涙をいっぱいためた目でこう言った。
「和也、学校へ行くのは今日が最後よ。会いたい人にはちゃんと会っておいて。分かったわね?」
俺が何よりも1番つらかったのは高校を退学しなければならない事だった。
今日で突然高校生活が終わる。今日で魔法がとけてしまう。
そんなの、あまりに急すぎてまるで実感が沸いてこなかった。
俺たち家族は今にも崩れそうなボロアパートで一からやり直さなければならなくなった。
現実を受け入れられない父親と泣いてばかりの母親。
とても耐えられなかった。
俺は1年間必死でバイトしてアパートを借りる金を作り、18の時両親を残してあのボロアパートを出た。
今日の親父の姿が頭をかすめる。
あんな息子みたいな年のヤツに怒鳴られて頭を下げる親父なんて決して見たくはなかった。
親父はあんなふうじゃなかった。昔は皆が親父に頭を下げていた。
そんな親父がすごくかっこよく見えた。自分もあんなふうになりたいって、小さい頃からずっとそう思って生きてきた。
なのに、今日の親父はなんだ。あんなの俺の知ってる親父なんかじゃない。
俺は足元に転がっているコンビニの袋を手に取った。
中には大好物のバナナアイスが入っていた。
一口食べてみる。
うまい。これだけはあの頃と変わらなくおいしい。こいつだけは俺を裏切らない。
泣きながらバナナアイスを食べたのはこれが初めてだ。
小さい頃からこれさえあれば機嫌がよかったはずなのに。
バナナパフェ。
バナナパフェが食べたい。最後に食べ損ねたバナナパフェが食べたい。
今日の親父の姿は強烈すぎた。とても1人で受け止めきれるものではなかった。
俺はポケットから携帯を取り出し、ずっと心の中で封印してきた番号をゆっくりと確実に指で押していった。
4年間忘れようとしてもどうしても忘れられなかったあいつの携帯の番号だ。
あいつがまだこの番号を使っているかどうかは確信がない。
番号を入力した後、俺はついに発信ボタンに指をかけた。
だめだ。やっぱりだめだ。
俺は急いでその番号を打ち消した。
今の俺じゃだめだ。こんな俺じゃだめだ。
あいつだってこんな俺を、だめになった俺を見たくはないはずだ。
今の俺はあいつが好きになってくれた俺とはまるで違いすぎる。